第十六話 守り刀
熱が下がったようだ。夜が明けたのか。一人で起き上がれそうだ。ゆっくりと寝返り、体を横向きにしてみる。何だろう、誰かに見られている気がする。早起きの父さんが心配して様子を見に来てくれたのか。でも、いつもと人影が違う。ずいぶんと大きな黒い影。誰だろう。優しい目でおれを見つめている。少し寒い。朝の冷気か。もう夏も終わりだ。
「
薄暗がりの中、よく目を凝らすと、あぐらをかいた大きな男が榧丸を見つめている。
「あっ、その声は
顔はよく見えないが、夜着を掛けて寝ていた榧丸は、
「おっと、思ったより元気だな」
竜ノ介は榧丸の勢いで、そのまま仰向けにひっくり返り、大の字に寝転がる。榧丸は
「やっと会えた。竜兄だ」
榧丸は竜ノ介の胸に頬を乗せて、手を伸ばして太くてふさふさとした眉を何度も、指でなぞるように撫でた。竜ノ介はされるがままになっている。
「おい、子犬か何かと間違っていないか」
「子犬じゃない。大きな犬だ」
「おまえは、犬にじゃれつく子猫ってところか」
竜ノ介が
「あやまりたいことがある。せっかく会いに来てくれたのに、竜兄の刀はいつ出来上がるかわからない。おれは一年前から具合が悪くて、刀鍛冶の修行を休んでいる。数日前からは熱が出て、頭が割れそうに痛くて伏せっていた。
竜兄の胸に額を押しつける。
「何だ、そんなことか。刀なんて、いつでもいいよ。急ぐことはないさ」
「だって、竜兄は立派な武士になったんだから、腰に差す名刀が必要だろう。
昨年の六月二十三日に八王子城が落城した後、
小田原城は二十二万の大軍にとり囲まれても、ずっと籠城し続けると思っていたよ。どんな敵も城下を囲み、高くそびえる土塁の
八王子城で戦った武将たちの首を小田原城内にいる子息たちに送りつけたり、舟で連れてきた小田原城に立て籠もっていた武将の妻子を、
北条氏政と弟の氏照様は切腹して介錯された。氏照様の首を小姓の
中山勘解由の戦ぶりに、前田利家と上杉景勝が惚れ込んだって。一騎当千の勇者を無駄死にさせてはいけないと、降伏するように言ったけど、勘解由様はそれを断り、最後まで戦い八王子城で散った。
小田原城にいた中山助六郎は、父親があまりにも見事な武将だったから、徳川家に召し抱えられた。今では徳川秀忠に中山家の高麗八条流馬術を伝授していると、父さんが言ってた。よかったな。竜兄は助六郎様の家来だから、馬術の稽古もしているよね。竜兄の騎馬武者姿を見てみたいな」
「ははは、おれは相変わらずだよ。門番をしている」
「そうかい。出世して忙しくておれのことは、すっかり忘れていたんだろう」
「まさか、かわいい弟を忘れるわけがない。いつだって想っていたよ」
榧丸の柔らかい唇に触れる物がある。それは人差し指だった。
「竜兄の指、妙に冷たいな」
その指をくわえて舌でちろりと舐めた。
「へへへ、くすぐったい」
「竜兄、嘘言うなよ。美丈夫だから、皆に好かれていて友だちが多くて女にもてる。楽しく暮らしているんだろう。おれのことなんて忘れて当然さ。でも、おれは忘れないよ。いつも想っていた。竜兄の無事と幸せを祈っていたよ」
「まいったな。確かに、おまえのことを忘れていた日もあった。実は好きな女がいたが、やっぱりおまえが一番だ。これは嘘ではない。こうして約束通り、座間まで会いに来たのだから、許しておくれ。ずいぶん髪が伸びたな。手触りのいい綺麗な髪だ」
大きく無骨な手で頭、首筋、背を優しく撫でてくれるから、何だか心地よくなってきた。体が溶けていくようだ。また眠くなってきた。
「ところで竜兄は、中山家の
榧丸は再び深い眠りに落ちていた。目覚めた時には、すでに朝日が狭い部屋の
「竜兄、何処へ行ったの。そうか、先に鍛錬場へ行ったのか」
母の形見の藍色の小袖を羽織り立ち上がる。髪を束ねる事も無く、ふらつきながら壁を伝って庭へ出る。頬に秋の気配を感じた。
「おっ、榧丸だ。久しぶりだな。体の具合はどうだ」
「病が治ったのか。だが、まだ顔が青白いぞ」
「髪が伸びたな。美人の幽霊みたいだ」
小屋の前では兄弟子たちが、榧丸を物珍しそうに見つめて、口々に声をかけてきた。榧丸は何も言わずに恥ずかしそうに微笑む。
鍛錬場から、慌てて源治郎が出て来た。
「昨夜までは熱にうなされていたが、今日は具合が良さそうだな。でも、まだ無理するな。寝ていろ。あとで、婆さんに粥を持って行かせるから」
「もう熱は無いよ。咳もあまり出ない。それより今朝は、やっと竜兄が会いに来てくれたね。もう、なかにいるのかな」
「何のことだ。誰も来てやしないよ。お前の部屋に竜が立ち寄ったのか。この
源治郎が目を細める。
「うん、二年ぶりに会えて嬉しかったよ。しばらく、ここで父さんの仕事を見ていてもいいかな」
小屋へ入ると壁ぎわに置かれた木の道具箱の上に腰掛けた。
源二郎は、刀の焼き入れのための
「まだ、咳こんでいるな。早く部屋へ戻れ。気になってかなわん。それから、わしの部屋に
「わかりました。でも、久しぶりに父さんの刀の焼き入れを見たいから、もう少し、ここに居させてください」
炎で焼かれて赤くなる刀身の色を見やすくするために、弟子たちは開け放たれた戸を閉め、小屋を暗くする。
源二郎が、炎から引きずり出した赤い刀を右手に
今朝は竜兄に会えた。久しぶりの刀の焼き入れも見た。満ち足りて晴々とした気分となった榧丸は鍛錬場を出た。屋敷の敷地内にある
源二郎の部屋へ入ると、枕元に置いてある短刀を手にして鞘から抜く。
「ああ、美しい。
さぞや名のある刀匠の物だろうと思い、銘を確かめたくなった。刀身から
「天正十七年 竜 為榧丸」
榧丸は息を飲む。短刀の
「かやまるのためだと。二年前おれのために作刀したというのか。それなら竜兄から手渡してもらいたかったよ。どんなに嬉しかったことか。竜兄の馬鹿野郎」
夜着を被ってうずくまった。
夜になると、源二郎が芋粥と
「具合はどうだ」
「もう大丈夫。明日から小屋へ手伝いに行くよ」
「まだ、しばらくはのんびりしていろ。こんなに痩せちまって、力も無いのに刀鍛冶の手伝いはできないだろう」
親指と人差し指の二本で手首を掴む。
榧丸は無言でうなずきながら指を振りほどき、箸で粥に浮かぶ里芋をつつく。細い首と肩を黒髪が覆っている。
「実は一昨日、おまえに会いに若い
「父さん、おれも一緒に行きたい」
「下溝は近いが、まだ出かけるのは無理だ。とりあえず、わしが行ってくるから大人しく待っているのだ」
「わかったよ。待っているから、早く話しを聞かせてよ」
おれは大切にされている。でも、いつまでも小さな子ども扱いされているような気がして嫌になる。長い一日を榧丸は一人過ごしていた。落ち着かない様子で庭を散歩する。そして短刀をじっと見つめるばかり。
「竜兄の短刀を見ていると心が落ち着くよ。
短刀に話しかけていた。
日暮れ前に源二郎が、顔を曇らせて帰って来た。
「榧丸、残念な知らせだ。貞心尼は亡くなられたそうだ。寺で聞いたところによると、貞心尼とは北条氏照様の娘の波利姫だ。八王子城に居たという姫は生きていたのだな。北条家滅亡後、中山助六郎の室となったが、お優しい姫だったのだろう。すぐに戦乱の世をはかなんで出家されたとか。無理もない。落城の時に、さぞやおつらい思いをされたのだろう。そして昨日、同じ寺の尼僧の目の前で相模川に身投げされたという。今、大騒ぎになっている。まだご遺体は見つかっていないとのこと」
「何だって。
父と子は互いに顔を見合わせ、しばらく沈黙した。
「竜の短刀は銘以外は見事な出来映えだ。初めて作刀したとは思えぬほど。もっと褒めてやれば良かったと、後悔している。引き留めるべきだった。足軽なんぞにならなければ、名を残す刀匠になったかもしれない。最初で最後の竜の刀は、おまえのための守り刀だ。おそらく、竜は小田原城へは行っていない。中山勘解由の家来として、最後まで八王子城で戦ったに違いない。この短刀は竜の形見の品」
淡々と語っていた源二郎の目から突然、止めども無く涙が溢れ出した。
「父さん、泣くなよ。まさか、そんなわけない。竜兄は昨日、おれに会いに来たんだぞ」
榧丸は初めて大声で父親を怒鳴りつけた。
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