第十四話 二人の姫君
百姓姿の逍風居士は、無心に矢を射続ける少年の肩にぽんと手を置いた。少年は立ち上がり振り向く。陣笠から見える顔は泥だらけ。薄い唇は
「弓矢が尽きた」
興奮気味の甲高い声で叫ぶ。聞き覚えのある声。
「あ、あの少年は波利姫様か」
「そうだが、今頃気づくとは、ずいぶんと
「では、あの逍風居士の隣にいたのは、小梅か」
小梅は笑顔の可愛い娘だが、あんなに姿形も美しかっただろうか。
二つ折り編み笠のせいか。
「うむ、本物の姫より、よほど品が良くて姫らしい。かたい花の
鼻の下を伸ばしてにやにやしながら矢助が言う。
「何だと、そんなこと」
竜ノ介は耳を疑う。やがて、もやもやとした怒りが湧き上がる。
「戦が始まる前に逃げればよかったのだが、姫は敵と戦わずして逃げるのは嫌だと言う。だから、少しの間だけ矢を射らせた。山の上の曲輪には我らを見知る、風魔の者がそれぞれ二人ずつ待っている。近づいても敵と間違われることは無い」
矢助が言う。
その言葉に竜ノ介は少しだけ
「爺、わらわは中の曲輪、中ノ丸へ立ち寄りたい。中山勘解由に会いたい。勘解由の奥方のさち殿は
無邪気に波利姫は言う。
「いいかげんしろ。これ以上わがままを言うでない。
「ふん、つまらぬ」
御主殿の西の奥にある殿の道へ向かう。最も早く山頂へ着くことができる道だ。逍風居士を先頭に三人が登って行く。その少し後に矢助、竜ノ介が続く。おそるべし風魔の里の者たち。小梅の話しによれば、風魔の里は山深い。砦が山頂にあるらしい。だから山道に慣れているのか。姫も小梅も足の早さが常人ではない。軽い粗末な物だが甲冑を着けているせいか、体が重い。滝のような汗で着物が絞れそうなほど濡れている。ふと気づくと、竜ノ介は一人だけ離れてしまった。
かなり山道を登って来た。道が少し広くなっている場所で、四人は足を止めていた。ようやく追いついた竜ノ介は息を切らしながら、姫の前にひざまずく。胴の下の
「波利姫様、これを」
「何じゃ、汗臭い。中身は短刀か。風魔の杖があるから、いらぬ」
姫は
「これは守り刀です。どうか、お納めください。そして」
竜ノ介は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「姫、せっかくの家臣からの贈り物。もらっておけ」
逍風居士が笑顔で言う。
「仕方がない。だが
姫は汗に濡れた巾着袋を、指でつまんで竜ノ介に投げ返すと、勢いよく短刀を抜いた
「わらわは刀剣のことは、よくわからぬが。これは名刀じゃ。下原刀の名工が作刀したものか。わらわを守ってくれるに違いない。月の光を集めたような美しい刀」
姫は心から喜んでいる。竜ノ介は無言で頷くだけだった。己が打った刀だとは言いだせない。だが、生まれて初めて刀を褒められて、天にも昇る心地がした。
刀の姿に見とれながら、名残惜しそうに
「ああ、竜ノ介様からの守り刀。姫がうらやましい」
涙声でつぶやき、うつむいた。
折り編み笠のせいで顔はよく見えないが、明らかに小梅は怒っているようだ。汗で濡れた緋色の巾着袋を、その柔らかな手に握らせた。
「すまん、あげられるような物は、これしかない」
「ふふふ、嬉しい。竜ノ介様の汗の匂いがいたします」
その甘い
「ふん、竜ノ介がそんなにいいのか。何ならわしの
軽口をたたく矢助の腕を小梅は黙って
「痛い。風魔の女子は気性が荒くて困る。わしがおまえを女にしてやったのを忘れたか。初めての男だというのに、まったくつれないな」
矢助が口をとがらせて言うが、誰も聞いてはいない。
「しっ、誰か人が来る」
逍風居士が囁いた。
四人は素早く地面に体を伏せたが、体の大きな竜ノ介は一瞬遅れる。
「あそこに誰か居るぞ」
「やれやれ、見つかっちまったか」
矢助がめんどくさそうに、立ち上がった。
どこから来たのか、六人の敵の雑兵が岩陰からこちらの様子をうかがっている。逍風居士は腰に差していた鎌を手に取った。
「おい、そこの爺、そんな
そう言いながら一人が岩陰から飛び出してきた。
その時、何か黒いものが勢いよくが飛んだ。それは鎌の尻に繋がっている、先に小さな
「ぎゃー」
鮮血が飛び散る。何が起こったのかわからぬうちに雑兵は絶命した。
「鎖鎌か。おのれ、ただの百姓じゃないな」
思いがけぬ仲間の死を、あっけにとられて見ていた雑兵たちは、血の匂いに身震いしながら我に返る。槍を突き出し身構えたが、逍風居士は鎖鎌を自由自在に操つる。たぐり寄せられた鎖が再び勢いよく放たれていた。狙いを定めた一人の雑兵のこめかみに、鉄の重りが命中。雑兵はばたりと倒れる。
矢助が地面を蹴るように飛ぶ。敵の首を狙って横一文字に刀を斬りつけた。その素早さによけきれず、敵は喉を切られて絶命する。
竜ノ介は仁王立ちで、五尺の槍を地面と水平に構えた。すると、その姿に恐れをなしたのか、兵たちは岩陰からじりじりと離れて後ろに下がっている。竜ノ介は岩の上に飛び乗った。槍を頭上に大きく振りかぶり、逃げようとする敵の頭を狙いながら飛び降りる。細い木を竹の皮で幾重にも巻いた
「おれは、初めて人を
「いいぞ、さすがは姫の槍足軽。槍をしごく動きが早くて、正確だ」
矢助が褒める。
岩の向こう側では、小梅が姫を守るように抱きしめていた。いざという時は
「きゃあ」
絹を切り裂くような小梅の悲鳴と同時に、雑兵が地面に崩れ落ちる姿を竜ノ介は見た。小梅の小さな手に血塗られた
「小梅、やるな。いいのを持っているじゃないか。それは
小梅はこくりとうなづき、雑兵の衣の袖で血を
「これは、父の形見の
「ほほほほ、小梅は
姫も杖に仕込んだ細身の刀を抜いていた。
「この小梅が付いておりますから、姫様には指一本たりとも触れさせまぬ。姫様のお刀が汚れなくて、良かったです」
敵の雑兵たちを
「この者たちは真田の雑兵のようだが、どうも山の中腹が騒がしい。まさか、北側の
竜ノ介は、逍風居士が激しく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます