第六話 別れの音色

(一)


「やはり山の上は寒いな」

小宮こみや曲輪くるわで竜は身震いをする。山に吹く晩秋の風が身に染みるが、それだけではない。この山城が凄惨な戦場になることを憂い震えていた。汗がひいた体が冷たい。吐く息が白い。辺りの壮大な景色まで白くなっていく。雲一つ無かったはずの青空に、いつの間にか厚い雲が現れて、暖かい日差しを覆っていた。


「まったく、どうなることやら。百年続く五代小田原北条家が、あっさりと滅びるわけもないが、もしや国が広くなり過ぎて守り難くなったのか」

林蔵がため息をつく。


山頂の曲輪へ登る途中にある井戸で喉の乾きを癒やしたが、空腹に襲われる。


「ま、おれたちには、どうしようもない事だ。寒いから、中ノ丸の館へ行って一休みしよう。中山家の番人がいるはずだ。白湯さゆでもねだってみるか。助六郎様のために持ってきた干飯ほしいいがあるから、二人で喰おう」

林蔵はふところから竹皮の包みを取り出した。


「おお、そりゃ、ありがたや。さすがは林蔵殿、足軽頭あしがるがしら様だ」

竜がおどけて拝むように手を合わせる。


「ふん、ふざけるな。かしらの座は狙っているが、まだ頭じゃねえ」

林蔵の細い目が鋭く光った。



 空腹を満たして、元気を取り戻した二人はめの城という名の曲輪や、雄大な富士山が見える富士見台へ向った。


「さすがに歩き疲れたな。今日はからめ手へ行くのは止めよう。日が沈んでしまう。搦め手側はおれでも、歩くのに苦労する急峻きゅうしゅんな山道。敵は大手門から攻めてくるはずだ。抜け道が無いことも無いが、まず敵が攻めくることはありえないだろう。北に浄福寺城、小田野城があって、二つの出城が八王子城の搦め手を守っている。

 そろそろ帰るとしよう。この山にはたくさんの曲輪があって、建物も井戸もある。登ってくる敵を阻む堀切ほりきりは、堀の中を歩く敵を上から矢で射るのだ。尾根を横に行こうとする敵を防ぐのは竪堀たてぼり。守りやすいように、あちらこちらに人の手が入っている事がわかっただろう。これからまだ、戦のための山城の普請ふしんが続くというわけだ。それぞれの武将たちの曲輪に館も建てる」

二人は山道を下った。


 南の山の尾根にある太鼓たいこ曲輪を見てから、急斜面の人一人がやっと通れる程の細い道を下り、豊かに水をたたえる溜池ためいけほりの岸辺を歩く。


「この深い水堀の向こうの山麓は今朝歩いた。八王子城の中で最も広い曲輪。御主殿が建つ御殿曲輪だ。崖の上に見えるのは月見台。横には猿楽の舞台があるらしい」

「ほお、それは風流だな。水堀を見下ろしながら月を見たり、猿楽を演じるたりするのか」

竜が向こう岸を見上げる。


「おや、月見台の上に人影が見えるぞ。かすかに笛の音がする。この音色ねいろ一節切ひとよぎりか」

林蔵は人物を注意深く見上げた。


「一節切の音色とは、こんなに澄んでいるのか」

竜は驚き立ちつくす。


「波利姫の音とは全く違うだろ。あそこで笛を吹いているお方は御館様かもしれない。これほど深みのある美しい音色を、おれも聴いたことがない。そうだ、間違いない。御館様が幻の名器の大黒だいこくを吹いておられる」

林蔵は興奮を隠しきれない様子だ。


「おまえ、つっ立ってないで座れ」


二人は地べたにひれ伏す。しばし目を閉じて聴き入る。稲穂が風に揺れて心地良い黄金色の風景が広がるような、月見櫓から風に乗って美しい大黒の音色は流れてくる。


 笛の音が止むと、恍惚としていた二人は我に返る。人影は消えていた。夢見心地のまま立ち上がり、再び歩き出す。


「御館様の笛の音色に心が洗われた。穏やかな気分だ。今日は良い日、何もかも初めての事ばかりだな」

竜がつぶやく。


眼下に大きな水音を立てる滝が見えてきた。


「ここは御主殿の滝と呼ばれている。堰堤えんていをはさんで溜池堀と繋がっていて、城山川に流れ込んでいるのだ」


上からのぞき込む。湿った冷気に二人は震える。勢いよく滝つぼに落ちる水しぶきが跳ね上がりきらめき、あたりの草や土をしっとり濡らしていた。



(二)


 地味な灰色の小袖に紫色の羽織を着た若い娘が、中山なかやま勘解由かげゆ屋敷の前を行ったり来たり。ついに一つの小屋に狙いを定め、細い腰を折り曲げて小屋の戸口から奥を覗く。


「おい、何しているんだ。怪しい者め。金目かねめの物は無いぞ。ここは中山家の宿舎だぞ」

仕事を終えて、一足早く帰ってきた炊事当番の雑兵は髭が濃く熊を思わせる。か弱い娘の腕をとらえる。


「すいません、でも盗人ぬすっとではありません。人さがしに来ただけです。ここにに中山様の家来の方々が寝泊りされているのですね」

雑兵に腕を強く引かれてよろけた。


「おう、そうだがおまえ、よく見るとなかなかの別嬪べっぴん。さては小娘、色気づいていた男をさがしにきたのか。どうも遊びではなさそうだが、一人でこんな飢えた虎たちの住処すみかまで来るとは、顔に似合わず度胸がある。だが、まだ誰もここにはいないぞ。そうだ、小屋の中で待つがいい。おれが相手をしてやろう」

舌なめずりしながら、顔を近づけ尻を撫でる。力ずくで小屋の中へ引きずり込もうとする。


「やめてください、女じゃない。男です」

戸口に必死につかまりながらあらがう。


熊吉は胸をまさぐり、残念そうに手首を放した。すると、そこへ林蔵と竜が山城から戻ってきた。


「ははは、また熊吉が女を連れ込もうとしている。悪い奴だな」

林蔵はにやにやと笑っている。


「あ、竜兄」

「おや、榧丸かやまるか。一体、ここで何してる」


「ふん、竜の稚児ちごだったのか」

吐き捨てるように言い、熊吉はすごすごと炊事場へ向かって行った。


「違う、おれは稚児じゃないぞ。刀鍛冶職人だ」

そう叫ぶと、榧丸は悔しそうに熊吉の背をにらみ、次に竜を睨みつけた。


「何って、竜兄に会いに来たんだよ。ちょっと話しがある」

鈴を張ったような切れ長の目に怒りの炎が見える。


「竜、大事な話があるようだな。外は寒いから入ってもらえよ。まだしばらく皆帰ってこないから」

いつも細やかな気配りをする林蔵が言う。


「大丈夫です。ちょっとその辺りを散歩してきます。さあ、榧丸行こう」

以前のように肩を抱き寄せたが、榧丸は腕から逃れて先に歩いて行ってしまった。

「おい、待てよ、何怒っているんだよ」


 夕暮せまる、人気ひとけの無い道を二人はあてもなく歩く。話があると言っておきながら、榧丸は貝のように口を閉じたまま前方を早足で歩いて行く。ついに竜は肩を掴んで立ち止まらせ、顔を覗き込んだ。


「いったい、話とは何だ」

「どうして、会いにきてくれないの。近いのに」

「すまん、忙しくて」

「好きな女ができたのか」

「そういうわけではないが」

「竜兄を遊女たちが取り合ってるって噂を聞いたよ」

「ははは、まさか誰がそんなことを言うんだ」

「兄弟子たちが言っていた。竜兄は若くて美丈夫で、誰にでも優しいから皆が竜兄に夢中だって」

声変わり前の清らかな高い声が低く、くぐもり震えている。


「それから、どうして竜兄が初めて作刀した短刀を、おれに見せてくれないんだ。いつ見せてくれるかと、楽しみに待っていたのに」

今にも泣き出しそうな様子だ。


「それで怒っているのか。悪かった。すまん。だけど、残念ながら見せるほどの出来映できばえではなかったのだ。もっと上手く仕上がると思っていたのだが。素人しろうとに見せるならともかく、おまえは刀匠のせがれだから目利めききだろう。兄として、おれにも意地というものがあってだな」

竜は困り果てた顔で言う。


「ふん、それなら、もういいよ。明日の朝、親父は兄弟子たちを連れて相模国さがみこくへ行くことになった。俺も一緒に来いと言われている。親族が座間で刀鍛冶をやっていて、人手が足りなくて困っていて、小田原からの注文をさばききれないらしい。だから親父は八王子から座間へ移り住むと決めた。北条家からの許しも得た」


「なんと、それは良い知らせだな。八王子城下に住んでいれば、必ず戦に巻き込まれる。百姓の他にも城下に住む職人も町衆もすべて入城して兵として戦うしかない。心配していたのだ。もし、師匠や刀工たち全員が死んじまったら、相州の流れを汲む下原鍛冶の技が途絶えてしまうと」


「親父たちは出ていくけど、おれは行かないよ。ここに残って城内で戦う」

「馬鹿、何言っている。おまえは跡継ぎだろう」

「だって、竜兄を八王子に残して相模で暮らすなんて絶対に嫌だ。一緒に戦う。跡継ぎなら腕のいい兄弟子がなればいい」


竜はため息をついた。見かけによらず強情だと知っている。


「実は今日聞いた話だが、まだ誰にも言うなよ。御館様は八王子を出て小田原城へ入られる。中山様もおれたちを連れて一緒に行くことになるだろう。だから、近々おれも八王子から出る」

榧丸に腕を絡めて体をかがめ、小声で言う。


「え、本当かい。それなら、おれ一人で八王子に残っていても仕方ないかな。そうか、竜兄が小田原入城か。同じ相模国だ。小田原へ遊びに行ってもいいか」

「だめだ、おれはいくさに行くんだぞ。それに城下町ごと高い土塁どるいに囲まれているから入れない」

「それじゃ、戦が終わったら行くよ」

「そうだな。戦が終わったらな」


榧丸は子犬がじゃれつくように、嬉しそうにぴょんと飛び跳ねて竜の胸に抱きつく。竜は笑いながら頭を撫でた。


「おい、ちゃんと飯食ってるのか。一月ひとつき前より痩せたみたいだぞ。前から顔がこんなに細くて小さかったか」

「喰っているよ。仕事が忙しいからさ。竜兄がいなくなったから悪いんだぞ。竜兄は、また体が大きくなったみたいだな」

「すまん。刀鍛冶の仕事を途中で投げ出した。おれは何をやっても中途半端で駄目な奴だ」

「そんなことないよ、冗談だよ。竜兄はちっとも悪くない。何でもよくやってきたよ。これから武士として手柄をたてるんだろう」

心地良い透き通るような無垢な声音こわねで言う。


「そうだな、これからだ」

竜は榧丸の何気ない一言に助けられてきたことに気づく。出会ってからこれまでずっとそうだった。いつもおれを見ていて、心から励ましてくれた。


一月ひとつき前の満月の夜に竜兄に会いに来たんだ。でも、何処どこへ行ったら会えるのかわからなくて、城の通用門の階段下の広場で木の棒を使って土の上に、大きな俱利伽羅龍くりからりゅうの絵を描いた。見てくれたかな」


「いや、見ていないな。城の通用門の階段におまえが簡単に近づけるわけもない。もしや道を間違えて、どこかの寺の石階段の下の空き地に描いたのではないか」


「うん、そうかもしれない。それじゃ、呪法で地面に描いた俱利伽羅龍を月の夜空へ飛ばしたのだけど、見てくれたか」


「すまん、その夜は出かけていて、月夜を見ていなかったから、気づかなかった」

「そうだよな。どうせ、女抱いていたんだろう」

榧丸は残念そうにうつむいた。


「はははは、それにしてもそんな呪法まで使えるとは初耳だな。おまえは絵を描くのが上手うまいから、いつか刀身に彫ってくれ。その俱利伽羅龍は俺だろう。楽しみに待っているよ」


榧丸は竜の顔をじっとを見つめる。

「竜兄に似せて描いたって、どうしてわかったの」

「それは、なんとなく、そう思っただけだが」


竜が大きな両手で榧丸の頬を包むと、幸せそうな笑顔がこぼれた。空が夕暮れ色に染まり始めて、見つめ合う二人の姿を淡い黄金色に染め上げる。竜は太い腕で骨が折れそうなほど強く抱きしめた。苦しげに息をする榧丸だったが、すっかり竜に体をあずけている。


「竜兄の匂い、久しぶりだ。温かくて気持ちいい。はなれたくないよ。ずっと、こうしていたいけど、仕方ない。別々の道を選んだのだから」


二人は互いの匂いと温もりと胸の鼓動を感じ、それらを大切にふところにしまい込みながら、ゆっくりと体をはなした。


「おいおい、竜よ、向こうから見てたぜ。さっきから、道のど真ん中で何いちゃついているのだ。それにしても、ずいぶんと細っこい娘だな。そういうのが好みなのか」

野太のぶとい冷やかしの声が響く。


土木作業を終えた雑兵たちが、足を引きずるようにぞろぞろとやって来た。

数人が二人を囲んで好奇の目で見ると、榧丸は恥ずかしそうに竜の汗臭い背に隠れて顔を埋める。


「何を言うか。違う。弟さ」

「なるほど弟。どうりで髪が短いわけだ。衆道のちぎりを結んだ、血のつながらない弟ってわけか」

下卑げびた笑いを残して雑兵たちは、通り過ぎて行った。


二人はしばし見つめ合う。


「こんな着物を持っていたのか。温かそうでいいな。肌が白いから紫がよく似合う。妙につやっぽくみえる」

「えっ、そうかい。これはお袋の形見で、今ならおれにちょうどいい大きさだから、着ろと親父が言うんだ。寒くなったから。でも、この羽織のせいで女に間違えられたのかもしれない」

くるりと背を向けて、歩き出した。


「送っていくよ。師匠に挨拶したい」

「いいよ、竜兄、飯食いそびれるぞ。それに、明日朝に出発するから皆忙しい。おれも急いで支度をしないといけない」

「そうか、わかった。皆にもよろしく伝えてくれ」

「竜兄、今度はいつ会えるのかな。座間に遊びに来てくれてもいいぜ」


榧丸は振り返ることも無く去って行った。きっと泣いている。涙を決して見せない弟。竜はその細くはかなげな後ろ姿を見送る。夕日の奥に消えるまで。


「そういえば大黒の音色は、榧丸、おまえの声音のようだった」







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