第三話 べねちあんれえすがらす
(一)
「お父上、昨夜月を見ておりました。すると空に大きな何かが飛んで行きました」
「ほお、それは
「いえ、お父上、大鷹ではありませんでした」
「それなら、
「はい、そうかもしれませぬ。でも、顔と体が細長くて、まるで龍のようでした。お父上の刀身の彫り物、
「ほお、倶利伽羅龍王は不動明王の化身ぞ。それは素晴らしい物を見たな。相変わらず
敬愛する父、
城山の
「お父上、お体の具合はいかがですか」
少し甘えるような上目づかいで氏照を見る。
この戦乱の世、御年四十七のお父上は、お若い頃から寝る間も惜しんで
「今朝は、いつになく気分が良い。粥を一椀食べることができた。おまえと館で過ごせる日も残りわずかだ。病に
「まあ、いったい誰がそのような事を。ようやく音が出るようになったばかりですのに」
「ははは、そうか。牛太郎が波利姫は、たいそう筋がいいと言っておったぞ」
「牛太郎め、いつも意地悪ばかり言う。憎らしいお小姓ですこと」
頬をふくらませる無邪気な娘の様子を微笑ましく思う氏照だった。赤い小袖に青と白の
「そうだ、わしからの贈り物がある。小田原港へやって来る明国の船が珍しい異国の品々を届けてくれるのだ。これは遠い異国べねちあから運ばれた、べねちあんれえすがらすという品だ。割れやすいから気をつけて扱うのだぞ」
手渡された木の箱の中に、布に包まれた一尺ほどの楕円形の品物が入っている。波利姫は戸惑いながら、ゆっくりと布を解く。中からは乳白色の壺が現れた。
「ああ、この壺はなんて美しいのでしょう。透き通っておりますね。まるで白い氷のような壺。ただの氷ではありませんね。ゆらゆらと美しい模様が浮かんでいます。細い糸を
波利姫は異国の壺に魅せられた。
「どうだ、見事であろう。気にいったか。わしも生まれて初めて手にした。かくも美しい壺があるとは、驚くばかりだ。この壺に酒を入れて
花ならつぼみの美しさの娘を愛おしげに見つめる。
「お父上、そのお話はおやめください。べねちあんれえすがらすはとても美しくて気に入りましたが、波利はまだまだ婿殿など欲しくはありませぬ。
悲しげに目を伏せる波利姫だった。
「知っておる。女人の手仕事など、ことごとく嫌っているそうだな。いつも男のように山を駆け回ってばかりだと侍女たちが嘆いておる。しかし、じゃじゃ馬な波利姫と是非とも
「お父上、珍しいべねちあんれえすがらすの壺をありがとうございました。とても嬉しく思います。一生大切にいたします。では、これにて失礼いたします」
婚姻の話をされることを苦痛に感じる波利姫は、壺を箱に納めると抱えて逃げるように立ち去った。
(二)
御主殿側の会所の南側には、猿楽を演じるための小さな舞台がある。会所の戸を開け放し、西側にある庭園と舞台を同時に楽しむ工夫がされている。一人で一節切の稽古をしようと、波利姫は庭へと向かったが、すぐに慌ててご主殿へ駆け込む。
「牛太郎はいるか、早く弓矢を持て」
氏照の小姓の
「やれやれ、相変わらず乱暴な姫だな。仕方無い着いて行くか。もしも何かあったら、
庭の色づいた柿を狙って、猿が五、六匹ほど集まっていた。
「姫様、まだですよ。もっと近くまで行って狙いを定めて矢をお放ちください」
牛太郎が耳元で
息を止めて猿と波利姫の攻防に見入る。一町ほど離れた所から、矢を弓につがえて引き絞ったり緩めたりしながら近づく。その落ち着きようは見事なもの。己の気配を消して一人で猿に近づき矢を放った。一匹の猿の背に刺さり、猿は「ききい」と苦しげな悲鳴をあげて木からぐしゃりと茂みに落ちた。他の猿たちは驚いて逃げ出す。二人は仕留めた猿に近づく。
「あっ」牛太郎が息を飲んだ。
猿は小猿を抱いていた。背から貫通した矢は二匹の猿を無残にも串刺しにしている。
「小猿に乳でも与えていたのか、それとも守ろうとして小猿を前に抱いたのかもしれません。いずれにしても哀れだ」牛太郎は目に涙を溜めて、ため息をつく。
「だまれ、小猿がいたから何なのだ。勝手に庭にやって来る猿が悪い。猿の親子など、まとめて猿鍋にするまでのこと。さては、おまえはわらわの弓の見事な腕前を
低く落ち着いた声で冷たく言い放つ。
牛太郎は
ふと、波利姫は会所の戸が開け放されていることに気づいた。山麓の
「ふん」と鼻を鳴らすと、波利姫は背筋を伸ばし胸を張り、思いきり弓を引き矢を射った。
お父上の寵愛を受けている、あやつが憎くて仕方がない。舞台は
「ふ、これでわらわの気が晴れたわい。いい気味。毎夜、お父上と
腹を抱えて笑った。
ぱんぱんと手を打つ音と、氏照の声が柔らかく響く。
「さすが見事じゃ、宗阿弥よ。こちらへ来い。褒美をとらせよう」
舞台上の宗阿弥が
ほんの一瞬、弓矢を射るまねごとをして、宗阿弥を射殺す光景を思いを浮かべ楽しんでいた波利姫だったが、我に返った。
「もしや、あやつも父上からべねちあんれえすがらすの壺を
嫉妬の炎が、ふくらみかけた小さな胸を焼き尽くそうとしている。
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