第16話

 微かにボールの音が聞こえた。


 グラウンドにサッカーボールが無造作に転がっている。これはさっき物置から持ち出したものだ。


 乾いた砂が風でまいあがる。

 私は目を閉じて、その小さな音に耳をすませる。


 ボールを蹴る音。そして、今はもうないゴールネットの音。

 私はその音が消えてしまわないように、慎重に目を開けた。


 チカがいた。


 あの頃のチカだった。

 身体は透け、向こうの景色が見えていた。

 それでもそこにいた。


 鋭い眼差しで前を見据え、一球一球、丁寧にボールを蹴る。足元のボールを蹴り尽くすと、もうありはしないゴールへと走りより、幻のボールを回収すると、また別の角度からシュートの練習を始める。


 私はただ見ていた。

 まばたきをすることすら厭わしかった。

 涙が流れたが、拭うこともしなかった。

 その時間がもったいない。


 そのうちチカの身体は、輪郭すらも、ゆっくりとぼやけていっていた。

 もうしばらくしたら、このチカは消えてしまうのだ。


 もうそろそろか、と私が思ったときだった。背後から足音が聞こえてきた。

 あの二人だろうか。

 邪魔をしないようにと、どこかへ行ってくれていたようだが、この場の終わりを伝えに帰ってきたのだろうか。


 私は振り返らなかった。

 チカはまだそこにいるのだ。

 すると足音は、私を追い越していってしまった。


 透明な背中。

 まっすぐにチカのもとへ向かっている。

 腰まで伸びた髪が揺れていた。

 あれは高校生のときの私だ。

 私は高校生の頃、髪を長く伸ばしていたのだ。

 そうわかると、私は走り出していた。

 これはあの日の記憶だとわかった。


 あの秋の日。

 記憶の中の私は、途中で立ち止まり、チカに大きく手を振る。

 私は私に追いついた。

 チカの名前を呼ぶ。


「文親くん!」


 声が重なった。

 まだ、チカとは呼んでいなかった頃に、私は戻っていた。

 チカが私に気づき、こちらを見る。

 視線があった。

 私は照れて笑い。でも、すぐに真面目な顔をつくる。真剣だと伝わるように。

 そして大きな声で愛の言葉を叫ぶ。

 すると、チカは記憶の通りに、少し驚いた顔をして、珍しく大声で笑い、そして私に手招きをした。

 記憶のなかの私が、私から離れてチカのもとへ歩いていく。


 強い風が吹き抜けた。

 私の姿も、チカの姿も、もう見えなくなっていた。






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チカのこと 秋月カナリア @AM_KANALia

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