第4話

「話がある」

 振り向いた修之輔に岩見は二、三歩と近づいて話を切り出した。数日その姿を見なかっただけだが、岩見の表情や衣服にはこれまでに無い憔悴の気配が隠しようなく現れていた。

 岩見に応えようとして頬に水滴が当たった。空から大粒の雨がぱらぱらと落ちてくる。黒く厚い雲から落ちる雨はすぐに止む様子なく、むしろこれから強く降るだろう。

 修之輔が辺りに視線を巡らせて見渡した畑の向こう、寺社があるのか、木が茂る一画が見えた。修之輔の目線の先を岩見は察した。

「あの十二社の裏に人目につかない場所がある。そこに行こう」


 ぴたりと背後につく岩見に背を押されるようにして向かった先は、熊野十二社の境内だった。落ちかけている日の光は雨雲にも遮られ、地に黒く広がる池の水面には無数の水紋が漣を立て始めている。杉檜の枝葉は雨を通すので、境内の奥まで進み桜の木の下まで足を進めた。傍らには急激な段差があってそこを流れる水が三間ほどの滝を作っている。

 雨粒が桜の葉を叩く音、滝壺に流れ込む水の音が、辺りの気配も、二人の気配も掻き消していく。


 熊野神社の境内に灯された灯籠の火は未だ雨にも消えていない。揺れる明かりに岩見の顔が映し出された。

「俺に薩摩に内通しているという疑いが掛けられて、新徴組の内偵がついた。遅かれ早かれ俺は新徴組から追われる」

 岩見はそこで言葉を切って修之輔を見た。なぜ、と、その理由を修之輔が問う間を待ってみたが、修之輔は黙したまま何も反応を示さない。理由は知っている、と言外に意思を表す修之輔の様子を確認し、岩見は息を吐いた。

「先日の薩摩の武器取引の騒ぎ、現場を押さえられず市中取り締まり組の無駄足に終わった。取り締まり組の動きを一足先に薩摩の取引相手に漏らした者がいた。それが原因だ」

 情報を漏らしたのは。岩見の行動を薩摩の取引相手に伝えたのは。それは岩見と芝の料理屋で顔を合わせた修之輔だった。

「薩摩の取引相手は、羽代だったのか」

 修之輔が是も非も言えない質問だということを岩見は分かって訊いている。一呼吸置き、修之輔は岩見の問いには答えず、逆に聞き返した。

「それを酒井様に告げれば、自分への疑いが多少なりとも逸らされるのではないのか」

「まだ羽代のことは誰にも言っていない」

「なぜ」

「一度疑われた組織に居続けるような気力もつもりもない。それよりも」

 岩見が修之輔の前に詰め寄った。修之輔は間近に覗き込んでくる岩見の目を躊躇いなく見つめ返した。

「羽代の裏切りを酒井様に密告されたくなければ、秋生、俺といっしょに来てほしい」

 

 それは脅しの言葉だった。

 薩摩との公にできない武器のやり取りが明らかになれば、江城表での幕臣による諮問は避けられない。羽代への帰還は先延ばしになるだろう。疑いをもって内部を調査されれば、茶の海外貿易も怪しくなる。


 そうなれば弘紀は。弘紀の望みは。


「……岩見殿、新徴組の内偵が近くにいるのではないのか」

「後を付けていた者は途中で巻いた。秋生、お願いだ。俺とともに来て欲しい。庄内に最早足を向けることが許されないのなら、別の地に住もう。秋生がいれば俺はどこにでも行ける」

「……誰も、岩見殿がここに来たことを知らないのか」

 修之輔が確認した言葉には答えを得られないまま、加減のない強い腕で肩を掴まれて体ごと岩見の胸に引き寄せらせた。

「俺の誘いを断れば、俺はすぐに新徴組にお前を引き渡し、羽代の背反を酒井様に言上する」

 重なる脅しの言葉は耳に直接注がれた。


 ――早く羽代に帰りたい。

 そう呟いて目を伏せた弘紀の顔が浮かんだ。


 ――やらなければならないことがたくさんあるのです。

 そう云って顔を上げた弘紀の黒曜の瞳には、強い意思の光が宿っていた。


 弘紀の望みを叶えることが自分にとっての幸せだと、そう己の心に確かめる。


 修之輔は体から力を抜いて引き寄せる腕に任せた。岩見に自ら体を押し付け、そして少し背の高い岩見のおとがいに自分の頬を触れさせて囁いた。

「俺の返事を聞かずに話を進めるな」

 岩見の息が一瞬詰まる。

「秋生、ならば」

 修之輔は返事の代わりに岩見の脇から背へ両腕を回し、岩見の体を抱いた。

「秋生」

 自分の背を拘束していた岩見の腕の力が緩む。息が触れる距離で目を合わせ、唇が触れる近さでその名を呼んだ。

「岩見殿、俺は」

 修之輔が全てを言い終わる前に、押し付けられた岩見の唇で自分の唇を塞がれた。避けることなく抵抗せずに口づけを受け入れ、岩見の背に手を回し、ゆっくりと肩から撫で擦る。


 肩、肩甲骨、背骨、肋骨。この肋骨は上から何番目の。


 歯列をこじ開けて差し込まれる岩見の舌の先を宥めるように吸う。


 この肋骨がおそらく二番目で、この下は三番目。


 呼吸を惜しむ長い口づけの後で、岩が唇を離した。

「秋生、お前も俺のことを」

 その目の中には歓喜の光が見えた。修之輔は目を細め、江戸に来てから覚えた笑みの表情を作って岩見の頬に手を添え、その目を見つめた。

「もっと、強く抱いて欲しい」

 そう云い終えて自分から再び岩見と唇を深く重ねた。岩見の腕がきつく修之輔を抱き締め互いの体が密着する。


 この骨と骨の間。


 修之輔は真っすぐに両腕を伸ばし、小太刀を持った左手に右手を添えた。角度、場所、強さ。失敗は許されない。雨の雫、目の端には地に落ちている小太刀の鞘。弘紀と揃いの艶やかな黒漆は灯籠の火にも青白い光を返している。重ねた唇の間に隙間を作り、息を吸う。そして。


 ひと息に、小太刀で岩見の背を貫いた。


 小太刀の刃は肋骨の合間を過たずに切り裂いて、先は肝臓と心臓を結ぶ太い血脈を断絶した。溢れ出る血液は体腔内に満ちて行き場を失い、体を巡る血の流れを絶たれた岩見は、膝から地面に崩れ落ちた。

 脳を巡る血液を失すれば、後に待つのは漆黒の死の闇。震えながら微かに地面から持ち上げられた岩見の手を取って握ると一瞬、引き攣る岩見の顔の表情が柔らかく解けて、そして全ての力がその体から失われた。

 

 握った手を滑らせて手首に触れて脈をみると、拍動は既にその数を減らしていた。完全に無くなるまで後どのぐらいかかるのだろうか。修之輔は自分の顎から落ちる雨の雫を数えて時間を測りその時を待った。


「随分手際がいいじゃない」

 修之輔の背後から艶のある女人の声がした。だが修之輔は驚かなかった。雨の影に隠れていても少し前からその気配には気づいている。

「弘紀様が江戸を発ってからあたし達が始末するはずだったのに。予定が前倒しね」

 修之輔は岩見の手首を離して立ち上がった。すでに命の絶えた岩見の手は、地面の水たまりに落ちて水しぶきを上げる。闇の中から小ぶりの龕灯がんどうを手にした加ヶ里が現れ、こちらに寄ってきた。

「……余計なことは、ほんとならいいたくないんだけど」

 修之輔の横をすれ違い、着物の裾を折ってしゃがんだ加ヶ里はそういいながら岩見の体の検分を始めた。

「ねえ、どうして小太刀を使ったの? 下手人を分からなくするため?」

 刀を使えるのは武士のみ。小太刀程度の刃物ならば町人も農民もつかう。

「それとも、使、かしら」

 加ヶ里が莞爾と笑んで修之輔を見上げてきた。

「……貴方はこっち側の人間よ。自分が他とは、外田様や山崎様とは違うって、分かっているのでしょう?」

 加ヶ里が袂からするりと緋色の腰紐を取り出して岩見の体の近くに落とした。

「貴方、後始末なんて考えていないでしょうね。あたし達がしとくから、すぐにお屋敷に、上屋敷に戻ってちょうだい」

 目を凝らせば闇の片隅にしゃがんでこちらを見ている人影があった。雷鳴と稲光が同時に上空を走る。その稲妻の光に露わになった人影は寅丸だった。ひどく歪んだ顔をしている。怒っているのかもしれない、泣いているのかもしれない。この明るさでは判別できなかった。

「なあ秋生、儂はお前が最初からこのはかりごとに加担していたとは思いたくない。たまたまだろう、偶然だろう、いや、ただ巻き込まれただけだろう?」

 寅丸が自分の事をどう見ているのか、その評価は買い被り過ぎだと冷めた感情でそう思った。

「俺の役目は、羽代城を発つ前から決まっていたことだ」

 少なくとも修之輔の髪の結わえ方について指示があった、あの時からすでにこの結末は予定されていた。計画の遂行のために加ヶ里は一足早く江戸に着き、原は庄内藩で岩見の情報を集めてから江戸にやってきた。

 まだ何か言いたそうな寅丸が、ふいに息を飲む音が聞こえた。その喉元には背後から現れた原の刃が突き付けられていた。

「お前は喋るな、と言っておいたはずだ」

 加ヶ里がそんな二人を見て眉を上げ、けれど何も言わずに修之輔に早くこの場を去るよう、身振りで促した。加ヶ里の背後、熊野神社の拝殿奥に灯された提灯は三本の足を持つ八咫烏を黒々と浮かび上がらせていた。


 熊野十二社の漆黒の神域には雷鳴が響いて、さらに強い雨が降り始めた。修之輔は後を一度も振り返ることなく、土砂降りの道を上屋敷へ向かって走り始めた。

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