第5話

 修之輔が上屋敷に戻ったころには土砂降りも多少は弱まってきた。だが雨粒の上げる飛沫はまだ強く、門を守る門番に帰営を告げながら袴の裾の雨水を絞ると音を立てて水が落ちてきた。

「傘を貸すか」

 あまりの濡れ加減に見かねたのか、修之輔の顔を知る門番がそう云ってきた。部屋が近いから大丈夫だと断って門を通り抜け、足早に御殿前庭を通り過ぎようとすると御殿から出てきたばかりの人影に声を掛けられた。

「秋生、今、良いか」

 従者に提灯を持たせて自分は仕立てのいい蛇の目傘を差し、こちらを見ているのは加納だった。明日の出立に備えて自分の屋敷に戻るところだろう。そういえば門の屋根の下に駕籠が待っていたことを思い出す。

 家老職にある者に逆らうことはできない。雨を避けるため、修之輔は仕方なく自分の部屋に加納を通した。加納の付き人は部屋に入らず、より軒の深い物置部屋の前での待機を加納に命じられた。


 付き人を遠ざけての話なら、そんなに簡単な用事ではないと察しはしたのだが、部屋に入った加納は框に腰かけたもののなかなか用事を言い出さない。その様子を横目で見ながら、修之輔は羽織を脱いだ。小袖も単衣も全て雨に濡れて、立っている土間に水滴を落とし続けている。

「脱いだ方が良いだろう」

 ようやく加納が口を開いて言った言葉がそれだった。

 加納がいなければ言われなくてもしていた所作を当の本人にわざわざ促され、修之輔はいつものように苛立ちを覚える。表情には出さずに軽く頭を下げ、濡れた袴を取って水を絞り、小袖は運び入れて置いた空の水桶にとりあえず入れておいた。加納の視線が自分の動作を追っているのを鬱陶しく思ったが、いちいち気にしてはならないと自分に言い聞かせた。

 自分より上位のものを前にして単衣まで脱ぐのは流石に無礼なので、濡れて貼り付く布を我慢し、傍らにあった羽織を上から身に着け、加納の対面に座った。

「お話とはなんでしょうか」

 手を畳に付き、頭を下げたままで尋ねた。少し間があって、加納が話し始めた。

「秋生、分かっている事と思うが、お前は羽代に戻れば元の役職に下ろされる」

「はい、存じております」

 元々上屋敷に修之輔を置くために弘紀が指示したことで、百五十人扶持の今の身分は羽代に戻れば半分以下になる。だが今、改めて加納が修之輔に確認することではない。加納の話の本筋が見えないことにも苛立ちが募る。だから次に加納が言い出したことを理解するのに時間がかかった。

「そこで提案があるのだが、秋生、羽代城での務めに暇を取って、直接私の下で働かないか。扶持に相当する給金も十分に与える。私の屋敷にそなたの部屋も用意しよう」

 加納に似合わない冗談かと思わず顔を上げ、疑いの眼差しのままで、こちらを見る加納と目が合った。加納はいつものように表情に乏しい顔だったが、目元に微かに漂う感情に含羞が見て取れた。本気で言っているようだった。どこか力の抜ける気持ちがしたが、修之輔は無礼にならないよう気を付けながら返答した。

「今の役目が江戸にいる間だけとは承知のことです。役が下がることに特に不満もございません。元よりそこまでの働きをしているとは思えず不相応な立場であると恐縮しておりました。加納様のお心配りは有り難いのですが、慣れた城勤めで弘紀様に奉公したいと思っております」

 出す必要のない弘紀の名を出したのは、自分が仕える主は弘紀であることを示すためだったが、全てを言い切る前に加納に腕を掴まれた。反射的に振り払おうとして濡れたままの単衣に動きを阻まれ、そのまま体を引き寄せられた。


 上屋敷に戻る前、十二社の暗がりで岩見にそうされたように。

 だが岩見の時に感じた嫌悪も忌避も、恐怖も感じなかった。

 大した抵抗もなく自分の腕の中にいる修之輔に加納が珍しくゆっくりとした口調で語りかけてきた。

「そなたに好かれていないのは分かる。だがそれは、そなたが私のことを良く知らないからではないのか。私に仕え、近くで私のことを見ていれば気持ちも変わるだろう」


 加納の動きは隙だらけだった。武術に優れてはいても色事には慣れていない。抵抗せずに少しは体に触れさせてから払い除ければよい、修之輔はそう冷静な頭で判断した。

 弘紀は以前、今の羽代には加納のような人材が必要だといっていた。ならば弑してはならない。判断の基準はそれだけだった。

 自分の感情ではなく、弘紀への利害で自分がどうすべきかを決めるのは、ひどく単純で簡単なことだった。


 加納の顔が首筋に寄せられた。湿った息の感覚には我慢が必要だった。襟に掛かる加納の手。既にこの段階で修之輔の上半身の束縛は無くなっていた。手の平で畳を抑え、ひと息に体を反発させて加納の手を振り切ろうとしたとき、閉められていた長屋の戸が勢いよく音を立てて開けられた。


「何で誰もかれも手を出そうとする! 秋生は私のだ!」


 躊躇ちゅうちょない大声が狭い長屋部屋に響いて、次の瞬間、修之輔の目の前から加納の体が消えた。弘紀が框に飛び上がってそのまま、勢いよく加納の肩を蹴り飛ばしていた。横に蹴り倒された加納は状況が呑み込めないまま何とか体勢を立て直し、そして修之輔の首にしがみついて自分を睨んでくる弘紀を見た。

「私のだ」

 弘紀が低い声で繰り返す。長屋の戸の表には、騒ぎを聞きつけて加納の従者や門番、中間が駆けつけてきた。どういった状況なのか分からずに言葉を失っている一同を前にして、弘紀がようやく修之輔から離れてその場に立った。

「秋生」

 弘紀に名を呼ばれ、修之輔は姿勢を正して座り直した。弘紀はいったいこの場をどう納めるのだろうと他人事に思う途中で、弘紀が辺りに聞こえる明瞭な口調で修之輔に告げた。

「今夜の私の相手を、伽を申し付ける」


 修之輔にそう命じた後、弘紀は周りの者をぐるりと見回した。灯りに乏しい部屋の中、弘紀が身に着けているのが燕の図柄の浴衣だとようやく気付く。

「退け。私は御殿に戻る。灯りを寄越せ」

 集まってきた者達は慌てて弘紀の通る道を空け、誰かが自分の持っていた提灯を弘紀に手渡した。土間に下りた弘紀は当然のようにそれを受け取り、一度も振り向くことなく修之輔の部屋を出て行った。

 加納を含めて皆、どこか居心地の悪そうな顔をして長屋の前からいなくなり、それからそう時間も経たないうちに、これから御殿に上がる様にとの伝令が修之輔の下に来た。

 修之輔はその間に濡れた着物はすべて着替えていたが、御殿の奥へ通されると用意された別の物に着替えるようにと指示された。修之輔に指示する者の顔には見覚えがあった。参勤道中の品川宿で弘紀の入浴を手助けする作法を教えた上屋敷用人だった。特に態度はその時と変わることはなく、けれど一通りの説明を終えたところで微かに首を捻った。

「役目を果たすように」

 その言葉で説明を締めて良いのか、用人の言葉の語尾にはやや戸惑いがあった。

 寝所に上がる前に弘紀様の下がり湯を、という指示に従い、奥の湯殿で湯を浴びた。当主が使った後の湯を下がり湯と云い、使える者は当主である弘紀が許可した者だけである。本来名誉なことではあるのだが、これからのことと品川でのことを考え合わせると、落ち着いて湯に浸かる気分にもなれなかった。

 湯浴みの後に用意された麻の襦袢に薄絹の白い単衣を重ねて身に着け、上屋敷御殿の奥にある寝間まで連れて行かれる。声がかかるまでここにいろ、と云われて控えの間で一人になった。

 弘紀の私室は表に近い場所にある。連れて来られた奥の寝所はその私室とは違い、御殿の中でも最も奥まったところにある一画だった。既に夜は更けて、あの土砂降りの雨は弱まっている。あたりに漂う焚き染められた香の匂いは弘紀の着物のものとどこか似ていて、けれど花のような甘い香りがより強調されている。

 ふっ、と空気が動く気配があって、寝所の出入り口が開けられたようだった。控えの間からは様子は見えないが、部屋に入ってくる軽い足音が弘紀のものだというのはすぐに分かった。名を呼ばれる期待に胸が高まるのを覚えて、だが続いて修之輔に聞こえてきたのは、どたばたと暴れる物音だった。


 弘紀しかいないのなら、と、名を呼ばれないまま控えの間の襖を開けると、豪華な調度に飾られた部屋の中、正面に置かれた五枚重ねの真綿の布団の上で弘紀がごろごろと左右に勢いよく転がりまわっている。近づく修之輔の姿に気づいて跳ね起きた弘紀が布団から身を乗り出すようにして修之輔に楽しそうに話し掛けてきた。

「こんなふかふかな布団、私は一度も使ったことないです!」

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