第3話

 それから出立の前日まで、修之輔は上屋敷の外に出ない日が続いた。だが中屋敷とは違って食事は出るので大した不便は感じない。馬追いはなくても松風と残雪の世話には手を貸したし、御殿の中に呼ばれて羽代へ持ち帰る荷物をまとめる手伝いをしていると、むしろ忙しいと感じることが多かった。


 参勤が終わって交代の帰路では加納が再び指揮を執る。したがって加納が上屋敷での作業に指示を出すのだが、初めのうちはそうとは感じなかったものの次第に修之輔が加納に直接呼び出されることが頻繁になった。作業も公文書の取り纏めや保管など、羽代の内政に関わるものが多い。用人ではない番方の自分が触れていいのか、正直迷うものもあった。

「こちらはどこに」

 小部屋に加納と二人で次々に持ち込まれてくる書類書籍を仕分けていて分からなくなり、加納に差し出して尋ねると、加納は修之輔の手ごと、その書籍を引き寄せた。

「これは控えを作る必要があるから、そちらの山に重ねて置け」

 手が触れていることに気づいていないのか、気にしていないのか、加納はそのままで修之輔に指示する。こちらから離すのが無礼に当たらないのか、修之輔は逡巡して加納の手が離れるのを待った。


「加納様、そろそろ一度お休みになられてはいかがでしょうか。茶をお持ちします」

 一つの部屋に加納と二人でいると、作業とは別のところに気を使う。修之輔は機を見計らってはそんな言い訳で席を立った。台所で煎茶の支度をしてもらう間に庭を眺めると、障子襖をあけ放った御殿の執務室で仕事をしている弘紀の姿が見えた。

 髪を髷に結い上げて薄灰に雪片散らし絽地の上着に薄藍の袴姿はこの暑気にあって目に涼しい。何か周りと話しながら手にした筆を動かし続けるその姿を眺めているうちに、台所番が茶器の用意をし終えて修之輔に盆を手渡した。

 この茶を持って行く相手が加納ではなく、あそこにいる弘紀だったら。

 あまり時間がかかれば加納に嫌味を言われる。もう一度、弘紀の姿を目に入れてから作業中の部屋に戻ろうとして廊下に出た時、ふと弘紀がこちらを見た。前から修之輔に気づいていたのかもしれない。軽くその口元に笑みが浮かんでいる気がした。


 日中互いに時間が空くと、弘紀が菓子を持って修之輔の長屋を訪れたりすることもあった。上屋敷を出ないことで、これまでよりも弘紀に接する時間が増えたのは嬉しいことだった。羽代に戻ったらまた当直の夜にしか会えない日々に戻る。その前に、今この幸福な状況を十分に享受したいと、その思いが強くなる。


 出立の前日は小太刀の指導の最終日であり、修之輔が上屋敷の外に出ることを許された最後の日でもあった。曲渕にこれまでの礼を述べて別れの挨拶をするべく、日が上がり切って暑くなる前、五ツ半ぐらいに下屋敷に着くように上屋敷を出るはずだったのだが、前夜に用人から伝言があって、弘紀の護衛の任を言い渡された。明日は弘紀も下屋敷に行くらしく、修之輔が予定していたより早く出るという。その夜は弘紀が部屋に来なかったので、何の用事があって下屋敷に出向くのか知ることはできなかった。


 明くる朝、弘紀の駕籠の脇を歩いて下屋敷に向かう朝の道は、まだ気温は上がっておらず、けれど日差しはすっかり夏の気配だった。民家の戸口に置かれた朝顔がみずみずしく薄水や紫の花を開き、軒下の金魚鉢に影を落としている。こんな江戸の風景もこれで見納めかと思えば、どこか寂しいような、幾ばくかの感傷が微かに湧いて修之輔の心にも小さく細波さざなみを立てた。


 弘紀と共に下屋敷に着いた時間は、曲渕との約束の時間より早かった。修之輔は曲渕を待つ間、一人で稽古の場にあてられている板張りの座敷で木刀を振ってみた。

 曲渕に習った最後の技は小太刀の居合抜きだった。長刀の居合には独自の技術が必要だが、小太刀の場合もまた独特の動きが必要だった。一度その術を覚えれば、小太刀は長刀より短い分、鞘から抜く手間も時間も必要なく奇襲には有利だと、稽古で学んだことを反芻する。


 しばらくそうして一人で稽古しているうち、下屋敷の表座敷の方が慌ただしくなった。人が集まる気配があったので様子を見に行こうかと修之輔が木刀を置いたそのとき、座敷の入り口から、ひょい、と弘紀が顔を覗かせた。騒ぎに紛れて一人でやってきたらしい。そのまま修之輔の前に駆け寄ってきた。

「秋生、来たばかりなのですが、私はこれからすぐに上屋敷に戻らなければいけなくなりました」

「では俺も戻る支度を」

「いえ、貴方は曲渕の稽古を受けてから戻れば良いです。貴方の代わりは下屋敷の者を二、三人連れていくので大丈夫です」

 用人に伝令を命じれば良いはずの事を、弘紀が直接言いにきたことに戸惑っていると、弘紀が小声で付け加えた。

「今夜も、貴方の部屋に行きます」

 これが本当に伝えたかったことだと、そう華やかに笑んで、弘紀は来た時と同じように足早にその場を去った。


 弘紀の乗る駕籠が下屋敷を発つのを修之輔は下屋敷の用人たちと共に玄関で見送った。急ぎの用事ではあっても緊急の事態ではなさそうで、用人の表情に緊張感はない。どころか朗らかに笑みを浮かべる者もいる。夜に部屋を訪れると約束したばかりの弘紀にその時、聞いてみれば良いことだと、修之輔は稽古場に戻った。


 その弘紀とほとんど入れ違うようにして曲渕がやってきた。

「もうおぬしに教えることはないぞ」

 顎の髭を引っ張りながらそういう曲渕に、それでも最後だからと習った型を最初から一通り相手をして貰った。

「もう良いだろう。これで最後なのだから、秋生、ちょっと付き合え」

 下屋敷を出た曲渕が修之輔を連れて行ったのは、内藤新宿の一角にある蕎麦屋だった。

「おぬしはかたいからのう、こんなところだろう。馳走するから、食え」

 内藤新宿の表通りを眺めながら食べる揚げたての天麩羅と蕎麦はうまかった。江戸に生まれ育ったという曲渕は器用につるつると蕎麦をすする。

「これから先、江戸の町がどうなるかは分からんが、この蕎麦は変わらんでもらいたいな」

 修之輔が蕎麦を食べ終わった頃合いを見て、既に蕎麦湯を飲んでひと息ついていた曲渕が言う。

「なにか大きな変化でも起きる前触れでもありますか」

 うむ、と曲渕が口を曲げる。どうやらそれらしく聞こえる適当なことを口にしただけのようだ。

 蕎麦屋を出てこれから然るべき店の奥座敷に昼から転がり込むという曲渕に、改めてこれまでの稽古の礼を述べた。

「儂の小太刀の術に流派はない。其方が免許を持っている明雅流の術の中にこそっと付け加えてくれ。そうすれば儂の技術は後世にも伝えられよう。これまでの弟子にもそう云ってきた。頼むぞ」

 そう言い残して曲渕は、巳の刻も過ぎずない今の日の高さの内から脂粉漂う内藤新宿の小路に姿を消した。


「秋生、裏の畑に回ってくれ」

 下屋敷に戻るとすぐに用人から声を掛けられた。その用人は襷がけで手には鋤か鍬か、農具を携えている。言われたとおりに畑に向かうと、いつもより多い人出で畑の一画を掘り返しているのが見えた。

「弘信様のご命令だ。ここの朝鮮人参を抜いて上屋敷にお持ちする」

 修之輔にも先が割れた鋤が渡された。見よう見まねで畑に植わる朝鮮人参を掘っていて、この畑を管理している女人がいたことを思い出した。名前は確か。

「今日は土岐というあの女人はいないのか」

 堀り出した人参を集めている中間の顔に見覚えがあったので訊いてみた。

「土岐ですか、今は何と申しましょうか、少々体調がすぐれないようで」

 歯切れ悪くそう云って、その中間は何故か修之輔の顔を窺う目つきで見上げてくる。

「秋生様、土岐と御面識がおありでしたでしょうか」

「いや、弘紀様が以前、その土岐について話していた。それを思い出しただけだ」

 中間の顔が明るくなる。

「そうでしたか、弘紀様は土岐の名前をご存じでおられましたか」

 中間はそれだけ云って機嫌よくこちらに一礼し、人参の積まれたもっこを担いで少し離れたところにいる仲間の方へと歩いて行った。

 何となくだが、弘紀の突然の予定変更と関係があるように思えた。だが呼び止めてまで問いただすことではなく、これも今夜、弘紀に聞けば分かる事だろうと、修之輔はただ黙々と人参を掘りだす作業に取り掛かった。


 七ツ半には下屋敷の畑から抜かれた朝鮮人参が荷車に積まれ、上から菰が被せられた。この荷車を牛が牽けば日暮れ前には上屋敷に着くだろうということで、修之輔もその荷車とともに下屋敷を出ることになった。だが昼にも荷を運んだという牛の歩みは人よりも遅い。牛の口取りが申し訳なさそうに修之輔に言ってきた。

「秋生様、もしよろしければお先に上屋敷に戻られてもようございますよ。なに、我らはこれから四ツ谷大木戸を通って大通りを上屋敷へ向かいますから、そうそう何か起きるということもございませんでしょう」

 なにか気が急くことがおありでしたらどうぞ我らに構わずに、そう下手したてに伺いを立てられて修之輔は自分の心を見透かされたような心地がした。


 ――今夜、貴方の部屋に行きます

 弘紀の声が、ずっと頭の中で繰り返されている。


「では先に行かせてもらう」

 取り繕うのも意味が無いように思え、修之輔は中間にそう伝えて四ツ谷大木戸に向かう前、一人、南へ向かう道へと折れた。

 この先は畑の中を通る細い道だが、人通りは少なく近道になる。そして道の途中には弘紀と来るはずだった牡丹園があるはずだ。夏牡丹は流石に終わっているだろうが、まだ花枝があるのなら手に入れて今夜弘紀を迎える部屋に飾りたい、牡丹が無ければ西の方で人気があるという透百合すかしゆりも江戸なら手に入るのだろうか、そんな柄にもないことを思ったのは今日が江戸に滞在する最後の日だからだろう。


 夏草の香り漂う道を行くうちに、ふと空を覆う雲の多さに気づいた。夕暮れはまだ先のはずだが、低い雲に覆われて夕日が遮られ辺りが急速に暗くなってきていた。強い雨の予感に足を早めなければと思って、背後に人の気配を感じた。


「秋生」

 自分を呼ぶ声に振り返る。岩見の姿が、そこにあった。

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