第2話

 翌日は朝から晴れ間が見えた。このところずっと空を覆っていた雲が切れて、空気の温度は見る見るうちに上昇した。夏の季節の到来を待ちわびていたかのように既にどこからか蝉の鳴く声が聞こえてくる。あと十日足らずで弘紀の参勤の任は終わり、羽代へ戻る日が近づいていた。


 昨夜の弘紀の言葉どおりに、今日は朝から修之輔の任務が全て免除された。それどころか今日だけでなく、羽代への出立の日まで松風と残雪の馬追いもしなくて良い、と、わざわざ修之輔の部屋まで伝えに来た上屋敷の用人が云う。それは裏を返せば修之輔が上屋敷の外へ出ることを暗に禁じたということになる。

 下屋敷で行っている曲淵の小太刀の稽古は帰国前日が最終日だと予定されていたが、それについてどうするか、問い返して確認する気力もなく修之輔はただ平伏して伝令を受けた。


 外に出る用事が無いのなら、と、文机の前に座って見たものの何も書く気が起きず、視線は逸れて格子窓の外へと向かう。昨日まで薄雲越しだった日の光が一夜明けただけで夏の日差しとなり、長屋塀の前の道では凹みに溜まっていた水が見る見るうちに引いていく。行き交う人々の足も乾いた土を蹴る音を立てて、江都は鮮やかに夏を迎えようとしていた。


 気温は上がっても長雨を吸った長屋の土塀はひんやりと冷たく、修之輔は壁にもたれて周りの物音を聞くともなしに聞いていた。何もしなくとも時間は案外、過ぎて行く。

 自分が眠っているのか起きているのかも判然としない心地のまま、その日一日、部屋の外に出る気もなく、空腹も覚えずに日が落ちた。部屋の中の昏さに気づいたが火種を起こすのも面倒で、そのまま手探りで床を敷いて横になる。楠の葉が夜風に鳴る単調な音が耳に心地よかった。


 眠りに落ちるのか、目覚めに向かうのか、朧な意識の中で昔、こんな日を過ごしていた時があったと思い出す。


 それは黒河で、日々痛めつけられていた修之輔の状況を見かねた剣道場の師範が修之輔を自分の妻の実家に匿ってくれた、あの時のこと。助けられた修之輔は、しばらく周囲の人間を寄せ付けることなく心を閉ざしていた。


 あの色彩も光もない昏く茫洋とした灰色の刻。


 かたん、と彼方に木の鳴る音が聞こえた気がして、けれど泥のような眠気に体は動かず、修之輔は起き上がれないまま、再び眠りの底へと意識を沈ませた。


 次の日の昼前に修之輔の部屋まで山崎がやってきた。屋敷の門前には外田もいるという。中屋敷で大砲の取引に係った者達も、修之輔と同様に就いていた仕事を免除されて、帰国の日までなるべく大人しくしているように命じられたということだった。

「だが今まで外を自由に出歩いていたのに、あの日の後、全く外に出なくなるのもあやしいだろう。ここは一つ、徳川様に二心ふたごころないことを示すためにも千代田稲荷に行かないか」

 昨年将軍様が上洛した時、渋谷宮益坂にある千代田稲荷は道中のご無事安全を祈願して大奥から多大な寄進を受けた。富を得て新しく建て替えられた社も珍しく、大奥の女中が時折やってくるということで、このところ流行りの名所になっているという。

 本来こういうことを云い出すのは外田なのだが、敢えて山崎が率先して云うのなら、それは羽代の上層部から許可が出ているということだろう。あるいは命令なのかも知れない。

 弘紀の顔が直ぐに思い浮かんだ。

「分かった。身支度をするから少し待っていて欲しい」

 山崎は修之輔の返事を聞いて頷き、框から腰を上げて部屋の戸を開けたまま外に出た。袴を着けないまま、床も上げずにただ部屋の中に座り込んでいた修之輔の姿を山崎は目に留めたはずだが、それについては何も言わなかった。山崎の心づかいだろう。身繕いをして弘紀と揃いの大小を差し長屋を出た。


――日暮れ前には戻って、昨日の分の報告書を書こう。

 体を動かせば思考も動く。丸一日ほとんど動かさなかった体だが、どこか軽く感じられた。


 境内に生う木々の葉は青々と、前に訪れたことがある山王神社の前を抜けて赤坂御門から江城の外に出た。溜池の蓮の花は今が見ごろの盛りだが、昼を過ぎれば花弁が閉じる。それでも青い空を映す水面のところどころに薄紅色が綻びているのが見えた。

「大仕事だったからな、秋生も気疲れが溜まっただろう」

「俺達もなんだかんだであの大砲の一件に絡む期間が長かった。いやあ、どうにも身内に隠し事をするのは疲れるものだ」

 外田は任を受けてから小林などの親しい者達にも話せないことができて、それは非常に居心地の悪いものだったという。それを聞いて山崎が笑う。

「この間、小林が儂に相談に来たぞ。この頃、外田に嫌われたのかもしれないと、あいつ、しょげていた。外田、お役目から外れたのだから、小林のことを構ってやれ」

「お、では今日から剣術の特訓だな。出立の日まで鍛えてやろう」

「頼んだぞ」

 小林のように外田に近くなくても、中屋敷に詰める者達の中には隠微な空気の変化を感じた者がいたのだろうか。山崎は日頃から下士の様子を細やかに見ているから、人より気づくこともあるのだろう。


 そうして牛馬が荷を引き町人が行き来する大山街道の喧騒に紛れ、辺りに目を配りながら外田が口にしたのはあの夜の薩摩との取引の話だった。

「大砲が砂に嵌った時、あれで俺や寅丸が見つかって捕まっても羽代の上屋敷は儂らを助けなかっただろうな」

 山崎はそれに返答しようとせず、けれど修之輔は思わず外田に尋ねた。

「それは弘紀様の判断だと思いますか」

「そうではない。いや、なんというか、うん、上手く言えないが、羽代の意思、だ」

「弘紀様お一人の意見ではなく、羽代家中の総体としての意思だ」

 山崎が言葉足らずになる外田の返事を補った。

「我ら羽代の家中の者ならば、この藩の為に身を投げ出すことは厭わない。むしろ誉れだ」

「捕まって尋問されたとしても、弘紀様の命を受けてとは絶対に口にせぬわ。主君に仕えるということと、羽代の為に働くということは相違わぬ」

「弘紀様もそうだが、羽代の当主となられる方は己の利より羽代の利を考え、だからこそ我らはそれに従うのだ」

 山崎と外田のその考えは、羽代の地に生まれ育った者達だからこその考え方だと修之輔は思った。


 自分はおそらく、弘紀の為に動けても、羽代の為にはまだ動けない。


 修之輔が勝手に感じた幾ばくかの疎外感には気づかないまま、外田と山崎は話を続ける。

「しかし外田、それで見回り組に捕縛され、本当に羽代での身分が無くなったらどうしていた」

「寅丸の道場に世話にでもなろうか」

「羽代の地から追われたら如何する」

 重ねる質問は外田を追求するものではなく、単に話が転がった先のようだ。外田も気楽に顎に手を当てさほど考えもせずに、ニヤッと笑う。

「江戸で暮らすのもいいものだな」

「脱藩の志士か」

 山崎が呆れたように外田を見る。それとは何か違うなあ、と外田が顎を擦る。

「だが山崎、寅丸はこれで功績を作ったことになるんじゃないのか」

「そうだな。あいつ、これで以前の身分が戻ればいいのだが」

 寅丸の身の上は、修之輔が知らない話だった。


 寅丸のことを聞こうとして外田に声をかける前、ふと視界の隅に白い残像が閃いた。いつか、どこかで見た白い衣装の少女の姿。目を向ける間にその姿は掻き消えた。


 機会を逸して寅丸のことを聞きそびれたまま善光寺の前を過ぎた先、人の流れが向かっているのは三人の目的地である千代田稲荷だった。人の多さにこれ以上歩きながら羽代家中の話をするのは憚られたのか、山崎と外田の会話は当たり障りのない内容へと変わる。

 その山崎の話によると、大奥で実権を握っていた滝山という側年寄が権力争いの末に毒を盛られて苦しんでいたところ、千代田稲荷の御加護で快復した、という逸話があるという。

「女の争いというものは稲荷明神も巻き込むものなのだな」

「羽代もさんざんな目をみたからなあ」

「女難避けは有難い後利益だ。拝んでおこう」

「そうしよう」

 やけに熱心に手を合わせる二人より先に参拝を済ませた修之輔は、何とはなしに境内の奥詰まりにまで行ってみた。背中合わせの敷地には御嶽神社があって片隅に小さな祠があった。御嶽神社の本殿に比べて質素なその祠の正面を覗いてみると羽黒山権現の社だった。墨堤の石碑の前、羽黒山は故郷の山の権現様だと語っていた岩見の姿を思い出した。もう岩見と会うことは無いだろうと、修之輔はそれ以上考えるのを止めた。

 

 千代田稲荷を後にして宮益坂を上る帰り道、修之輔は山崎と外田の後を歩いた。大きな体の山崎も筋骨たくましい外田も、江戸に来た当初のような落ち着かない風情は綺麗に消えていた。眼光鋭く前を見据えて歩く姿に破落戸が絡むような隙は見えない。この三か月の参勤は彼らの心身を引き締めるのに十分な経験を与えたようだ。


 上屋敷の門前で中屋敷に帰る外田と山崎と別れ、修之輔が自室に戻ったのは八ツ時にもならない頃だった。それからただ無心で書きそびれた報告書を書き始め、すべて書き終えたのは深夜に近かった。終わって見直しもしないまま、今夜は自然な眠気に身を任せて眠りに落ちることができた。


 明くる日、報告書を出し終えた修之輔が長屋の二階で見つけた書物を読んでいると弘紀がやってきた。戸を叩く音がして、修之輔が返事をする前に勢いよくその戸を開けて部屋に入ってきた弘紀は、藍地の絽の着物に霰小紋の袴という出で立ちだった。それは夏の寛いだ衣装で、仕事中というわけではなさそうだった。


 弘紀は部屋に上がり込み、修之輔の前に正座した。

「この世にはいろんな人間がいるのです」

 真摯な黒曜の瞳が修之輔を見つめてくる。修之輔は、前置きもなく話し始めた弘紀の言葉に耳を傾けた。

「自分の周囲の理不尽に反抗できる人間、できない人間、誰かを救える人間、誰かに救われなければ生きていけない人間。皆、それぞれに違うのです」

 そこまで言って弘紀は目線を下に落として眉を寄せる。そうじゃないな、と呟いて、また顔を上げた。

「前にも言ったように、黒河にいた時、私は貴方に救われたのです。だから私は貴方のことを助けたいし、守りたい。そう約束しました。けれど先日の薩摩とのあの出来事は私の手落ちで、失敗でした。私は本当に自分の事を許せずに心底腹立たしいとその自分の感情に手いっぱいで、貴方のことを思っているようで、でも本当は自分の事しか考えていなかった」

 その後に弘紀が続けようとしたのは謝罪の言葉だったが、それは必要ないと修之輔は首を横に振った。自分の事しか考えていなかったのはこちらも同じことで、弘紀に謝られては立つ瀬がない。こちらの意を汲んだ弘紀が唇の端に微笑を浮かべる。

「同じようなことを思っていても貴方と私は別の存在、互いにそれは切り離して考えないといけませんね」

 言いたいことはそれで言い終えたらしく、弘紀が息を吐いて肩から力を抜いた。

「……今夜、また来ます」

 最後に一言、軽く目を伏せてそういう弘紀の頬に思わず手を伸ばした。

「……弘紀、ならば戻る前に少しだけ」

 その腕を引き寄せたが、弘紀は先日のようには抵抗せず大人しく修之輔の腕の中に抱かれた。温かなその体から伝わる熱は、長い雨の季節で冷え切った体の芯を溶かしてくれるかのように感じられた。

「夜にまた、来ますから」

 くすぐったがる声音で先程の言葉を繰り返す弘紀から手を離し、隠し戸をくぐって御殿へ戻るその姿を見送った。

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