第7章 漆黒の神域
第1話
時刻は深更に及んで降る雨の強さは増していく。厚い雲は月の光を覆い隠し、かわりに低い雷鳴が聞こえ始めた。雷鳴の聞こえる方角の空が時折青白く光るのは、稲妻が雲の上を走っているからだろう。
芝の薩州蔵屋敷から出されたアームストロング砲一台は羽代の船によって中屋敷に運び込まれ、中屋敷内で秘密裏に待機していた数名が筵に巻かれた鉄の塊を長屋塀の奥に隠した。修之輔は、弘紀を追ってきた羽代の者達とともに雨脚が強くなる道を小走りに芝の無人家から上屋敷に戻ってきた。
「薩摩にはこちらの度胸を試されたのです」
灯りを一つつけただけの修之輔の部屋で、弘紀は膝を揃えて座り、修之輔が知らない今夜の出来事を話し始めた。弘紀を迎え入れてすぐに立てた雨戸に大粒の雨が打ち付ける音が聞こえてくる。
先程、上屋敷の御殿の中へ戻った弘紀はすぐに隠し戸をぬけて修之輔の部屋にやってきた。弘紀が来る前、修之輔は濡れた着物を脱いで単衣に着替えたものの寝付くような気分にはなれなかった。課されている報告書もどこまで書いたら良いのか分からない。どこから、何を考えたらいいのか分からずにほとんど放心しているところに弘紀が来た。
弘紀は着替えておらず、先程の着物のままだった。弘紀も雨に濡れている筈で、着替えたほうが良いと、そう思うが口に出せない。そんな修之輔の様子を見ながら、弘紀は語った。
修之輔を市中見廻り組の見張りにすることは、以前から弘紀に伝えられていたという。修之輔が山崎に命じられて毎日書いていた報告書は、充分にその役割を果たしていた。
「貴方の報告書は、時系列に準じてどこに行ったか、何をしたか、そして岩見が同行していた時はその注意、すなわち新徴組がいつも町のどこに注意を向けているのか、漏らさずに書き出されていました」
修之輔が報告書として提出していたそれらの情報は、アームストロング砲の取引だけでなく、くろさぎの動向を調査する時の参考にされたり、羽代が気を付けるべき江戸市中の治安の情報として上層部に共有されていた。
「貴方の働きはそれだけで十分だったのです」
弘紀の形良い眉が苦し気に寄せられる。
「今夜、貴方が動いていることを私は加ヶ里から知らされていなかった。けれど、加ヶ里なら、いえ、田崎ならば貴方にそうさせるだろうと予測がつく範囲のことでした」
声は大きくなくても、口調は激しく厳しい。弘紀が今、修之輔の前にいるのは強い自責の念に駆られた故の行動だった。
市中見回り組に薩摩との取引がなんらかの形で漏れれば新徴組にも動きがあるはずで、取引当日の修之輔の誘いに岩見が乗るか乗らないか、それは加ヶ里によって注意深く監視されていた。
「結果としてはその試みは上手くいったのです。岩見は貴方の誘いを断って薩摩の三田屋敷に向かった」
加ヶ里はあの料理屋の近くにいて様子を見張っていた。市中見廻り組が動いて岩見が料理屋に入らず、修之輔が浜に向かって走り出した様子から、酒井氏にこの取引が気取られたことを悟って上屋敷に直ちに伝令を送ってきたのだという。
一方で、中屋敷から出た船が通る運河の途中には山崎が待機していた。船の小回りが必要な個所で陸から綱を牽いたり棒で押したりして航行を援護する力仕事が山崎に任じられた仕事だった。一度、中屋敷に戻る船から取引に支障が生じたことを聞き、山崎もまたその知らせを直ぐに上屋敷に知らせた。
加ヶ里と山崎二人の情報を受けた弘紀は、そこで修之輔が破綻の可能性がある取引に巻き込まれていることを始めて知った。
最悪、アームストロング砲は浜に打ち捨てるという選択肢もあったが、その場合、幕府からの疑いの目が向けられないようアームストロング砲の移送に携わった羽代藩士を見捨てなければならない。
その中に修之輔がいる。
弘紀は手元に置かせていた洋銃のうち、一つを手に取った。最近手に入れたスペンサー騎兵銃という名のその長銃は、騎乗での取り扱いを想定している上、雨中でも撃てる。今後の事態の収拾を巡って話し合いを始めた加納たちの目を盗んで、弘紀は屋敷を抜け出し、厩から松風を牽き出した。
「弘紀様? この時間からの外出はおやめください、ご家来のどなたかにお任せして、どうぞ中にお戻りください」
気づいた厩番が慌てて弘紀を止めようとし、門番もその騒ぎに気付いたが、弘紀は彼らを振り切って松風を走らせ始めた。弘紀を止められなかった門番と、弘紀が屋敷を出たことに気づいた用人たちが後を追った。
夜更け過ぎてさすがに人が少なくなった大通りを全力で松風を走らせて芝の砂浜に到着した。その場に留まっていた寅丸が走り寄ってきた。
「大砲は先ほど船に積みましたが、秋生が新徴組の目を逸らすためにこの場を離れました。所在、安否が不明です」
大砲は確保できたが、弘紀が想定していた中でも最悪の事態の一つだった。
「探せ! 絶対に、探し出せ!」
弘紀はどうしようもなく強い焦燥にかられたが、ただ町中を隈なく探し回るほかはない、そう腹を括って目を凝らしながら道筋を進むうち、松風が鼻を鳴らして弘紀に注意を促した。
松風の注意の先、雨の中、軒先に提灯を下げて立っている人影があった。提灯はカタバミ紋。あれだ、と弘紀は松風を走らせてその家屋の前に立った。町中を右往左往している間に追いついてきた羽代上屋敷の者達が数名、弘紀の後に従った。
突然あらわれた馬と武士数人の姿に、戸口に立って提灯を持っていた者達は身構えた。
「何者だ」
弘紀はその誰何に、躊躇わずに応えた。
「朝永讃岐守だ。家中の者が引き立てられたと聞いた。直ぐに返してもらおう」
名乗ることで後々生じるであろう面倒は、今は些細なことだった。目を見交わす見張りの者達の様子から修之輔が中にいることが確信できた。
「少々お待ちください。我ら酒井様の配下、市中見回り組の者です。必要があって当該の者に事情を聴いているところです」
そんな問答の相手をする余裕はなかった。弘紀は携えてたスペンサー騎兵銃を構えて見張りの後ろ、閉められている戸口に向かい空砲を撃った。だが見張りの者達に臆する様子はない。このような場面に慣れているのだろう。
そして岩見の姿が無いことが弘紀の苛立ちと焦燥を否応なく煽った。
修之輔の報告書の中に書かれている岩見は、明らかに修之輔に対して個人的な感情を抱いていた。羽代の謀の露見と岩見の思惑の両方に、修之輔は一人で対峙していることになる。弘紀の手はためらいなく銃に弾を装填し、何も言わずに今度こそ発砲した。同時に松風の脇腹を鋭く叩く。松風は弘紀の意を受けて戸口に突進し、戸板を破った。
「貴方は松風をよく世話してくれていたので、松風は貴方の匂いを覚えていたようです。馬は犬のように鼻が利きますから」
楠の匂いだったのかもしれませんね、と弘紀が口の端に微かに笑みを浮かべたが、強いて浮かべた表情のようだった。あの無人の家屋で修之輔の姿を確認した弘紀は、修之輔の着物が襟も裾も乱れていたことにも気づいていたはずだった。
「これから加納達と今後の対応について話し合わなければなりません。貴方は今夜はもう休んでください。明日の貴方の役目は全て免除するよう、取り計らっておきます」
また明日、来ます、弘紀はそう云って立ち上がり、框に向かい修之輔に背を向けた。
戸板の隙間から稲光が部屋の中に差し込んで、大きな雷鳴が長屋を震わせる。大粒の雨は滝のように屋根に打ち付けて、だが弘紀はそのまま外に出ようと戸に手を掛けた。
待ってほしい、と口にする前に、修之輔は加減の無い力で弘紀の体を自分の腕の中に引き寄せた。驚きも動揺もしない弘紀が、修之輔の腕を抑えて自分を離すように促してくる。いつもだったら下ろす腕が、何故かいう事を聞かない。力を込めて拘束してくる修之輔の腕に弘紀が不審の眼差しを向けて何かを言う前、修之輔は力づくで弘紀の体を抱え上げ、畳の上に押し倒した。
「秋生、今は……!」
力任せに押さえつける修之輔に、弘紀が抵抗して身を捩る。だが、元々小柄な弘紀との体格差をそのまま、修之輔は弘紀の両手首をまとめて抑えつけ、腿を膝で押さえ抵抗する動きを封じた。
弘紀の眼差しに影を作る長い睫毛の向こう、動揺に揺れる黒曜の瞳が修之輔を見つめる。両手、両足を抑えられて尚、それを振りほどこうともがく弘紀の体。
いきなり己の身に湧いた衝動の源を自覚する余裕なく、修之輔は弘紀の唇に自分の唇を覆い被せた。柔らかな弘紀の唇の感触。いつもは迎え入れてくれるのに弘紀は歯を食いしばって、開いてくれない。
舌を絡ませたい。粘膜を舐め上げて、唾液を吸い上げて。弘紀の熱に自分を溶かしたい。
前戯というには濃厚ないつもの接吻を求めようとして得られず、修之輔は苛立ちのままその体に触れようと手を弘紀の足の間にのばした。自分の手で弘紀が上げるあの甘い喘ぎを聞きたかった。蕩けて、修之輔の舌も指も、何もかもを受けれてくれる弘紀の。
突然、がつっ、という鈍い衝撃を頭部に感じて手を止めた。手首を解放された弘紀がすかさず修之輔のこめかみ辺りを手加減なく殴ってきた。修之輔が弘紀の体を抑えていた力が一瞬緩み、その隙に今度はこめかみとは反対側の頬を、音を立てて平手打ちされた。
本気の怒りで瞳に涙をにじませ呼気を乱している弘紀の顔を見て、修之輔にようやく理性が戻ってきた。同時に後悔と罪悪感が重く伸し掛かる。だが、すまなかった、と詫びて弘紀の頬に触れ、許しを乞うことはできなかった。
まだ力づくでも弘紀を押し倒してその体を思う様に貪りたいと渇望する自分がいる。
互いに言葉も無いまま睨み合いが続いた。膠着した緊張は遠のく雷鳴とともに次第に力を失い、そのうちに弘紀はふいっと黙って立ち、部屋を出て行った。修之輔は弱まる雨音と楠の葉を揺らす突風の音とともに、その場所に残された。
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