第10話

 闇の中に波紋が広がる。

 来し方知れず、往く方知れずのその波は、音を立てることなく周囲を浸す。

 闇から聞こえる二つの声にもさざなみのように乱れが生じる。


「古浪殿、どうもざわざわと騒がしい。この江都に満ちているのは人か、それとも鉄なのか」

「二色殿、人が集まれば鉄が集まり、鉄が集まるところに人が集まる」

「人が鉄を打ち、鉄が人を討つならば、人間同士が相打つ為に鉄も人も集まっているということか。だが江都に未だその気配無く、既に騒乱の様相を表しているのは西の都」

皇尊すめらみことに血の穢れ全てを負わせているのか。なんと恐れ多いことを」

「だがいずれ江都に血が流れるのなら、その穢れは誰が負う」

「将軍か、それとも皇尊のしろを京の都より連れ出すのか」

「あるいは、儂か其方か」

「新たなるやしろを立てるということも考えられよう」

 その言葉を聞いた途端、二色と呼ばれる者の気配に明らかに怒りの感情が滲み出す。

「穢れを負わせるために、か。数多の穢れを負うためだけの存在がどれほどの闇を抱え込むか、知っていてのその言葉か、古浪殿」

 古浪と呼ばれたその影は臆することなく、その怒りに応える。

「黒河の巫女ならばそう言っただろう。だが彼の巫女は自ら滅びることを選んだ」

 

 二色の怒りの感情は闇に霧散し、長い嘆息が空気を震わす。

 古浪の感情は風のない水面のように平らかに、ただその無機質な声が闇に流れる。


「我々以上の長さを生きてきた黒河の巫女。滅んで消え去る、それが彼女の意志だったのだ」

 応える二色の声には、哀しさよりも懐かしさが勝る。

「自ら雪に埋もれて存在を消し去るという巫女の滅びの意志に、月狼は従ったのか。……いやもしやそれは逆。雪の中に消えるのは、月狼の願いであったのか」

「そもそも狼に意志などあったのだろうか」

「あったとしても失くしたか」

「失くしたのなら、我らが新たに与えるのにな。そのむかし、我らが多くの民に与えた鉄のように」


 一度は収めた感情の波をまた揺り動かされたか、二色の気配は再び苛立つ。

「……何を言うのか、古浪殿。其方たちは我らが持っていた鉄を奪い、其方らの作る鉄を押し付けた」

 隠すつもりが微塵もない恨みの感情そのままを二色は古浪へ向けて投げつける。けれど古浪は喉の奥、軽く笑ってそれをいなした

「根に持っているのか、二色殿。だがな、元から鉄を持っていたのは其方達だけではなかったぞ。我らが東に遠征した時、日輪の巫女が統べる民はすでに鉄を持っていた。どこからもたらされたものか、それは我らの術とは異なる術で錬成された鉄だった」

「その鉄を奪ったのも其方達だったな、古浪殿。鉄は人が生まれ育つ土地を変容させる。人を生す土台が変われば、そこに芽を出す人の素質も変わるのは必然。そうして其方らはこの地をあまねく侵略していった」

「新たな技術を得た民が、生きる場を広げて行っただけのこと。有り難がられこそすれ恨まれるとは、心外にもほどがある」

「世の中が覆りすべてが始まりに戻るのなら、我らこそがこの国の万象の始点。其方等こそがこの国を始めに塗り替えた異端の民」


「なあ、二色殿。なぜにそこまで我らを敵視する」

「我らは海の民。海からこの地に流れ着き、支配した。其方達は我らの後からやってきた」

「二色殿、そちらがこの国に来た時に、既にここで生きていた者がいたではないか」


 ――たとえば、黒河の日輪の巫女のように。


 けれど二色は頭を振って、古老の言葉を受け付けない。

「この国が動乱に覆われて全てのものが覆るのならそのときに、塗り替えられた我らの力を返してもらうぞ、古浪殿」

「我らとて全てを手に入れているわけではないと前々から言っておるではないか、二色殿。氷川神社は斐伊川ひいかわ神社、其方の眷属による支配は出雲より遥か離れた関東一円に広がっている」

「稲穂を祀る稲荷神社。その祭祀の祠は江都の街角のあちらこちらに。天照大神あまてらすおおみかみは稲穂の実りをもたらす神。いつの間にやら拝まされているのは思っていたのとは違う神だと、多くの民が気づくのはいったいいつになることか」


「全ての根源は分枝し縺れて絡み合い、どこからどこまでが一つのものであったのか、既に分からなくなっている」

「この世が覆るその時こそ、全てをこの手に戻す時」


 闇の漣の来し方はいくつかあるらしく、重なり合い、交じり合った波はその大きさを増して広がっていく。既に闇は揺れ動き、闇の濃度の乱れが棲み付く者の感情を乱す。


 そして。

 闇の中には誰もいなくなった。

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