第9話

 雨の中、修之輔が連れて行かれたのは蔵屋敷と三田屋敷の間に細く伸びる町家の一つだった。表にも中にも灯りはなく、無人家だが荒れてはいない。

「見廻組の屯所の一つだ」

 修之輔の背後、岩見の声が耳元に触れる近さで聞こえた。

 酒井氏は薩摩屋敷の周りだけでなく、江戸市中にいくつもこのような場所を抑えていて、市中見廻り組や新徴組の警邏の拠点となっているという。


「外で見張りをしていろ」

 岩見が言葉短く配下の二人に命じた。入り口の木戸が立てられると、勝手を知る場所なのか、岩見は手近な灯明に油差しから油を足し、提灯の火を移した。燃える油があるのならここは頻繁に使われているということだろう。


 屋根に当たる雨の音が空き家に響いた。

 砂浜の大砲はどうなっただろうか。


「こっちに」

 岩見が手に灯明を持ち、修之輔を二階へ上がるよう促した。狭い階段を上がると人一人通れるぐらいの細い廊下がすぐに座敷へ通じている。開いたままの襖から中に入ると、破れが目立つ障子が正面にあった。近くに寄って軽く開けてみた。深い庇に遮られて雨は入ってこないが、跳ねた飛沫が頬に当たる。雨音の奥から響く波の音に、眼下には砂浜が広がっていることが分かった。

 月の光は低く垂れこめる雨雲を仄かに光らせて、地上の輪郭をかろうじて描き出す。

 思わず先ほどまでいた砂浜と思しき場所に視線を向けると、そうと知っているから分かる程度に微かな灯りが動いていた。

 寅丸達だ。

 移動を始めているということは、大砲は砂の中から引き上げられ、今、波打ち際まで運んでいるところだろう。隠せる場所もなく、もっとも無防備な状態だ。洋上の船が燈す明かりは波に揺られて眠たげに動くだけ、まだ羽代の船は近くに来ていないようだ。


 たん、と背後に軽い音がした。振り向くと、座敷の襖を閉めきった岩見が灯明を畳の上に置くところだった。

「そこからなにか見えるか」

「いや、何も。雨がまた強くなってきた」

 背後の窓辺を背にして岩見の視線が砂浜へ向くのを遮った。障子を閉める時、破れ目の一つに指を掛けて裂け目を広げた。ここから外の様子を窺える。

 三畳ほどの狭い座敷の中、修之輔は岩見と互いの吐く息が感じられるほど近くに向かい合った。湿った着物が肩に張り付くのが不快だった。


「秋生」

 岩見の目が修之輔の目を見る。障子の破れ目の外に見える景色に岩見の目を向かわせてはならない。修之輔は意識して己の目を笑みに細めた。

「秋生、俺は」

 そこまで口に出して後が続かず、岩見が下を向いた。

 しばらく続いた沈黙に、なんだ、と声をかけようとして、ふいに顔を上げた岩見に両肩を捕まれた。

「秋生、羽代には戻らず、江戸に残らないか。新徴組に入れるよう俺の方からも計らう」

 修之輔は岩見を落ち着かせようと、宥めるつもりで肩を掴む岩見の手に自分の手を重ねた。だがすぐにその手は岩見の手に握り締められた。

「……岩見殿は新徴組を辞めるのではなかったのか」

 絡められた指の強さに困惑しながら、修之輔は時間稼ぎの問いかけを岩見に投げかけた。

「秋生がいれば今の務めにも耐えられる。ともに」

 岩見が強く修之輔の体を引き寄せて抱きすくめた。

「秋生、お前のことが好きだ。いつからかなのか分からない。初めて会ったあの時からなのかもしれない」

 いつもは物静かな男の、激情をかろうじて押し殺した告白を修之輔は聞いた。

「今夜の秋生の誘いは、だからとても嬉しかった」

 修之輔は岩見の体を受け止める体勢を装って、体の向きを変えた。障子の破れ目から外が見える。砂浜の水際に点る小さな灯りはもう動いていなかった。波打ち際まで大砲を運ぶことが出来たようだ。

 そして遠くから浜に近付いてくる小さな灯りが見えた。中屋敷から戻ってきた羽代の船だ。


「今夜酒を酌み交わすことはできず、一つ床にも入ることができなかったが、せめてこの雨が止むまで」

 目方のある岩見にのしかかられて体勢を崩し、二人して床に倒れ込む。止めろ、と云い掛けてふいに頭が冷えた。


 ここで岩見を足止めすることが自分の務めだ。

 それは参勤のために羽代を出る前に、既に決められていたことだった。羽代のために、弘紀は近代兵器を手に入れなければならない。弘紀の望みを叶えることが自分の役目であり、存在する意味でもあった。


 岩見の手に体を開かされた。手足から力が抜けていくのが分かった。岩見は抵抗らしい抵抗をしない修之輔の様子をみて、押し付けていた身体を一度離し、修之輔の両脚の間に自分の体を捻じ込んだ。修之輔の腰を掴み、自分の体に密着するように引き寄せる。


 修之輔は岩見の肩に腕を回し、自ら頬を寄せた。弘紀が自分にそうするように。

 嬉しそうに目を細めて、修之輔に抱き寄せられる時の弘紀のあの華やかな。


 眩しい陽の光を思わせる弘紀の傍にずっといたから、自分も元から明るい日の当たる場所を生きてきたのだと勘違いをしていただけだ。元から自分がいるのは闇の中。銀色の月が冷たく光を零す夜の底。


 目を閉じて、すべてを闇に溶かした。


「触れても、いいか」

 感情を圧し殺した声音で岩見が云う。修之輔はその首に腕を絡めて引き寄せた。

「触れるだけで、いいのか」

 岩見の耳朶に自分が囁いたその言葉が相手を誘惑するものだとは、頭の隅で分かっていた。


 時間は、どのくらい。


 押し倒されたから、浜辺の様子は見えない。

 船は浜に着いたのか。

 大砲は船に引き揚げられたのか


 あと、どのぐらい。


 首筋に岩見の唇が触れる。

 修之輔の袴帯の後ろの結び目は岩見が、前の結び目は自分で解いた。

 岩見の手が裾を割って、修之輔の素肌の足を撫で上げる。思わず体が小さく痙攣した。


「秋生は男に抱かれたことがあるのか」

「……なぜ」

「仕草が慣れているし」

 岩見の手が素肌に触れてきた。

「体も反応している」


 抵抗すれば体の自由を封じられ、相手の動きに反応を見せなければ殴られた。

 自分の身を守るために染み付いた所作が甦る。


 漆黒の深淵から這い上がってくる自分の昏い記憶を打ち消すのは、弘紀の滑らかな肌の感触。いつもなら絹を滑らせるあの肌が、次第に熱を帯びて汗に湿り始めた時のあの手触り。ひた、と吸い付くように離れない重ね合わせた二人の肌。

 自分よりも小柄な体を痛めないようにと思っても、あの熱にのめり込めば加減を忘れる。加減の無い愛撫に弘紀の口からは絶え間なく快楽の喘ぎが零れ落ちて、耳腔を満たした弘紀の声は修之輔の脳髄を溶かしていく。

 今、自分の素肌を這っているのは岩見の手と唇。けれど弘紀が修之輔の手で感じていたであろう快楽を、そこに重ねる。

 首筋、鎖骨、胸。

 膝の裏、腿、そして。


 雨が降りしきる北品川の空き家の二階で、浅ましく息を乱れさせているのは最早、岩見だけではなかった。


 キィイインッ!


 急に、激しくなる雨音を縫って甲高い金属音が聞こえた。

 もう一度。


 今度の音は破壊音を伴っていた。続いて大きく馬のいななきが聞こえた。

 階下の入り口がこじ開けられようとしていて揉み合いに会っているらしく、数人が騒ぐ声がする。岩見が機敏に起き上がり、刀を手にして閉じた襖に寄った。細く隙間を空けて外の気配を窺うその様子を見て修之輔も立ち上がろうとしたが、乱れた衣服に動きを阻まれた。


退け!」

 叫び声と共に、戸板が完全に破られる破壊音が小屋を揺らす。

「松風、良くやった。そこにいろ!」

 どんなところでも明瞭に響き、聞く者に己の意思を明確に伝える、あの声は。

「……弘紀」


 階段を駆け上ってくる足音が聞こえる。

 岩見が刀を抜いて襖をあけ、廊下に出て行った。止めなければと思うのに、体が思うように動かない。


「秋生を返せ。あれは私のものだ」

 襖の向こう、視界の影に弘紀の声と気配がする。今すぐに側に寄りその身を守らなければ。足に絡まる袴は抜いて、手探りで自分の刀を探す。岩見に明かりを消された座敷の中は真っ暗だった。


「名乗りもしない者が何を言うのかと思えば」

 岩見がその言葉と共に前に踏み込む足音がした。薩摩の示現流を受け止め払い除けるその膂力で、岩見が弘紀に向けて刃を打ち下ろす。取り返しのつかない気配に焦燥は限界を超え、修之輔は刀を持たないまま廊下に走り出た。


 鉄と鉄が互いに力を持ってぶつかり合う音が響く。弘紀は岩見の斬撃を受け止めていた。ただ受け止めるだけならば相手の刀は反発し、直ちに次の攻撃が繰り出される。しかし弘紀は岩見の刃を受けて刀身の向きと角度を変えていた。

 岩見の膂力は弘紀の刀の先に流され、押し合っている刀を離せばその瞬間、弘紀の刀が下段から岩見の首を狙う。

 それは黒河にいた時、修之輔が弘紀に教えた沙鳴さなきの技だった。


 岩見が自分の刀を受け止めた弘紀の太刀の意匠に目を止める。

「その刀、どこかで見覚えがある」

 上背に決定的な差がある岩見に見降ろされながら、それでも弘紀は気迫で負けることなく睨み返した。

「名乗れというのなら、私は羽代の当主、朝永讃岐守。一介の下士風情が大名相手に刀を抜くなど無礼極まりない行いだ。この場で斬り捨てられても文句は言えまい」

「……朝永讃岐守?」

 岩見の動きが一瞬、止った。


「秋生を、返せ」

 弘紀は岩見の刀を勢いよく払い除けた。岩見の刀の刃先が柱に軽く食い込む。その隙に弘紀の目が修之輔を一瞥する。ふたたび撃ちかかる岩見の刀を弘紀は受け止め、また二人は睨み合った。


「弘紀様、そこから下りて下さい!」

「そこの者、無礼だぞ! 羽代当主になんという振舞いだ!」

「なぜ大名が単身でここにいる……!」

 入口の混乱を搔い潜って空き家の中に進入した羽代家中の者、二、三人が階段の下に走り寄ってきた。

 ふいに岩見が刀を滑らせ、鍔で弘紀の刀を弾いた。体を強く押され、それでも弘紀は足を踏ん張って転ばない。だが体の均衡を失ったその隙に、岩見は弘紀の脇をすり抜けて階段を足早に下りた。

 暗く狭い場所で右往左往している羽代の者達を撒いて空き家の外へ、岩見は雨がまだ強い芝の町へと姿を消した。

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