第8話

 加ヶ里が修之輔と岩見のために用意した料理屋は、芝増上寺の門前町の一角にあって、そこから五町ほど離れて薩摩の蔵屋敷がある。大型の武器を江戸市中で受け渡しするその取引自体が危ういものである、そう弘紀が言っていたことが気に掛かり、修之輔は中屋敷にあった地図で芝の町並みや道を確認した。

 芝の町は増上寺を中心に広がっており、江城からやや離れて南西にある仙台藩伊達氏の上屋敷の辺りから北品川に向かって南へと伸びる道が何本か平行して走る。

 薩摩の屋敷は海に面した蔵屋敷の他、ほぼ隣合うようにより広大な下屋敷があり、三田屋敷との呼び名の通り、三田の地まで広がっていた。


 羽代が大砲を引取るのは蔵屋敷からだが、羽代は幕府にその届け出をしていない。軍備増強のためと申し出れば正規の価格でしか手に入れることができず、財政を立て直し始めたばかりの羽代にその負担は大きすぎた。

 薩摩から破格の値段で買い取るその大砲は、そもそも彼の藩が幕府に無断で手に入れた物である。公に薩摩から手に入れたことが分かれば、譜代朝永家の信用が損なわれる。受け渡しは秘密裏に行う必要があった。 

 例え弘紀の指示が無くても、取引がある蔵屋敷からそう遠くないところに自分がいるのなら、何か不測の事態があった場合に助けとなれるような備えは必要だと思った。


 その日、朝から雲は重く空に垂れこめて、昼過ぎには一度、強い雨が降った。降る雨の長さは明らかに短くなっていても、その激しさは増している。長雨の季節がそろそろ終わりに近づいている。

 松風は馬場にぬかるんだ泥があると、時折その泥の中に体を横たえて体中を泥まみれにする。馬体から泥を洗い流すのは大仕事なので、厩番も、厩番から手助けを頼まれる修之輔も、なるべく松風を泥に近づけたくなかった。

 だが、昼過ぎの雨が地面を緩ませた馬場は、松風の泥浴びに最適の状態になっているだろう。修之輔は、今日は松風の馬追いを休止することに決めた。明日になれば多少は水が捌けているに違いない。松風には少々我慢してもらうことにした。

 夕方を過ぎて中屋敷に顔を出して特に用事も変わりもないことを確かめてから、修之輔は芝へと歩いて向かった。


 芝増上寺は将軍家とゆかりが深く、寄進を受けたその広大な境内の入り口にそびえる大きな赤い山門が有名である。縁日でなくても参詣する人の数は多く、門前町は昼夜を問わずに賑わいを見せる。

 江戸の名所がどこもそうであるように、大通りは日が落ちても人通りが絶えない。その表の大通りを一本入ると間口の狭い店が立ち並び、町は色街の一面を見せ始める。嬌声が右や左から聞こえる道を通り過ぎる者は客を引くのが女人だけでないことに気づくだろう。

 増上寺の僧の夜の相手をしていた寺小姓は、年齢を重ねて塔が立つと寺を出される。それでも容貌に名残があるうちは、生業なりわいそのまま、色を売るために陰間茶屋に入る。馴染みだった寺小姓に逢いに来るために通う僧侶や、女盛りの脂が抜けていない後家女房、大名屋敷の奥に仕える高位の女中も、そこで色を売る色子の商売相手である。

 寺小姓の他、金に困りがちな若手の芝居役者は稼ぎの足しと贔屓客を探すため、陰間茶屋にも籍を置いていたという。しかし芝居小屋が立ち並ぶ猿若町の近くの陰間茶屋が幕府禁制となってから、色子を置く店は古刹の裏手に限られた。


 今、修之輔が歩いているのがまさにその古刹増上寺の裏手にある七軒町と呼ばれる色町だった。客を引くため道に出ている女人はともかく、通りすがりの修之輔の顔を見た色子が時折あからさまに敵愾心てきがいしんの目を向けて来て、修之輔が腰に差す大小を見た途端、これは同業者どころではないと慌てて店の影に隠れる。

 そんな姿を目の端に見ながら、江戸に長くいる者が修之輔の容貌を評する時、芝や猿若町という地名を出していたことを思い出した。だが伝え聞いた吉原の煌びやかさとは程遠い芝の暗い街角では、色子の容貌など見えようはずもない。

 風紀が良いとは言えないこの辺りの一画に、加ヶ里が手配したという料理屋の看板が見えてきた。


 二階建てのその建物の一階の廂の下に付くその看板は、そうと思って探さないと見つからない。半間の戸口に下がる長暖簾には紋が染め抜かれているが、それだけだった。

 一見して料理屋とは思えない店の外見は、前に訪れた日本橋の百川と似通うようで、しかし全く異なるものだった。

 暖簾の前に立つ修之輔の足音に気づいたのか、すぐ横の小さな格子窓から人が覗く気配があり、直ぐに暖簾の片隅が上げられた。

「秋生様と伺っております。御二階へどうぞおあがりください」

 こちらと目を合わせないまま、腰を低く折り曲げた小男が修之輔を迎え入れた。

 口上はそれだけで、刀を預かる素振りもない。暖簾をくぐった中の狭い土間の玄関を上がると、緩く螺旋を描く階段が二階へと伸びていた。他にも客はあるようなのだが、騒ぐような声は聞こえない。百川では頭上からも足元にも煌々と灯されていた明かりは、この料理屋では腰高に所々を照らすだけである。修之輔が階段を上がり切って二階の廊下に足を付けると、甘い匂いの香が何処からともなく漂ってきた。


 案内をする女中の姿は見当たらず、けれど奥の座敷の襖が開いている。中に入ると簡単な酒器が置かれていたので、ここで良いのだろう。修之輔は刀を外して部屋の掛け台に置いた後、上座は空けてその対面に座った。


 岩見は遅れるかもしれないと云っていた。

 自分が岩見と食事をする間に、羽代と薩摩の大砲の受け渡しが終わるはずだった。遅れている岩見を待つ手持無沙汰に、掛け台に置かれた自分の刀を眺めてみた。弘紀と揃いの黒漆の鞘。青海波の浮彫が施された鍔に漣千鳥の下げ緒が結ばれている。意匠も装飾も、全て揃いにしたと弘紀は云っていた。

 今度並べて眺めてみたいと弘紀に頼んでみようか。そんなことを思っているうちにふと、この部屋の灯りではない光をその鞘が映していることに気がついた。

 光の元を探して背後を振り返ると襖が少し、開いている。襖の向こうの部屋の灯りを鞘が映しているらしい。修之輔は襖を締めておこうと立ち上がり、鼻腔にまた、先程の甘い匂いを感じた。

――匂いは襖の向こうから。


 羽代城の弘紀の部屋より格段に質は劣っていても、充分に華やかな花鳥の絵が描かれたその襖。指を掛けて閉める前に、いつもの警戒と護衛の習慣で中を一瞥した。


 その部屋の中には、緋色も鮮やかな床が一組、延べられていた。

 枕元に並べて置かれた枕は二つ。細い明かりしか灯さない行灯と、仄暗いその足下の影には小さな器があった。鼻腔を刺す微かな香りは、この器に満たされた丁子の油から漂っていた。

 弘紀と過ごす夜に使う椿の油は、弘紀が特別に取り寄せた物だ。多く使われるのは丁子の油で、それは修之輔の過去の記憶と直接結びつく。


 窓の外からは客を引く女人の声と、色子の作り声が混じって聞こえてくる。

 武家を相手にしているというこの料理屋が、買った色子を連れて入る連れ込み宿であることを修之輔はようやくさとった。

 思わず立ち上がり、自分の刀を台から取り上げて腰に差さずに足早に階段を駆け下りた。驚いた店の者が声をかけてくるその前に、料理屋の戸口で修之輔の前に人影が立ち塞がった。足を止めてゆっくりと顔を上げる。

 それが誰かは分かっていた。


「秋生、待たせてしまってすまない」


 岩見の精悍な顔には、珍しく焦り表情が浮かんでいた。だが修之輔と目を合わせると、寄せられた眉の間の緊張が少し緩んだのが少ない明かりの中でも見て取れた。こちらを見るその目の中にある感情に気付かないふりをするのは、もう無理だった。

 声を、うまく出せない。何を言ったらいいのか、分からなかった。

「今夜、これから用事ができた。約束を別の日にすることはできないか」

「……どう、して」

 修之輔がかろうじて口に出すことができたその言葉の意を、深く捉えないまま、岩見が早口で答えて寄越す。

「新徴組の全員が今夜、招集された。薩摩に妙な動きがあるらしい。これから薩摩の屋敷に行かなければならない」


 それは、もしや羽代との。

 揺れる修之輔の目をどうとったのか、岩見は修之輔の腕を取って自分の胸に引き寄せた。背中に回されてこの体を抱きしめる腕の力。


 今、出て来たばかりの座敷の隣、枕が二つ並べられた奥の部屋。


 加ヶ里はそうと知っていてこの店を手配した。どこからどこまでが加ヶ里の、そして弘紀の意思なのか。だがこれは、今この状況は、弘紀の意図したことではないという確信はあった。

 以前、修之輔が弘紀の次兄を暗殺した時、それは弘紀の命を受けない田崎の指示によるものだった。羽代の家中の人間を手駒としか考えていない冷酷さは、加ヶ里を仕込み、修之輔を刺客に仕立てた田崎の仕手の特徴だ。


 羽代のためという大義名分のために、当主である弘紀の意思すら捻じ曲げられる。

 

 修之輔は、頭の中がぐるりと大きく回る感覚に目を伏せた。

「秋生が羽代に戻る前に、必ずまた」

 引き寄せる時は勢いのまま、けれど体を離すときは惜しむように、修之輔の背に回された岩見の腕がゆっくりと解かれた。


 芝の裏道からその向こう、表通りをカタバミ紋の提灯が行く。表通りの行く先は海に近い蔵屋敷ではなく三田の屋敷だ。走り去った岩見が新徴組の隊列に合流したのを見届けて、修之輔は踵を返した。

 こちらの様子を暖簾の影から窺っていた料理屋の主人に今夜の座敷の代金を聞くと、既に貰っているという。

「あの座敷、今夜は使わない。片づけてくれ」

 手早くそう告げて、市中見廻り組と新徴組がとおっていった表通りから一本奥、芝の裏通りを薩摩蔵屋敷の裏手にある砂浜へ向けて、修之輔は走り始めた。


 元々市中見回り組による薩摩屋敷への監視の目は厳しい。三田の屋敷には隣接した町屋に新徴組の屯所が置かれ、屋敷の塀を上から覗き込むように監視している。少しでも日頃と違う動きがあれば、それは直ぐに酒井氏へと伝えられる。屋敷の中で不用意に大砲を動かしていたのなら気付かれて当然だ。


 昼間に降った雨で塵を洗い流された裏道の地面は、足を滑らせることなく走ることができる。色街の二階座敷から漏れる有明行灯の明かりや木戸番が下げる提灯の明かり。そんな僅かに道に零れてくる光を拾いながら、修之輔はひたすらに走った。額に微か冷たいものが当たって、それが再び降りだした雨だと気づいたのは薩摩の洋船が黒々と浮かぶ北品川の砂浜に着いた時だった。


 大きな黒船の手前、砂浜ぎりぎりに寄せられているのは、羽代中屋敷から出された船だった。ここに留まっているということは、まだ大砲は積まれていない。

 走り寄る修之輔の姿を見咎めて、船の影から姿を現したのは原だった。

「何があった」

「酒井様に気付かれている。この船をどこか別の場所へ」

「分かった」

 原の判断は早かった。すぐに船底を覗き込んで合図を送ると、隠れていた数名が身軽に船から飛び降りて舳先を押し始めた。船が浜を完全に離れる前に、船上から原が顎の先で砂浜の片隅を指した。

「あの辺りで寅丸と外田が大砲を牽いている。だが砂に嵌ったようで予定の刻限までにこの船に詰み込むことができなかった。一度この船は中屋敷に戻らせる。時間を稼いでまたここに戻る。それまで見つかるな」


 羽代の船影は夜の海を速やかに滑って遠くなった。

 人の足なら陸の近くの乾いた砂より波打ち際の方が走りやすい。修之輔が原の指した方へ急いで向かうと、確かに、黒々とした物を押したり引いたりしている人影があった。

 近づいて確かめた人影は間違いようもなく寅丸と外田で、彼らもこちらを認めた。

「手伝う」

 修之輔が大砲を持ち上げる手を貸そうとすると、寅丸に制止された。

「車輪を転がす板の片方が外れたんだ。それを探してくれ」

 云われて足元を見回すと、大砲の影にそれらしきものが見つかった。板から外れて砂に沈み込んだ車輪を掘り起こし、再び板の上に載せなければならない。

 その作業の前に、修之輔は今の状況を彼らに伝えた。

「この取引、詳細はともかく薩摩が良からぬことを企んでいると酒井様が気づいて薩摩屋敷に市中見回り組を寄越した。こちらに見回り組の手が回る前に、せめてどこかに隠すことはできないか」

「無理だ」

 即答する外田の隣で寅丸が何か考えている。

「いっそ両輪を砂に沈めるか。見回り組の目をそれでごまかし、後は同じ高さになった車輪を改めて木の板に載せ引き上げればいい。片方の車輪を持ち上げるよりも力の入り方が均衡で確実だ」

 寅丸の迅速な判断に外田と修之輔は無言で従い、沈んでいなかった側の車輪の下からも木片を引き抜いた。柔らかな砂に、鉄の塊が沈む。

「もっとだ」

 三人が両手を使って必死に砂を掻き、大砲の半分ほどが隠れた時、不意に銃声が響いた。大きな怒鳴り声も聞こえてくる。大人数が町を挟んだ向こうの通りを移動する気配があった。

「どうなっている」

 寅丸が砂を掘る手をいったん止め、身軽に漁師の見張り台の上に上った。

 どうやら騒ぎは薩摩三田屋敷の周辺で起きている。

 薩摩屋敷に出入りする浪人数人が屋敷から飛び出して、見廻り組を薩摩訛りの口調でからかいながら砂浜とは反対の愛宕山の方へと走って行くようだ。この程度の行いが日常茶飯事の薩摩は、見廻り組のあしらいに慣れているのだろう。道の向こうは次第に静かになっていった。


「カタバミ御紋の提灯は来た道を戻り始めたようだ」

 寅丸が見張り台から下りてきた。外田が肩から少し、力を抜く。

「一安心だな。ならば今度はこいつを牽き上げるぞ」

「ちょうど船が戻るころには間に合いそうだ」

 大砲の砲身を外田が支えて持ち上げる間に、修之輔と寅丸が左右の車輪の下に木片を差し込んだ。いよいよ後は引くだけだと、三人が大砲に縄を掛けようとしたとき、寅丸が何かに気づいた。

「ちょっと待て」

 修之輔と外田も寅丸が見ている方を見た。漁師小屋の向こうから提灯の灯りが近づいてくる。灯りの中に浮かび上がるのはカタバミ紋。酒井氏は周到に後詰を残し、見廻り組本隊を引き上げさせていた。

「まずい」

 寅丸が呟いた。だが、近づくその提灯の光に浮かんだのは、修之輔が良く知る顔だった。

「……岩見」


 そこに伏せてじっとしていろ、と寅丸と外田に言い残し、修之輔は一人、身を低くして浜を移動した。漁具が置かれた一画まで辿り着き、そして立ち上がる。


 視線の向こう、岩見からは薩州蔵屋敷の灯に照らされ、自分の姿が明らかに見えるはずだった。

「秋生、どうしてここにいる」

 声音に不審を隠せずに、だが小走りに寄ってきた岩見の背後には、他に二人の人影があった。新徴組は一人では行動しない。岩見と組んで動いている者達だろう。だが今はそれに躊躇している余裕はなかった。


「俺は江戸をあと少しで離れる。岩見殿と会えるのもあと数えるほどだろう。今夜、酒杯を交わせなかったのは残念だった。一人で羽代の屋敷に戻る前に、せめて一目だけでもと思って来てみたのだが」

 思いがけずに会えてよかった、と、すらすらと偽り事が口から出ることに、我が事ながら呆れた。さすがに真意を測りかねるのか、岩見の目には疑いの色が強い。

 だが岩見に疑われようが、構わなかった。岩見の注意を逸らし、この場から連れ出すことが修之輔の役目だった。


 頬に水滴があたる。

 先程は気まぐれに落ちてきただけの雨粒が、今度は次第に強く降り始めた。

 髪が濡れて前髪から雫が落ち、雨粒が直接瞼を、唇を濡らしていく。


 岩見は自分の言葉を信じるだろうか。


「……この者、俺の知り合いで羽代の秋生という。今夜ここで見聞きしたことを聞いてから屯所に戻る。先ほど潜んでいた小屋は、空き家だったな」

 岩見が自分の背後に控える二人に話しかける。二人は岩見より下の立場の者らしい。岩見に促されて、修之輔は砂浜から離れ、薩摩屋敷にほど近い空き家の中に連れ込まれた。

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