第7話

 翌日の夕方近く、前夜の弘紀の言葉に若干不安を感じながら残雪を牽いて中屋敷に行くと、案の定、山崎に呼び止められた。


「前に言っていた辻番だが、帰国前に練兵の訓練を充分にしておきたい。訓練にあたっていない秋生、お前に辻番の任をしばらく任せたいのだが」

 一見関係なさそうだが、この状況での取ってつけたような辻番の任命は、やはり弘紀の意思がはたらいているものと思われた。

「分かった。だが、下屋敷での小太刀の修練が三日に一度ある。その日は外してもらいたい」

 そうだったな、と山崎は頷いた。

「その日は別の者を割り当てることにする。辻番所の場所は分かるか」

「あの山王社の近くだろう」

 羽代に番が割り振られている辻番所は、上屋敷前から伸びる潮見坂の先、裏霞ヶ関の坂をのぼった突き当りにある。番所の簡素な建屋の背は二本松藩下屋敷に面していて、その屋敷屋根の向こうには山王社の境内の木立が間近に見える。


 初日の番には中屋敷から山崎が同行してきた。なぜか付いてきた外田は、その足で講武所に行くからそのついでだ、などと言っている。

「外田、寄り道にしては離れすぎていないか」

「ついでにケチが付いた前の山王参りのやり直しをしていこうかと」

 全て言い切る前に山崎に睨まれて、外田は明後日の方に顔を向けた。

「あほうが。そろそろ講武所での修練も終わる。しっかりと挨拶回りをするつもりならそろそろ時間が足りない時期だぞ」

「おっと、山崎それよりも既に辻番所に人がいるようだが」

 外田が話を逸らそうとして指さしたその先、簡素な小屋の屋根の下には確かに既に座っている人影があった。


「なんだ、秋生の相方は原か」

 その言葉通り、番所のくたびれた畳の上に座しているのは羽代の下士である原だった。修之輔が原に会うのは昨年の十二月以来である。随分しばらくぶりにその顔を見たのだが、外田はそうでもなさそうだ。怪訝に思っていると外田がこっちを見た。

「秋生には言っていなかったか。ここ一月ほど前から原も講武所に顔を出している。それまでは別の任に就いていたとかで、あちこちを走り回っていたらしい。ここのところようやく落ち着いてきたか」

「そうだな」

 不愛想に原が応える。羽代城に詰めてともに働いていた時の印象とまるで変わらない。羽代でも一人で行動することを好んでいた原は、この様子だと外田とはあまり一緒にいないようだ。

「原は確か田崎様の江戸屋敷に滞在しているんだよな」

 山崎の言葉を聞いて外田が大袈裟に顔をしかめた。

「ご家老の屋敷などと息が詰まって死にそうだな。原もよく耐えられるものだ。中屋敷はいいぞ、のびのびできる」

 最初は中屋敷に不平たらたらだったのに、外田は随分意見を変えたようだった。反応のない原を意に介することなく、外田が修之輔に顔を向けた。

「この間は小林がここの当番だったんだ。なのにあいつ、道行く女子おなごに悉く色目を使って苦情がきたというから、まったくしょうがない奴だ」

 山崎が再び横目で外田を睨む。そこに外田が加わったらもっとひどいことになっていたと思っているに違いない。山崎が修之輔に言う。

「秋生と原なら小林のようなことはせんだろう。大丈夫だな」

 分からんぞ、案外こういう奴がむっつりなんだ、と原を指さして軽口を叩き外田が笑う。原の表情は変わらないが、外田もそれを気にしている様子はない。

「秋生、後でなにか食い物でも持ってきてやろうか」

「だめだ外田、任務中は飲み食い禁止だ」

 一人で賑やかな外田に山崎が釘をさした。

「そうか。じゃあお前ら、今日一日頑張れよ」

 騒ぐだけ騒いだ外田がその場を去って、ようやく静かになった番所の中、原と修之輔に任務の確認をした後、山崎は中屋敷に戻って行った。


 辻番所は本来、通りの治安を守るために辻々に置かれているものである。町に近い場所ならともかく、江城が坂の下に広がり、譜代大名の武家屋敷が立ち並ぶこの一画で不心得をする者などは見当たらない。町中の簡素な辻番所とは異なり、屋根も壁もある小屋で畳に座ることができるあたり、ここの辻番に期待される役目は往来の見張り程度だろう。

 原は他人と極力話すことを避ける性質なので、修之輔は番所の中にただ自分一人いる心持で通りを眺めた。

 駄馬で運ばれる荷や水菓子売りが行き過ぎる往来を見張りながら静かに持ち場に座っていることは、修之輔にとって苦ではなく、むしろ楽な役目だった。

 この辺りの武家屋敷にまで足を延ばしている朝顔売りの外にも牛が立派な竹を何本も積んだ荷車を牽いていく。七夕の飾りが、という商人の言葉を漏れ聞いて、そういえばそんな季節かと思った。


 辻番の初日は特に何事もなく過ぎて、だが事態が変わったのは次の日の昼過ぎのことだった。


 お伊勢参りから戻ってきたところらしい町民の集まりが埃に汚れた衣装そのままで辻番所の前を通り過ぎた。その集団の向こうに、いつのまにか行者のくろさぎが立っていた。これまで見せていた余裕のある物腰が消えて、代わりに追い詰められた獣の焦燥が立ち上っている。

「これまではちょろちょろと羽代の間者が儂の後をつけて回っていたようだが、置き人形に配置換えか」

 苦々し気な口調でくろさぎが原を睨んだが、原は無言のままその表情を一切変えない。

「貴様らの後釜がまた儂を見張っている。いったい誰だ、儂を見張っているのは」

 原が感情の無い声でくろさぎに声をかけた。

「江都の辻番所にわざわざ申し出る訴えがそれか」

「ふん、だいたい見当はついておる。カタバミ紋のあのお方だろう。地方の小大名はお上に気取られる前に自ら手を引いたか。こざかしい。田崎の差し金か」

 低く呪詛のように言葉を吐き散らすくろさぎの背後を、すいっと通り抜ける女人の姿があった。商家風の出で立ちだがどこか玄人の色気が隠せないその姿態。

 加ヶ里だ。状況を一目で見て取ったはずだが、こちらになにか声をかけるでもなく、ただ懐から手拭を出した。そして何か虫でも払うようにその手拭を数回ひらひらと振り回してから、加ヶ里はこちらを見返りもせず足早に立ち去った。


 背後を通り掛かった者のそんな奇妙な振るまいにくろさぎは気づかず、ただ番所の方を睨み付ける。

「何故に我らこのように肩身の狭い思いをしなければならないのか。我らが教えの頂点に立つ日輪の巫女がその座を下りてしまわれたからだ。今は羽代の当主、本多弘紀様が唯一、この世に残る巫女の直系。教えの頂点に立ち、我らの往く先を導いて欲しい、ただそれだけが望みなのだ」

 勝手な物言いで、弘紀を自分に都合の良い存在に祀り上げようとするくろさぎの真意に、修之輔は明確な怒りを覚えた。


「本多ではない。我があるじ、羽代の当主は朝永を名乗る。別の者のことを言っているのならまだその無礼は見逃そう。だが朝永讃岐守のことを指しての妄言ならば」

 修之輔は立ち上がって辻番所の屋根の下を出た。原は制止しようとせずにただ成り行きを注視している。

「狂狼、元々そなた達は巫女の護衛を務めた者。巫女が信者にその教えを、加護を、あまねく分け与えるその背を守っていたのがお前たちの役割だ。忘れたのか」

「俺は狂狼ではない。羽代当主だけでなく、秋生の家も辱めるようなその言い様をこれまで随分と見逃してきたが、もはや見過ごせるものではない」

 役目を持たない武士が往来で刀を抜くのは禁じられていても、辻番に任じられたものは刀で以て不審者を制圧することが許されている。

 修之輔は刀の柄に手を掛けた。今日、腰に差してきたのは弘紀と揃いの長刀。塗の黒漆は曇り空から滲み出す日光にも青白い光を零して落ちる。


 その時、裏霞ヶ関の坂を馬が一頭、勢い良く駆け上ってきた。辻番所の前に正確に止まったその馬上から、

「くろさぎ、といったか」

 そう声がした。

 大声ではないのに騒めく往来でも良く通る声。

 御殿勤めを抜けてきたのか、上質の薄藍の絽に鮫肌小紋の袴の股立ちを軽く取った姿で、松風に乗った弘紀がそこにいた。


「これは御子様、わざわざお越しいただき大変恐悦に存じます」

 諸手を上げんばかりの喜色を隠さず、くろさぎは弘紀を迎えた。

「近くでお目にかかるのはこれが始めてかと存じます。わたくしめは黒河の」

 くろさぎが何かさらに言い掛けようとした時、ふいに松風が弘紀を乗せたまま後足で立ち上がり、前足でくろさぎを威嚇した。

「無礼者。その方は私の許可なく口をきけるような身分ではないだろう。身の程をわきまえろ」

 松風に威嚇の指示を与えた弘紀が、これまで修之輔が聞いたことのない強く固い口調で言い放つ。

「そなたは私の言うことを聞けばいいのだし、私が訊いたことにのみ答えれば良い」

 相手に有無を言わさぬ口調に、くろさぎがその場の地面に平伏した。

「私にも言いたいことがあるが、その前に佐宮寺神社の神主からの伝言だ」

 それは礼次郎が持ってきたあの手紙のことだろうか。

 くろさぎが地に伏せていた顔を上げた。

「巫女は全てを葬り去ることを望んだ。その望みを叶えるために、神社に伝わる古書道具、それら全ては神主自らの手で焼き捨てた。日輪の巫女の由来も縁起も、その根幹を喪失した。今となっては巫女の存在すら証明することは難しいだろう、と」

「焼き……、捨てた……?」

「これが文箱に同封されていた」

 弘紀が何かを袋から取り出して、くろさぎの目の前に投げて寄越した。

 それはかつては巻物であったであろう物だった。真っ黒く焼け焦げたその巻物は、くろさぎが震える手で拾い上げ、開こうと紐を解いた途端にぐずぐずと崩れ落ち、黒い塊がぼろぼろと道に零れ落ちた。

「これは、巫女の血筋の正当を示した唯一の……」

 黒い塵を掻き集めようとしたくろさぎの指が、さらに塵を粉々にする。

「なぜ、なぜこのようなことを……!」

「私は知らない。だが、それをお前に見せることが母の遺志であると、田崎も言っている」

「田崎……! あやつこそが日輪の巫女をもっとも崇拝していたのではないか!」

 弘紀はそれには無言を貫いた。


「古籍も縁起も残っていなくても、あなた様が巫女の教えを覚えていれば、また一からすべてを始めることが出来る。弘紀様、お母上の教えの一欠片でも覚えておいでではございませんか」

「そなたは私に質問できる立場にないと、さっき言ったばかりだと思うが」

 弘紀がその黒耀の瞳でくろさぎを睨み据える。くろさぎは上げていた面を再び地に伏せた。

「だが、その質問だけには答えておこう。母は私になにも伝えなかった。母が日輪の巫女という名で呼ばれていたことを私が知ったのも、昨年、そなたが秋生にそう言ったということを伝え聞いたのが切っ掛けだ」


「秋生の、秋生の家の者は、まさか秋生にも何も伝えられていないのか……!」

 くろさぎが縋るような目で修之輔を振り向いた。

 修之輔は反応しなかった。その話はくろさぎの口からしか聞いていない。是も非もないことだった。

 崩れ落ちるように地に伏すくろさぎに、馬上から弘紀が声を掛けた。

「ここにある神主からの手紙だが、そなたに読んで聞かせてほしいと頼まれた場所がある」


 そうして弘紀は神主からの手紙を読み上げ始めた。


「儀式の道具も、古書も、全てを燃やし尽くした」

「偽りの月牙の剣は、巫女の鈴を溶かしたもの。巫女の鈴は数を欠いた。ならば剣も鈴も元からの形は失われたと見るのが道理、依るべき霊性などどれほど残っているものか」

「残っているのは当たり障りのないモノばかりだ。祀る神が何であろうと構わない。我が神社の祭神は建御名方神たけみなかたのみことただ一柱。日輪の巫女も月狼も、淫祠邪教に過ぎない」

「迫る次の世で人の心を導く者は、闇も陰りもなく、ただ人間を見守るだけの存在であればいい。人の幸せなど神は与えはしない。雛鳥のように口を開け、ただ己に都合の良い出来事を待つだけの人間ばかりが巷に溢れたら、いったいこの世はどうなってしまうのか」

「いにしえの邪教は全て忘れ去り、己の足で歩くことを始めよ」


 弘紀はそこで手紙を畳んだ。くろさぎは地に伏したままで声を絞り出す。


「それでも、誰かから与えられる幸運を待つことしかできぬ人間もこの世には多いのだ。どうすればいい。どうしたらいいのだ。これではまったく救われない」


 弘紀は松風を二、三歩歩ませた。

「神主の話はそこまでだ。羽代の当主として言い渡す。そちらの勝手な盲信に我が藩の藩札を用いるな。証拠を見つけ次第、そなたの身柄は江戸の奉行所に引き渡す。常にその居所を明らかにしておくように」

 くろさぎは地面から体を引き剥がすようにして起き上がり、覚束ない足取りで歩きだした。

「追いますか」

 原が弘紀の判断を仰ぐ。

「必要ない。見廻り組か奉行所の手の者かは分からないが、そこの角からこちらの様子を見ている者がいる」

 終始厳しい顔をしていた弘紀が松風の馬首を返してその場を立ち去るとき、修之輔に一瞬向けた視線は軽い笑みに細められていた。


 その夜、弘紀は修之輔の部屋にやってきた。今夜も燕の模様の浴衣を着ているのは、修之輔が買ってきたその浴衣をとても気に入ったからのようだ。

 くつろぐ弘紀の姿にふと緩んだ口許をごまかしながら、湯冷ましを飲む弘紀の側に座って訊いてみた。

「松風に乗っていたとはいえ、良くあんなに早く辻番所まで来れたな」

 修之輔のその問い掛けに、弘紀は得意気に応える。

「これまでの調査でくろさぎが出歩く時間は分かっていたのです。なので、御殿の屋根裏から遠眼鏡で番所の方を見てました」

「見えるのか」

「はい、というと嘘になりますね。加ヶ里を含む何名かを巡回させて、くろさぎが現れたら手を振るなり手拭を振るなり、目立つ動作をしろと命じていました。それならば遠眼鏡を使えば見えるので、合図があってすぐに上屋敷を出ることができたのです」

 加ヶ里が手拭いを振ったあの仕草を思い出した。人の足では時間がかかるが、音や煙の出ない狼煙のようなものなのだろう。

 厩番には無理を云ったのです、という弘紀の言葉に、馴染みあるあの厩番の慌てる姿が目に浮かぶ。

「くろさぎは、酒井殿の市中見回り組が目を付けたのです」

「なぜ」

「伊勢の御師がお札を振りまいて民衆に狂乱を生じさせ、その争乱をそのまま江戸に持ち込もうとしたことがあったそうです。大塩の一揆もあったことですし、民衆を煽動する存在に、幕府は目を光らせているのです」

 昼間の騒ぎのあと、見廻組が直接辻番所に様子を聞きにきたことを弘紀に言うと、そうでしょうね、と頷いた。

「でもこれで、くろさぎの件は片付きそうです。加ヶ里が藩札の偽造現場を突き留めました。屋形船を買い取って、その中で作業をしていたようです」

 原と加ヶ里も含まれていたその調査の任に当たった者たちは、江戸の市中を毎日隈無く探して歩いたという。

「舟なので場所を自在に移動できたのが調査を難しくしていたのですが、舟の形などの特徴を抑えたので、あとはどこにその船を係留しているのかを探せば良いのです。そう時間はかからないでしょう。見回り組の監視がありますから、くろさぎは迂闊にその船に近寄ることはできません。こちらとしてはゆっくり探すことができます」

「ならば」

「詰めに油断してはならないのですが、山は越えたといってもいいでしょう」

 弘紀の表情に安堵が滲んでいるのを見るだけで、修之輔は自分の心が充たされていくのを実感する。

「あとは、この前、百川で話したアームストロング砲です。手に入れる算段は付いたのですが、受け取る方法が少々綱渡りです。けれど、これまでずっと薩摩の懐に入っていた寅丸が充分な情報を持っていますから、大丈夫でしょう」

「寅丸を信じているのか」

「信じなければどうともなりません。そもそも彼は薩摩と通じて羽代に洋銃を持ち込んだのです」

 寅丸が薩摩と通じていたという事実にはさすがに驚いた。だが、羽代城下で寅丸が開いていた道場の彼の私室にあった書物や品の多彩さを思い出すとそれは充分納得がいく話だった。


「今度の半月の夜が取引の日です」

 重大な機密のはずなのに何でもないことのように弘紀は云う。信頼され、心を許しているからだと理解すれば、却ってこちらの身が緊張する。

「上手く行くと良いな。俺に何か役割は振られるのか」

 弘紀が目線を下へ逸らした。

「いえ、さっき言ったように少々危ない綱渡りです。貴方を向かわせることはしません」

 そして修之輔の首に腕を回して抱きついてきた。

「……そのぐらいは、当主としての私の特権を使っても良いでしょう?」

「弘紀の役に立てるのなら、どんな仕事も引き受けるつもりだが」

 ふうん、と弘紀が鼻を鳴らして、修之輔の耳元に囁いた。

「……じゃあ今夜は充分に、私を満足させてください」

「いつもは満足していないのか」

「してますけれど。じゃあ、いつものように」

 弘紀の声には軽やかに笑みが含まれる。懸案だった事柄が片付いていき、肩の重さが軽くなってきているのだろう。


 この小柄な体に背負う責任の重さと、互いの快楽を引き出すためにその体に触れることが許されているのは自分だけだという優越感は、以前より強く感じるようになっていた。


 ただ弘紀の熱い息を耳元に感じながらも、何か底知れぬ昏い沼の縁を歩いているような心地を忘れることはできなかった。


 修之輔は近いうちに加ヶ里の薦めにしたがって、岩見と会食をすることになっていた。その加ヶ里と中屋敷で行き合って、料理屋の名と予約を入れた日時を知らされた。

「もう上の方たちのお許しが出ているから、岩見様に伝えて差し上げて」

 数日前に既に加ヶ里が中屋敷に届け出を出して、山崎がそれを認めているという。山崎が修之輔に許可を出したということは羽代の上層部にもその届け出が到達しているということで、だからこそ掛かった代金は藩が出す、という流れのようだった。


「それで、芝の門前町にある店なのだが」

「芝のどこだ」

 加ヶ里から教えられた店の名をそのまま岩見に伝えると、それは、と岩見が呟いて、そして無言で修之輔を見つめてきた。

 岩見の口数が日頃から多くないことを知る修之輔は、特に気にすることもなく、いつものように唇の端に微笑を浮かべて応じた。

「どうする、一度ここで待ち合わせて共に行くか」

「……その日は虎ノ門の屯所で当番にあたっている。任務が終わったそこから向かう」

 少し遅れるかもしれないが、と、どこかこちらを推し量る口調で岩見が云う。遅れることを心配しているのなら義理堅いことだと思い、修之輔はその心配を宥めるために岩見の背に手を当てながら応えた。

「分かった。では先に座敷に上がって待っている」

 岩見は修之輔と合わせていた視線を外して馬場を見渡す素振りを見せた。その仕草は岩見の内心の動揺を表しているようにも見えて、修之輔は、自分の言葉のどこに岩見を動揺させる要素があったのか、思い返してみたが分からなかった。


 岩見との食事が予定された日は、薩摩からアームストロング砲を引き取るのだと弘紀が云っていたその日と同じ日だった。

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