第9話

 山崎から許可が出たことを岩見に知らせると、その翌日に新徴組の屯所に行くことになった。連れ立って屯所へ向かう道すがら、雉橋御門で初日に迷った道の方を行けばその先が新徴組の屯所であることを岩見に教えられた。


 冬青木坂を上る手前で、修之輔は硝子の小さな器が道端で売られているのを見つけた。陽を弾いたその色が気になって近づけば、それは綺麗な薄水色の汲み出しだった。百川楼でガラスの器に目を留めていた弘紀の横顔を思い出し、思わず手に取って見る。


 売り手によると、揃いの物だったが運搬途中で破損したのでばら売りしているという。見ればそんな半端な器ばかりが並んでいる。揃いであったならば相応の値段だったものを、聞いてみれば一つ売りならそう高い物でもない。

「これは物としては確かだろうか」

 修之輔は傍らの岩見に聞いてみた。岩見は修之輔の手からガラスの器を受け取った。微かに指先が触れあった気がしたが、岩見は意に介している素振を見せない。

「ガラス細工か。この硝子の厚さで気泡も少ない。元は良いものだと思う。……秋生は随分と金銭に余裕があるんだな」

 岩見が修之輔の手にその器を返しながらそう云う。修之輔は、これは自分の金ではない、とは言い出せなかった。


 弘紀は修之輔の部屋に来ると、何回かに一回、修之輔に江戸名物を買ってきてもらうための金を置いていく。弘紀の身分を思えば、それはこちらが気を使うような額ではなく、また断ることが許されない命令に近いものだった。


「酒も飲まないし、道楽があるわけでもない。使う当てがないから貯まっているというだけだ」

 修之輔がそう言い繕うと、岩見は修之輔から目を逸らして目の前に並ぶガラスの器を眺めた。

「いつものように食べ物ではないのだな。国元への土産の準備か」

 羽代の参勤はあと一月ほどで終わる。最初から分かっていた筈のことを、今、修之輔に改めて確認する岩見の心が分からなかった。


 薄水色の硝子の器を懐に仕舞ったまま冬青木坂もちのきざかを登って、新徴組の屯所に着く。屯所は飯田町の高台にあって、講武所の屋根が視界の下に見えた。案外近い。


 岩見に案内されて、剣術の訓練が行われているという屯所内の建屋に入った。剣道場としての誂えは、鉄砲洲の伊藤の道場と同じようなものだが、そこの空気は全く違っていた。ひんやりとした緊張感。それは自分の生国である黒河の冷えた空気に良く似ていた。

 新徴組屯所内で行われている訓練を見ていると、一人一人の技量の高さが目についた。先ほど眼下に眺めた講武所には、江戸市中の名だたる剣術家が集められているが、時に己の力と門下生の勢いに恃んで行き過ぎた振舞いをする者がある。

 新徴組は、それら剣術家を相手にして完全な鎮圧が可能な戦闘集団だった。


 個々の技量よりもなにより、その統率力が特徴的である。個人の技量を突出させることなく、束ねあわせて集団での威力になるように考え抜かれている。それは数人の集団を想定したものではなく、数百人の軍を動かす兵法に通じるものだった。


 個を殺して命令を下す者に絶対的に従う。江戸幕府開闢からその屋台骨を支え続けている雄藩、庄内酒井氏の意思が、新徴組の隅々にまで張り巡らされていた。


 稽古とは呼べない実戦を想定した訓練は粛々と続けられていて、途中、こちらの姿に気づいたらしく三人ほどが近づいてきた。一人や二人で行動することを日頃から避けているらしいその振る舞いは、実戦で訓練された兵士を思わせる。


「岩見、それは誰だ」

 修之輔を目の前にして、そのうちの一人が岩見に問うた。

「羽代の馬廻り組頭で秋生という。剣の腕を見込んで連れて来た」

「そうか」

「少し相手をしてもらえないだろうか」

 岩見の申し出に、聞かれた相手はちらっと視線をこちらに向けた。

「相手をしてもいいが大丈夫か。そう頑丈そうな体には見えない」

「まずいと思えば俺が助太刀に入る」

「わかった」

 岩見に案内されて、竹刀が掛けられた棚から一本、拝借する。

 道場の空いた一画で、三人が一組になって修之輔一人に対峙した。予想外ではあったが、羽代の虎道場で似た様な稽古をしていた。なにより十数人を相手にした戦闘を修之輔は経験している。特に狼狽えることなく中段に竹刀を構える修之輔の様子に軽く眉を寄せる者もいたが、概して無表情だった。


「はじめ」

 岩見の合図で、三人はすっと一か所に縦列した。連続した攻撃を掛けてくるのだろう。三人がばらばらに動くのではなく、連携した動きを常に訓練しているようだ。

 まずは勢いよく先頭の一人目が打ちかかってきた。

 修之輔はその一撃を受けて直ぐ、深く腰を沈めた。相手の竹刀も戻る反発を失ってともに沈む。これでこの相手の返しが一瞬遅れる。相手の脇腹に潜り込み、その体を盾にして二人目の追撃を避けて、三人目の胴を狙った。

 実戦の刀であったなら、その三人目の腹を割くことができた手応えを感じ取って直ちに、その手から竹刀を叩き落した。左右から同時に打ち込んでくる二人分の竹刀を左右に握った竹刀で防ごうとして、利き腕ではない左の竹刀で防ぎきれずに肩を打たれた。


「そこまで」

 岩見の声が響いた。


 先程とは異なる、何かを推し量る目で新徴組の者達が修之輔を見る。修之輔は臆せずその目を見返した。

「もう一度、手合わせを願いたい」

 修之輔のその申し出を相手は直ぐに了承し、同じ三人が先ほどと同じ隊形を取った。が、修之輔はいったん彼等を制してから、竹刀が掛けられた場所の隅にある小太刀の長さに誂えてある木刀ともいえないような木片を手に取った。

 右手に竹刀。左手に小太刀を模した木片。二刀流の構えで相対する。相手が待ったを掛けないのはそれを容認したからだろう。


 きゅ、という先頭の者の足指が床をする音が合図だった。


 同じ順番で打ちかかってくるのは、相手も修之輔の技量を確かめたいからだ。交差させた竹刀と木片で一撃目を受けてから回り込んで三人目の胴。そして。


 同時に打ちかかってくるうち、右側は竹刀で力を受け流して刃先の向きを変えた。瞬時に左側は短い木片で迎撃する。利き腕ではない力の不足は短い刀身で補い、今度は二撃目、三撃目を完全に封じ込めることができた。


 修之輔を含めて立ち会っていた四人が同時に力を抜く。外からの合図は必要なかった。ここまで、という共有された認識は、立ち会った者同士でなければ分からない。


「腕が良いのは確かだが、防御に偏り過ぎていないか」

 やや硬さの減じた口調で一人がそう修之輔に声を掛けてきた。

「元々修した剣術の流儀が防御を主体としたものだったので」

「そうか」

 相手はそれ以上は聞いてこなかった。岩見の普段の様子にも見られるそっけなさは、必要以上に余所者に深入りしない警戒心からきているものだろう。そしてそれは新徴組というこの組織の性格からくるもののようだった。

 その後は個別に立ち合いをいくつかさせてもらった。羽代の原や寅丸と同等の腕を持つ者や、外田のように力に勝る者もいて、勝ち越せたのかどうか分からないくらいには負けた。


「途中まで送ろう」

 立ち合いを終え、居合わせた新徴組士に大変勉強になったと伝えて屯所を辞して門を出ると、岩見が途中まで修之輔を送るという。その言葉に甘えて、雉橋御門まで戻ってきた。

 久しぶりに全力で竹刀を振るった立ち合いと、小太刀を使えるようになっている自分の技量の向上に、修之輔はいつになく軽い昂揚を覚えていた。頬に熱が残っているのを感じて、たたんだ手拭で煽いで首筋にまだ滲む汗を拭いた。


「岩見殿、見送りはここまでで良い。今日は屯所を見学させてもらって勉強になった。礼を言う」

「また堅苦しいな、秋生は」

 岩見が呆れたように云うが、その口調の中に別の感情が見え隠れしているような気がして、けれどそれを確かめる前に、少し町の方を回らないか、と岩見が修之輔に持ち掛けた。羽代上屋敷の門限までは時間がある。それを見越しての誘いだろう。修之輔は頷いた。

 

 二人がそぞろ歩く町は家路を急ぐ町人が小走りに行きかっている。そのぐらいの雑然さが却って心を開かせたのか、岩見は今の仕事に疑問を感じていることを修之輔に打ち明けた。

「実は、新徴組に暇乞いをしようかとも考えている」

「なぜ」

 そう聞きはしたが、あの屯所内で岩見がどこか周囲から浮いていた事を修之輔は思い出した。

「なぜだろうな」

 しばらく黙った後、岩見は自嘲気味に零した。

「……自分の役割りを果たせないからかもしれない」

 見慣れた苦笑が削ぎ落された岩見の表情は、どこか痛々しいものだった。


 自分の役割りとは、なんだろう。


 言葉を交わしながら歩くには表通りは賑やか過ぎる。二人は表通りを一本、中に入った。

「秋生はもし国を出なくてはならなくなったら、どうする」

「免許皆伝の免状を持っている。剣道場でも開いて身を立てるか」

 弘紀とそんな話をしたことがあった。

「それはいいな」

 岩見が呟くように同意した。


 黄昏時に人影の輪郭は風景に滲み、持ち主がいない屋敷の門には柳の枝が揺れる。

 その影に、ふいに岩見は修之輔を引き込んだ。背に腕が回され体を引き寄せられる。

 

 自分より大きな体。体の自由を奪う意思。

 修之輔は自分の体が言うことを聞かず、身動きが取れなくなっていることに気づいた。強い焦燥が体全体を走った後、過去の記憶が甦る。あの、忌まわしい。

「秋生、俺は」

 修之輔の異変に気付かないまま、岩見は修之輔を抱く手に力を込めた。

 

 頭の後ろに岩見の手。

 顎を捉えられて動きを封じられ、目を瞠った。


 ――自分の役割り、は。


「札だ、札が降っているぞ」

 不意に、表通りが騒がしくなった。

 一瞬、反応が遅れた岩見の腕を振り切って、修之輔は騒ぎの現場へ走った。小道を抜けた先、目抜き通りの地面に紙片が撒かれている。小走りに見つけた町人が拾い集めるので道を行く人の流れに乱れが生じ、それが騒ぎを大きくしていた。


 そして騒ぎの中心には、白い装束を身に着けて札を撒く御師くろさぎの姿があった。


「日輪の巫女様はこの世の行く先を見通して、我らが進むべき道を示して下さる!」

 修之輔は撒かれた札を手に取り確かめた。上半分は青海波の上を舞う鳳凰の色刷りで下半分に聞いたことのない神社の名前が刷られている。山崎たちが市中の店で見たと云っていた改竄かいざんされた羽代藩札と同じ物だろう。

 こちらに気づいて近づいてきたくろさぎが、見せつけるように修之輔の目の前に数枚の札をばらまいた。

「出雲には御年十八になる優れた御子がある。いずれ出雲の頂点に立つお方となろう。而して羽代の当主殿は十九歳。出雲に勝るとも劣らぬ。御霊みたましろに十分な素質があるとお見受けする」

 弘紀のことを云っているのだと察することはできたが、あまりにも無礼な口のきき方に、思わず刀に手が掛かる。くろさぎは殺気立つ修之輔を面白そうに見た。

「伊勢、出雲に匹敵する黒河の巫女の血を引く唯一の子孫なれば、我らを率い、かつての一大宗派を再興させん」

 熱に浮かされたようにくろさぎは喋りつづけるが、その目はどこか虚ろで焦点が怪しい。


「もはや逃げも隠れもせぬ。月狼、いや狂狼。羽代の当主と話をさせろ!」

 その手の内のみならず、袂から、懐から、まるで無尽蔵に数多の札が現れて、強風を受け薄曇りの空に舞い上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る