第8話
墨堤の遊覧の翌日、修之輔は外田に誘われて伊庭流の伊藤の道場に出向いた。
「おう何だ、中に入れんのか」
「外田か。見ろよ、これ」
そう道場の門弟の一人が示したのは、一枚の瓦版だった。身元不明の武士が切られて運河に浮かんでいたと刷られている。二本差しに羽織袴の立派な風体だが、どこの家中も不明人を申し出ていないという。
「無差別な人斬りか、どこぞの意を受けた闇討ちか」
「刀を抜いた形跡があるらしい」
「刀を抜いても相手を切れねばどうしようもない」
外田が腕を組み、もっともらしいことを言う。
「外田は、人を斬ったことがあるか」
「斬った、とは命を絶ったまでを云うのか」
「そうだ」
外田は頭を掻いた。
「ないなあ。斬りそうになったことはあるんだが、小林たちに取り押さえられた」
取り押さえられたのは相手ではなく外田自身のことらしい。酔った酒席でのことらしく、それは当然のことだろう。
「伊藤先生は確か、斬ったことがありますよね」
門前の賑やかな気配に、様子を見ようと奥から出てきた道場主の伊藤がその質問に応えた。
「二人程か。火事の後始末に乗じて町人に乱暴をする者がいた。それを斬った」
「あの時はちょっとした騒ぎになったんだよなあ」
「こう、ばっさりと袈裟懸けに。あれほどの太刀筋は見たことが無い、見事だと、調べに来た役人に褒められた」
「それでも奉行所からは長く調べを受けた。やはりそう簡単に人を斬るものではない」
昼日中の出来事だったので、切られた者の乱暴狼藉を町人の多くが証言した。伊藤が伊庭流の道場主であることも有利に働いたに違いない。それでも十日の蟄居を命じられたという。
「秋生は」
話の流れで、話の輪からは一歩離れていた修之輔にも声が掛けられた。それは人を斬ったことがあるか、という問いかけだった。
黒河で斬った人数、弘紀の兄を斬った数を加えて、二十人程度ではないかと数えたが、それを口にすれば羽代家中の不祥事を外に漏らすことになる。弘紀が領地内で襲われたあの日、外田はその場にいなかった。事件の詳細を知る者は羽代家中でも限られている。
修之輔は最近覚えた微笑を口の端に浮かべただけで、明確な返答を避けた。周りはそれを否の返事と取ったようだ。
「人を斬ったことのある奴の方が珍しい。秋生、心づもりをしておけよ。いつ人を斬らなくてはいけなくなるか分からん」
「秋生は道場ではかなり強いが、実践は全く違う。人の骨を断つのは、竹刀とは格段の違いがある」
「人を斬ったことのある伊藤先生の言葉だ、重みがある」
「生半可な肝の座り方だと鬼気に吞まれるというが」
皆は話しながら道場の中へと入っていった。
人を斬る。
それはそんなに大変なことなのだろうか。
修之輔は、どこか不思議な気持ちで外田や伊藤達の背中を眺めた。
黒河で初めて人を斬った時、確かに感情が昂ぶるのを覚えた。
だがそれは弘紀を守るための行動だった。目の前の相手が弘紀を傷つけることが、許せなかった。此の世からいなくなればいいと、ただそれだけを考えていたように思う。
いや、それは殺す前。
相手の息の根を絶つ一撃を打つときに考えていたのは、どうすれば確実に息の根を止められるか、ただそれだけだったように思う。
相手の刃を防いだ自分の刀を、寸分の狂いなく相手の喉に突き立てる。興奮や昂揚とは正反対で、むしろ壊れやすい玻璃の細工を扱うのにも似た、ひどく冷静な心持だった。
人を斬るとは、そんなにも自分を奮い立たせなければ、役目とやらを強く思い起こさなければ、できないことなのだろうか。
弘紀を守るという自分の役目は、意識しなくても自然に自分の身の内にあるものだった。修之輔は、自分の在り方が外田達とは根本的に違うように感じた。
外田との剣術の修行の他にも、羽代下屋敷で修之輔が受ける曲淵先生の小太刀の特訓は、当初の予定通りに続けられていた。
長刀よりも小太刀の方が小回りが要求される。刀のように鋼の自重で威力を得ることができない分、力も要る。身に着けなければならないのは、より細やかな身ごなしと、瞬発させる力の加減だった。
そこまでだ、という曲淵の制止の声で、小太刀を振るう手を止める。
「そこそこ形にはなってきたんだがのう」
どこか機嫌悪そうな曲淵が修之輔の顔を睨んでくる。
「何かご無礼をいたしましたか」
そうじゃない、と曲淵が否定する。
「秋生が技術を身に着ける速さは目覚ましい。だが、どうも今のままだと邪道に逸れる」
どういうことだろうかと、曲淵の話の続きに耳を傾ける。
「小太刀だけでなく、刀をまさに振るう時、そこには何らかの心情が動いているはずだ。主君を守らなければならない、誰かを助けなければならない、あるいは自分の名誉を汚された、など。だが」
曲淵が目を細めてこちらを睨んできた。
「おぬし、そのままだと切れるから斬る、などという辻斬りと同様の術を身に着けることになるぞ。剣を振るうための目的を常に腹に据えておいた方が良い」
「主を守るため、というのは目的にはなりませんか。私はそのために曲淵先生の指導を受けています」
そういえばそうだったな、じゃあ良いか、と、曲淵は自分の言葉を軽く翻す。
「儂が奉行所におった時、あからさまな悪さをしてしょっぴかれた連中のことは、この野郎、ぐらいにしか思わんかったが、稀に怖いと感じる者がいてな。そやつらは躊躇なく人の物を盗み、殺気なく人を殺した。金がないから人の金を盗む、憎いから殺す、ならまだ分かる。だが取り分け目的もなく、まさしく切れるから斬っただけ、という者がたまにおった。話が通じんのだ、そういう者とは」
「攘夷の思想を、あるいはそれに反対する思想を広める目的で、人を殺める者が最近は多いと聞きました。目的と方法が離れすぎて、それを余人は理解できないのではないでしょうか」
曲渕は顎髭を捻りながら反対方向へ首を傾げた。
「目的と方法の乖離か。だがその間を埋めているのが攘夷や開国を主張する彼らの思想だろう。聞けば理解できぬこともない。儂が怖いと思ったのは、自分でも何故なのか説明もできぬまま、息をするように人を殺す者がいる、そんな事実だ」
長年、江戸の奉行所に勤めていた曲淵が相対した者達には様々な者がいたのだろう。
「ま、おぬしには主を守るという大義があるからな」
年寄りの気のせいだ、そんなことを曲淵は呟いた。
その日の訓練が終わり、途中まで帰り道が同じ曲渕と甲州街道を歩きながら修之輔は曲渕に聞いてみた。
「曲渕先生、先生は人を切ったことはありますか」
「そりゃあ、たくさん。なんせ務めていたのが奉行所だ」
「それは多くの命を奪った、ということでしょうか」
曲淵は目を剥いて修之輔を見上げた。
「何を言う。人を殺すのは犯罪だわい。犯罪を取り締まる奉行所が、たとえ相手が罪人であっても公儀の取り調べなく勝手に人を殺めることは許されないことだ」
儂のは罪人を生け捕りにする捕縛術だ、と曲淵が背を反らせて威張る。
ちょうどその時、若い女人の二人連れが通りがかった。曲渕は彼女たちが通り過ぎるまで執拗に目で追い、結局、体の均衡を失って転びそうになった。女人は曲淵を不審者と見たのか、ちらちらとこちらを振り返る。何を勘違いしているのか、曲渕がそちらに向かってひらひらと手を振った。
「ふむ、しかし見目良い者と歩くのはなかなか面白いな。まるで儂が注目を集めているように感じる。まあ、こう見えて儂も昔は」
ふと、行く先にある小さな祠の影から、白い着物を着た少女の姿が現れた。それは先日、百川楼近くの徳富稲荷神社で見かけた少女だった。ちらっとこちらに投げた視線が一瞬、修之輔と交差する。
――綾織純白の狩衣装束は袴も白。中の小袖は鮮やかな緋色で、袖詰めの緒と袴の裾飾りも同じ緋の色。
少女はこちらに向かって小走りにやってきて、だが、立ち止まることなく通り過ぎた。身に着けている衣装の割に身軽で、まるで体重を感じさせない。曲淵がぶるっとその身を震わせた。
「……あれは、何だ」
「何か不審な点がありましたか」
「さっき話した、あれがまさにそのような者だ。まさかあんなに年若いのに」
修之輔は何も感じなかった。だがその修之輔を下から見上げて一瞬間を置き、曲渕が呟いた。
「……秋生が何も感じなかったのなら、それはやはりおぬしがあれと似通ったところがあるからかもしれんな」
どうも辛気臭いから馴染みの店で一杯引っかけて厄払いしてから帰る、曲渕はそう言い残して昼のうちから内藤新宿の路地の奥に消えた。
修之輔は上屋敷に戻って、いつものように夕刻前、残雪を牽き中屋敷に向かった。中屋敷では山崎が指揮する下士達の調練がだいぶ様になりつつあった。
今は洋銃の準備が無いが、その代わり参勤の荷物として持ってきた種子島を肩に担がせ、行軍する時の銃の取り回しも教え始めている。調練を仕切っている山崎は、羽代に戻ったら国許にいる者達に教えてもっと大人数で動けるようにする、と云うのだが、その山崎の言葉を聞いて小林がにやりと笑った。
「木村の尻を叩いて、しごいてやる」
山崎が眉を上げた。
「あいつはお前より万事、器用だぞ。尻を蹴飛ばされるのはお前の方じゃないのか」
色々と逸脱しがちな外田や小林のような藩士をいつも相手にしている山崎も大変そうだ。
修之輔は山崎の周りに人がいなくなるのを見計らい、声を掛けた。
「前にも会った岩見殿から、新徴組の屯所に一度来ないかと誘われている。行っても良いだろうか」
山崎は修之輔の顔をちょっと眺めて、大丈夫だ、と許可した。山崎の一存だけでいいのかと疑問に思い、訊いてみた。
「加納様に届け出を出さないでいいのか」
「秋生が新徴組の岩見殿と交友していることは、既に秋生自身から報告を受けているし、それを咎める言葉は上から出ていない。今の世の状況をよく知る人物から可能な限り情報を得ることは、前から我らに課されている役目だ。構わん、行ってこい」
確かにそれは江戸に来た時から云われていたことだったが、修之輔は微かな違和感を覚えた。しかし許可されている以上、何か表立っていう必要も必然性もそこにはなかった。
――山崎は許可するでしょう
そう云った弘紀の言葉どおりになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます