第7話

 数日のうちに、弘紀が羽代家中を連れて墨堤に遠出することが、中屋敷にも伝えられた。修之輔も集められた中屋敷の座敷では、多くの下士たちが同行できることを知らされて喜びの声が上がった。


「遊びに行くんじゃない、弘紀様の護衛だ」

 山崎がしかつめらしくそう云うが、そもそも、その弘紀の意向が下士たちの息抜きになれば、という計らいなのである。この間の火消しの様な仕事ではなく、景勝地遊覧の護衛ならばそんなに気の張るものではないと、羽代家中の面々ならば指折り数えてその日を待つ者ばかりだろう。


 そんな浮かれた雰囲気の中、山崎が読み上げた同行する者達の名前の中に、その山崎本人と外田の名前がなかったことに気づいた者はどれだけいただろうか。


 江戸屋敷の石島が当日の行程の説明を始め、既に上屋敷用人の藤木から詳細を聞いている修之輔は座敷の後ろへ下がった。そこには今回、この遊覧に同行しない外田が腕を組んで、じっと座っている。

 修之輔は側に座って外田の様子をそっと窺ったが、特に表情を変えているようではない。外田とよくつるんでいる小林が、こっそり説明の輪から抜け出してきた。小林は外田の名が呼ばれなかったことにさすがに気付いていたようで、いつもならば素直に喜びを顔に出すところだが、外田の様子を見て自分がどんな顔をしたらいいのか、あからさまに戸惑っていた。

「外田さん、その日も講武所ですか。訓練、その日だけでも休ませてもらったらどうですか」

「ああ、いや、いいのだ、儂は。これまでも充分外に出ている。それよりも小林は説明をちゃんと聞いて来い」

 と、こっちもいつもとは違う外田の反応に、小林はむしろ不安さえ覚え始めたらしく視線を泳がせた。その小林に声を掛けたのは、こちらも護衛の任から外れている山崎だった。

「外田は毎日の報告書の提出を怠ったり、無駄に門限ぎりぎりに屋敷に戻ってきたりしているから、今回は加納様から名指しで任から外されたんだ。ご遊覧のお供とはいえ、小林もしっかりお役目を全うしないと、残りの江戸在勤期間、中屋敷から一歩も出られずに過ごすことになるぞ」

 脅しの入った山崎の説明を聞き、小林は、分かった、と頭を掻きながら説明を聞く下士たちの輪に戻って行った。修之輔の目の端に、山崎と外田が黙って目を見交わせ頷き合っている様子が映る。

 彼等は彼等で何か別の任務があるのだろう。羽代が抱えている問題がいくつもあることを知っている修之輔は、特に問いただすこともなく外田達の姿から視線を外した。


 墨堤遊覧の当日は、朝から薄い雲が空を覆っていた。

 松風に騎乗して上屋敷を出発する時、弘紀は一度空を振り仰いで空模様を気にした。弘紀は早緑の羽織に灰鼠の野袴を着け、近習が寄越した黒漆も艶やかな陣笠を手に持っている。

「もし降っても大したことは無いだろうけれど、予定通りの行程で、できるだけ早目に戻るように調整してほしい」

 弘紀の言葉に、加納を含めた家臣が頭を下げて承諾の意を示した。


 江都の活気は通り過ぎる日本橋の界隈から両国にかけて、商品を乗せて行き交う荷車が絶え間ない。羽代の行列がそこを通っても江戸市民は平伏することなく、無礼にならない程度に眺めるだけで通り過ぎて行く。

 下士の多くを連れているとはいえ羽代は元が小藩、遊覧の人数は百人に少し余るほどである。弘紀や加納などの藩上層部の人間と修之輔など護衛を専門にする数人を除き、各自の刀は柄袋が掛けられてる。人数は多くなくてもこのところの調練の成果で下士たちの足並みは綺麗に揃っており、遊覧と云うより戦行列いくさぎょうれつ、鷹狩りへ向かう一行の趣もあった。

 

 列の先頭を行く違い鷹羽の家紋が白く染められた青色の幟は、この行列が羽代の一行であることを示している。弘紀も町中の色々を見たいだろうと、修之輔は馬上の弘紀の後ろ姿を見ながらそう思ったが、大名の行列は見る側ではなく見られる側である。

 視線を迷わせることなくまっすぐ前を向いて松風を歩ませる弘紀の姿は、年若くても一国の統領に相応しい威厳を備えていた。

 

 羽代の一行は両国橋で墨田川の東岸に渡り、そこから川上に向かって北上を始めた。辺りの景色は次第に開け始めて、民家商店よりも農地が目立つようになってきた。

 歩いていれば軽く背に汗ばむほどの江都の気温は畑の作物の葉を大いに茂らせ、蕪や空豆は取れたものから町へ運ばれていく。畑の所々にカキツバタや立葵たちあおいなどの花卉が植えられているのも、どこか江都の風流を思わせた。


 江城こうじょう山下御門やましたごもんに近い羽代上屋敷を発って一刻ほどで、一行は墨堤の入り口にある水戸の下屋敷付近に着いた。大きな屋敷を横目に見ながら弘紀は下馬し、隣接する三囲みめぐり神社の境内へと歩いて行く。事前に来訪を知らせていたため、神主が鳥居の外まで出迎えに出ていた。

 控えの間で裃の正装に着替えた弘紀が身分相応のふるまいで本殿に昇殿し、祈祷の儀式が始まる。それが終わるまでの間、境内の外で待機を言い渡された者達は、どうせなら、と直ぐ向かいの牛嶋神社に参拝することを思いついた。

「秋生も行かないか」

「先日視察に来た時に参拝は済ませている。ここにいて、弘紀様がここを発つ気配があったら知らせる」

「そうか、それはありがたい」

 一度に大勢はいけないからと、藩士たちは数人が代わる代わるに牛嶋神社に向かった。しばらくして戻ってくると、

「どうして狛犬が牛なんだ」

「撫でるのはそっちの牛ではなくて、脇に在ったあっちの牛だったのか」

「あそこに見えるのが三囲稲荷の鳥居じゃないのか」

「あの鳥居は本当に堤の下にあるんだな」

「下手な絵師が書いたものだとばかり思っていたが」

 などと、見えるもの、見て来たものの感想を言い合い始めた。

 調子に乗った者が墨堤の上に上がって川を見てくる、などと言い出した丁度その時、祈祷を終えた弘紀が拝殿から出てきた。

「出立の支度をするように」

 冷静な江戸勤番の用人の指示を聞いても彼らがそんなに落胆しなかったのは、この先も珍しいものが見られることを期待しているからに違いない。


 三囲神社への参詣を終えた弘紀には、墨堤の散策と高名な料亭での食事という予定が用意されている。

 周りを近習と家臣に囲まれて墨堤を歩く弘紀の姿を、修之輔は護衛の配置である堤防の下から仰ぎ見ていた。この距離は互いの身の上からすれば仕方のない事だったが、弘紀のすぐ背後に控える加納の姿にまた苛立ちを覚える。遠近の視界が成す悪戯いたずらで、時に加納が弘紀の体に触れているように見える。

 そんなことはありえないと分かっていても、弘紀と、その側に立つ加納の姿から目が離せなくなっている自分に気づき、修之輔は一度自分の頭を振って墨堤の上から目を離した。


 自分の任務は弘紀の護衛である。

 それは分かっているのだが。


 見通しのよい隅田川の河畔、辺りに注意を向け、当主の歩みと速度を同調させながら修之輔は足を進める。弘紀の事だけを考え、弘紀の気配だけを感じていられたら、もっと自分の心は穏やかにいられるはずなのに。

 けれどそれが正しい事なのか、修之輔には分からなかった。


 長命寺を過ぎたあたりで弘紀は墨堤から下り、牽かれてきていた松風に再び騎乗した。ここから食事の用意がしてある料亭までは四半刻程度である。最近視察に来たばかり、見覚えのある周囲を見回していると、出羽三山を模した石碑が視界に入った。

 修之輔は、庄内の山を見て育ったと云う岩見の話を思い出した。


 墨堤から下りてさほど時間も立たないうちに、弘紀が朝から心配していた小雨が降り始めた。近くにある百花園の中で雨がしのげるだろうという修之輔の助言で、一行は一時的に百花園に寄ることになった。

 

 当主である弘紀が雨を避けるために借り上げた庭の東屋は、茅葺の屋根の下には腰掛けが二本程度置かれているだけの簡素な作りだった。だが、藩士の多くが植木の下で雨を凌いでいる状況なので贅沢は言えない。一つの場所に藩の上層部に当たる人間を集めてしまうのも警備上憚られて、加納ら重臣も植木の下で雨宿りを強いられた。


 そして東屋には修之輔の他、二、三人の護衛の下士が呼ばれて配置された。だが当主に視線を向けるのは無礼にあたるので、皆、東屋の外を向いている。弘紀は周りを素早く見まわしてから、目配せで修之輔を近くに招いた。

「誰も見てませんから」

 弘紀が囁く声は、春の柔らかな雨音に消える。一時的に周囲の視線が反れているとはいえ、自分が立ったままの姿勢はあまりに不自然だった。修之輔が片膝を付く略式の跪礼の姿勢を取ると、頬の間近に弘紀の手の甲があった。


 互いの体温が感じられるほどの近くに。けれどこの場で目を見交わすことはできないから。


 二人して庭に咲く花に目を向けた。

「あれは合歓木ねむのき、あちらは木槿むくげの花」

 弘紀が花木の名を呟きながら目を向ける。その先を追うように、修之輔は自分の視線を木に咲く花から花へと移ろわせる。

「ここも綺麗ですが、下屋敷の裏に牡丹屋敷と呼ばれるところがあるのです。今度、一緒に見に行きましょう」


 他に誰もいなければその背を抱いて首筋に顔を寄せ、それを応諾の返事に換えるのに。弘紀が片足を後ろに引いた。その袴のきれが微かに頬に触れる。弘紀の衣服にいつも焚き染められている香の匂い。少しだけ体を寄せて、その布に唇を触れた。


 雨はひととき強く降ったが、直ぐに止んだ。道の水たまりも土に吸われてみるみるうちに消えて行く。


 予定していた行程通り、二階の座敷からの眺望が有名な料亭に着くと、弘紀や重臣は座敷に通され、下士たちには握り飯が配られて昼休憩が与えられた。修之輔は指示があって料亭の庭で休憩を取ったが、同行した多くの藩士たちは墨堤にまで出て行った。

「外田さんに桜餅を買ってかえらないとならん」

「山崎殿にも、だ。しかし山崎殿はいくつ食べれば満足するのか」

「そのまえに自分でも食べてみたい」

 墨堤には屋台があって茶屋も出ている。道端に座って三味線を弾く女芸人の周りにも人は集まり、物騒な町中よりも郊外の行楽地で羽を伸ばす楽しさを藩士たちは充分に味わうことができたようだった。

 

 帰りは墨堤の下に呼んでおいた船で墨田川を下ることになっていた。三艘の船に弘紀と家臣、近習が分かれて乗り込み、藩士たちは徒歩で河岸を随伴する。

 参勤途中の渡河の時とは違って川に入る必要は無く、川風を感じながらの道行は心地良い。待乳山の参道が対岸に見えて、目を凝らせば両国の賑わいも下流の彼方から聞こえてくるかのようだった。

 

 行きは中間に任せていたが、帰り道、松風を牽く任は修之輔に任された。松風をあまり藩士の近くを歩ませる訳にもいかず、修之輔は一行の後方を歩くことになった。

 途中、白い行者姿の者が数名、行列の脇を通り過ぎた。

「あれはお伊勢参りの農民だ」

 くろさぎのことを思い出して思わず振り返った修之輔に、やはり後方を歩いていた江戸勤番の石島が教えてくれた。品川宿でも同じようなやり取りがあったことを思い出し、互いに苦笑する。

 伊勢神宮への参詣から帰ってきたという農民は手に柄杓を持ち、洗ってはいるのだろうが長旅の埃の染みが隠せない白い衣装を身に着けている。頭にかぶった大きな笠には大神宮の筆書きもあった。疲れ切っているだろうに、住処の近くまで帰り着いたらしく、道連れの旅仲間と交わす言葉は明るく、足取りは軽い。

 日頃とは異なる体験が良い思い出、経験になることは、農民であっても武士であっても同様にいえることだった。


 弘紀を乗せた船は隅田川を下り、運河に入って羽代中屋敷の船着き場に着けられた。中屋敷から上屋敷への距離は短いとはいえ、弘紀はそこで駕籠に乗せられ、上屋敷へと帰ることになっている。


 中屋敷を経由せずに、一足先に上屋敷に戻って松風を厩に繋いでいた修之輔は、なぜか外田と山崎が上屋敷の御殿から出てきたところに出くわした。

 外田が修之輔の姿を見て珍しく狼狽えたが、隣にいる山崎は顔色一つ変えない。

「少々用事があって上屋敷に呼ばれていた。丁度いい、弘紀様の護衛の任でこっちに来た中屋敷の者達を連れて戻ることにしよう。秋生、今日のお役目、御苦労だった」

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