第6話

 堤の下へと落ちそうになった修之輔は、岩見に腕を引かれて堤の上に引き上げられた。岩見が力の加減を誤ったのか、体はそのまま岩見の胸の中に引き寄せられる。

「助かった。礼を云う」

 岩見から離れようとして、たまにはにっこり笑って愛想よくしなさい、という加ヶ里の助言を思い出した。口の端に意識して微笑みを浮かべ、自分より少しだけ上背のある岩見の顔を見る。けれど岩見の手は修之輔の腕から離れなかった。

「もう大丈夫だから」

 その手に軽く触れると、岩見はようやく手を離した。

「……秋生」

 何か云い掛けた岩見が直ぐに口を閉じた。修之輔は少し首を傾げてその先を促したが、岩見は視線を逸らせた。

「なんでもない。……ただ秋生は良い香りがすると思っただけだ」

「羽代の上屋敷には楠がある。その木の香りではないのか」

 修之輔はそう言いながら、弘紀が身にまとう着物に焚きしめられいる香の香りを思い出した。自分の肩口に鼻を寄せてみる。微かに弘紀の香りが残っているように感じられた。


 墨堤を歩いて松風を預けた茶屋へと戻る途中、自分の少し後ろを付いて歩く岩見を振り返った。

「この辺りに名物の桜餅を売る店があると聞いたのだが、知っているか」

「もう少し先、あの幟が立っている店がそうだ」

 元々少ない口数が殊更に減り、無口になっていた岩見が苦笑気味に指を差した。いつも修之輔が江戸名物のことばかりを聞いているからだろう。けれどそうして買った江戸名物を渡す相手が羽代の当主だとは言えない。


 岩見が指差した先の店は、花見の季節ではない今も出入りする客の姿が途切れることなく賑わっていた。店先で目当ての桜餅を買い求め、包んでもらった幾つかのものとは別に、その場で一つ、桜餅の食べ方を岩見に教えてもらった。

 餅を包むように数枚、塩漬けの桜の葉が巻かれていている。その葉を剥いて食べるのが作法だということで早速葉を剥いて中の餅を食べてみると、餡が包む焼いた求肥に桜の葉の香りと塩が染みて、名物の名にふさわしい風味だった。

 弘紀が喜ぶだろう。その顔を思い浮かべれば、自然に修之輔の表情も綻ぶ。


 茶屋に預けた松風の様子を心配はしていたのだが、思っていたより何も起きていなかった。松風が人を蹴ったり噛んだりしているようなら、店主には駄賃をはずまなければならないと考えていたのだが、二頭は、というより松風は、珍しく何も問題を起こしていなかった。

「お預かりした御馬ですが、ずうっと動かず大人しいものでした。その辺りの駄馬より手間なんぞ全くかかりませんでしたわ」

 それでも多めに渡した駄賃に、茶屋の店主は愛想よくそんなことを言ってよこした。

 確かに、葉桜の幹に繋がれている松風は微動だにしていない。だが、大人しいわけではなく、目も耳も、隣にいる岩見の馬に神経質に向けられている。

 岩見の馬も牡馬で、松風と互いの力量を測って緊張が高まり過ぎ、身動きができないというだけだった。もう少し戻るのが遅かったら松風はこの馬と乱闘を始めていただろう。修之輔が手綱を握ると松風は鼻を大きく鳴らし、ようやく岩見の馬から目を離した。


 松風の昂ぶった気を逸らすために、騎乗して直ぐ早足で墨堤を北上し、白髭神社と水神社まで行ってみた。だがここまでは弘紀の遊覧の行程には入っていない。下馬して視察する必要もなく、堤から下りて広がる畑の中を進むと、花木が茂る屋敷が現れた。

 この屋敷では持ち主である植木職人が植木を売っている。売り物の庭木は、年中花を咲かせており、特に早春の梅が素晴らしいと評判で、梅屋敷と呼ばれているという。ここの庭木は町人だけでなく、武家屋敷の庭にも買われて行くらしい。

「江戸の火事で焼ける度に庭木は売れるから、植木職人は材木問屋とはいかなくてもそこそこ儲かっているようだ」

 馬首を並べた岩見が修之輔に説明してくれた。

「中には木が植えられているだけなのか」

「いや、小屋が掛けられていて、そこで茶を出してもいるそうだ。商いが上手い」

 買う気も金も無い見物客であっても、招き入れて茶代を取り、彼らの口伝えで評判になれば庭木も売れる。江戸の市中から少し離れた場所にはこういった植木職人の屋敷が点在しているという。


 花屋敷のまわりは開けていて見通しが良かった。もし弘紀がここに寄ることになっても警備に問題はなさそうだった。畑には農作業をする農民の姿がちらほらと見える。人影がこの程度なら、弘紀は駕籠ではなく、松風で移動することもできるだろう。

 上屋敷用人の藤木に報告すべき内容を確認しながら、墨田川の河畔に戻った。

「岩見殿、今日のところはこれで充分だ。助かった、礼を言う」

 修之輔が馬上で頭を下げると、岩見が頷いた。

「こちらも久しぶりにこの辺りに足を向けた。特に目立った変化がないことを確認できたから、こちらの任務も済んだことになる」


 そうして二人して隅田川の流れに沿って馬の足を進める帰り道、松風の上で感じた川風には皐月の頃より重たい暑さが混じり始めていた。


 岩見と別れて羽代上屋敷に戻り、修之輔は自分の部屋の前の楠の花が咲き始めていることに気づいた。清涼な香りが、これまでよりも強く空気に混じる。

 そういえば、松風や残雪は火事の匂いは気にしても、楠の香りは気にしていないようだ。人よりも匂いに敏感な馬たちがこの木の香りを感じないはずはない。


――この楠の香りは紙を喰う蟲を寄せ付けないから。


 先日、それを理由に、弘紀が自分の書物を詰めた行李を一つ、修之輔の部屋に持ち込んだ。楠の枝は御殿の方にも伸びているのだから、弘紀の部屋でも楠の香りの恩恵は変わらないはずなのだが。

 改めて自分の部屋を見回すと、書物が詰まった行李の他にも、弘紀の気配がそこかしこに残っているように感じた。自分の着物に弘紀の香が移っていても不思議ではない。


――秋生は良い香りがする。


 岩見に云われた言葉を思い出した。だがそれは、修之輔にはなんの感慨も呼び起こさず、単なる事実の指摘にしか思えなかった。


 上屋敷に詰める者達に出される夕食を済ませた後、修之輔は休む間もなく今日の任務の報告書の作成を始めた。その文机の傍らには弘紀のために墨堤で買ってきた桜餅がある。部屋の中はまるで季節を戻したかのように、桜の香りが漂っていた。


 明日の朝いちばんに藤木に渡す予定で仕上げた報告書を見直していると、木戸が開く音がした。軽い足音。修之輔は文机の前から立ち上がって、いつものように、框に置かれている草花模様の手持ち燈籠に火を移した。


 部屋の戸が躊躇も遠慮なく開けられて、御殿から抜け出してきた弘紀が中に入ってくる。帷子の寝衣の肩には袖を通さないままの羽織を引っ掛けただけで、その姿は弘紀の今日の執務が終わっていることを示していた。座敷に上がってすぐ、弘紀は桜の香りに鼻を動かした。

「弘紀、今日の土産に桜餅を買ってきてある」

「ありがとうございます」

 素直に顔を輝かせる弘紀の手に桜餅の包みを渡した。弘紀は早速包みを開いて、桜餅を取り出し始める。

「桜の葉はこのまま食べていいのですか、それとも外すのですか」

「外して食べるのが作法だそうだ。茶を淹れるから少し待て」

 弘紀の訪れを見越して、一度土瓶に湯を沸かしておいた。火鉢の火を熾せばそう待たずに茶を淹れることができる。その筈だったのだが。

 茶葉を取ろうとして振り向くと、弘紀は既に桜餅を食べ始めていた。

「もう食べているのか」

「とても美味しいです。あと二つありますが、いくつ食べていいのですか」


「藩札は、あれからどうなった」

 修之輔が買ってきた桜餅三個を立て続けに食べ尽くし、さすがに満足した弘紀に茶の入った湯呑を渡しながら訊いてみた。

「以前、茶箱に入っていた物は藩札その物でしたが、先日、町の中で見つかったものは下半分の表面を薄く削られて新しい紙を貼られていました。その紙の上から神社の名前が刷られていたのですが」

 それはあまり知られていない神社の名前だったという。実在するのかすら怪しい。ただ地方の一神社の名前など、江戸で全てが網羅されているわけではない。美しい図案に細やかな刷りということもあって、町人は何かご利益がありそうだからと特に訝しむこともなく、騒ぎもしていないという。

 伊勢神宮が紙幣として使用できる山田札を配っていることもあって、藩札に似た御札もそれほど異質なものだとは思われなかったのだろう。


「神社の名が刷られた藩札は、くろさぎという者が配っていたそうです。彼の者がこの件に関わっていることは明白なので、今、江戸の地理に明るい江戸勤番の者達に、そのくろさぎの行方を探らせています」

 弘紀はくろさぎと直接会ったことは無い。だが、修之輔が羽代の領地内で会った事、また品川で遭遇した事を知っている。そしてそれ以上の情報をくろさぎと過去に因縁があったという田崎から得ているだろう。

「その藩札の調査に加ヶ里が関わっているのか」

「いえ、羽代の表で働いている者をその任に就けています」

 その弘紀の返事は意外だった。では加ヶ里は何をしに上屋敷に来たのだろう。

 調査に就いている表の者を、加ヶ里が働く麹町の茶店に行かせれば済むのに、武家ではなくしかも女人の加ヶ里を上屋敷に呼ぶ理由が他にあるのだろうか。

 戸惑う修之輔の表情を見て弘紀が首を傾げた。

「秋生、加ヶ里に会ったのですか」

「今朝、墨堤の視察に行く前に上屋敷の前庭で会った」

 ふうん、と弘紀が小さく鼻を鳴らす。何か説明をしてくれるのかと思ったが、それ以上は何も言おうとしない。修之輔の方から弘紀に訊ねようとして、だがそれを制して弘紀が立ち上がり、修之輔の側に寄り添って首筋に唇を触れてきた。

 

 言葉を交わすのはまた後で。


 訊かなければならない質問だとは頭のどこかで分かっていたのだが、弘紀に答えるつもりがないということも同様に察することができた。ならば自分がすべきことは、弘紀の望みに全てを委ねることだけだった。そしてそれは反発や抵抗とは無縁の、甘やかな服従の感情だった。


 溺れる、という言葉そのものだとも、思った。

 昨日よりも今日、今日よりも明日の方が弘紀を求める気持ちが強くなる。

 

 修之輔を受け入れることに馴染んでいる弘紀は、前戯に掛ける時間より、繋がる時間の長さを求めるようになってきている。

 互いの熱を感じながら溶けあう時間を共有して、肌を重ねる度に互いの匂いだけでなく、感情も、心も混ざり合えればいいのに、と荒い吐息の中にその思いを溶かした。


 長屋塀の外は、人一人通る気配もない深更の闇で、文机の横に灯されていた灯りは既に消えている。

 そろそろ御殿に戻る、と弘紀が修之輔の腕の中から起き上がった。部屋の外に出て隠し戸へ向かうその姿を見送りながら思い出したことがあって弘紀を呼び止めた。楠の下で弘紀が立ち止まる。

「弘紀、新徴組の岩見という者に誘われたのだが、新徴組の屯所に俺が出向いても大丈夫だろうか」

 今日の帰り際、岩見からそんな誘いを受けていた。弘紀の返事には間があった。

「私の立場では、貴方一人の行動にまで指示をすることはできません。山崎に聞いて見て下さい。多分、大丈夫です」

 弘紀が微かに修之輔から目を逸らせた。

「……弘紀?」

 いつもとはどこか違うその仕草に思わず、一歩、弘紀に近付く。弘紀は先ほどまでの交情の余韻を感じさせない冷静な目で、間近に立つ修之輔を見上げてきた。

「今夜はもう戻らなければならないので」

「明日は」

 日を続けては来れないだろうと分かっていても、敢て聞いた。聞かなければいけない気がした。

「遅くまで用事があるので来れないのです。明後日は来ます。かならず」

 

 ふいに弘紀の瞳が揺れて、次の瞬間、弘紀は伸び上がって修之輔の唇に口づけた。先ほどの情欲のさなかに交わした口づけとは違う触れただけの口づけだったが、弘紀の血の温かさが感じられた。その背に腕を回して体を軽く抱くと、修之輔の肩口に弘紀が頬を摺り寄せてきた。間近な弘紀の襟元から、香の香り、弘紀自身の匂いが修之輔の鼻腔に届く。


「……貴方が悪いわけではないと、分かっているのですが」

 そう云って体を修之輔から離しながら俯く弘紀の感情を、修之輔はうまく読み取ることができなかった。

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