第5話

 参勤の期間の半分以上が過ぎて、暦は六月に入った。次第に気温が上がって汗ばむ陽気になることもある。この天気も長くは続かず、晴れ間の見える今のうちにと、羽代江戸上屋敷の者達が当主である弘紀の江戸遊覧の予定を立てた。


 公にされている限り、下屋敷の兄を訪れたことが唯一、弘紀が江戸に来てから私用での外出にあたる。まだ年若い当主がせっかく江戸に来たのに遊びにも出ず執務に掛かりきりなのは如何なものかと、江戸勤番の者達から声が上がったという。


「私よりも、中屋敷など下で働いている者達を連れて行くことが目的です」

 大名が公式に遊覧するとなると、家中から家来を多く連れて行くことになる。

 気軽な外出を禁じられ、外に出るのが許されるのは役目を言いつけられたときだけという中屋敷に詰める多くの下士にこそ、当主である弘紀の江戸見物は喜ばれるだろう。

「私自身はそこそこ楽しんでいるのです」

 修之輔の部屋を訪れた弘紀が茶を飲みながらしれっとそんなことを口にした。確かに弘紀はしばしば身分を隠して外出している。

「俺の知らないところで勝手な外出はしていないのか」

「貴方といっしょに外を歩くから楽しいのです。貴方がいなければ外に出ませんよ」

 そう弘紀に華やかに微笑まれると、修之輔はそれ以上、何も言えなくなる。


 遊覧の目的地は隅田川だという。

 江戸開闢かいびゃくの時は湿地帯が広がって人も住めない土地だったが、四代家綱公の時から隅田川沿いに堤防が整備された。墨堤と呼ばれるその堤防の陸側では、その後、水抜き土盛りが行われ、八代吉宗公の時代には桜や柳の木が数多く植えられた。

 広大な隅田川の流れと、満開の桜並木の組み合わせは、多いに見物客を呼んで、今は敷地を広く使った料亭や花園がいくつも建てられ訪れる人々を持て成す歓楽地となっている。


 本来なら桜の名所だから人の数は春が最も多い。しかし、弘紀が江戸に到着したばかりのひと月は、遊覧に出る暇もないほど用事が立て込んでいた。

 桜の季節を逃しはしても、せめて雨の多い季節になる前にと、雑事にようやく一区切りがついた羽代当主の墨堤遊覧は、予定通り、六月の上旬に催行されることになった。


 その遊覧に先立って、修之輔に現地の下見をしてくるように、との任が下された。

 上屋敷御殿の使用人控えの部屋に呼ばれた修之輔は、用人の藤木から任務の説明を受けた。

「本来ならば番方の者と江戸屋敷用人が出向くのだが、どちらも今、手が離せない案件を抱えているようで、秋生に行ってもらうことになった」

 その案件とは、他藩との隠れた武器の取引や、市中で見つかった改造された藩札の件のことだろうか、と、既に弘紀と交わしていた会話で察することはできたが、口にすることではなく胸の内に留めた。

「江戸にいる間に限るとはいえ、秋生は馬廻り組頭、当主の身辺を護衛する身分なのだから、この任にふさわしいだろう」

 藤木が云う。

「江戸藩邸の者と、ご家老の加納様が、弘紀様のお出かけの前に、前もって下見に行くことは決まっている。加納様たちの下見を効率よく行えるよう、目安となるような周囲の状況などを調べて来て欲しい」

 平伏して拝命すると、修之輔が下見をする際には松風を使う様に、とも云われた。


「弘紀様の馬ではあるのだが、最近、厩を頻繁に壊しているようだ。厩番からの報告を聞いた弘紀様が、松風を外で充分に走らせてほしい、と仰せでな」

 以前も松風は馬房の入り口に掛けた棒を折っていたが、最近は壁も蹴り始めたのだという。羽代の海辺を毎日走らせていたことを思うと、松風にとって藩邸内の厩に閉じ込められているのは息苦しく感じるのだろう。


 翌日、その松風を牽いて向かった中屋敷で、修之輔は下士の取りまとめ役である山崎に、この下見の件について相談した。

「誰か同行する人物がいた方がいいのではないかだろうか」

 山崎からは知らない地域を一人で行動することは避けるようにと云われている。山崎は腕を組んで考えた。

「そうは言ってもそう大人数で行くものでもないだろう。行く先は墨堤か。中屋敷の連中は煩いから、江戸をよく知る中間を付けた方がいいと思う」

 中屋敷の中間に手が空いている者がいないか聞いてみるか、と山崎が云う。

「そういうことなら一度、藤木様にその提案をして、上屋敷から人を出してもらうことにする」

 松風を牽くのは、あの馬に慣れている者でないと難しい。上屋敷の厩番の者についてもらうことを修之輔は考えていた。


 しかし、まず墨堤への行き方から修之輔は調べなければならなかった。

 夕方、馬場にやってきた岩見に墨堤への行き方を聞いてみたところ、岩見は少し考えた後、修之輔に自分が同行しよう、と申し出てきた。

「それはとてもありがたいが、岩見殿の仕事は大丈夫なのか」

「その仕事の一つとして認めてもらうことができるだろう」

 墨堤の近くには水戸徳川家の下屋敷があるらしい。岩見が所属する新徴組は市中の治安維持が任務なので、却って郊外まで目が届いていない。だからこそ、その郊外に不逞の輩が潜みがちで、様子を窺いに行く良い機会だ、という。

 岩見の方で都合がつくならそれは願ってもいないことで、江戸をよく知る岩見に一緒に行ってもらうことは、土地に明るくない修之輔にとって心強いことだった。


 上屋敷の藤木に改めて聞いてみると、新徴組の岩見が道案内をしてくれるというその話に、藤木は少し驚いたようだった。

「酒井様のところの者が同行してくれるのなら何も問題ない。却って江戸の治安について学ぶことが多いだろう。色々と話を聞いてきて欲しい」

 新徴組か、と藤木が呟いた。

「ならば略式であっても建前上、依頼の書状を出した方が良いのではないか。必要ならば用意するが」

「個人的な交友の範囲で引き受けてもらったことなので、必要はないかと存じます」

 話が大きくなりそうなので、修之輔は藤木の申し出を断った。自分が思っているより、酒井氏の市中見回り組の権力が大きいことを改めて知り、自分の任務に岩見を付きあわせて良かったのか、少々不安にすらなった。


 夕方、残雪を厩から出そうとして、上屋敷に入ってきた女人の影に気が付いた。くっきりと明るい眉に、唇には上等の紅を差し、玄人好みの着物を身に着けている。こちらに近付いてくるその女人は、麹町に茶屋を開いている加ヶ里だった。

「秋生さま、おひさしぶり。お馬のお世話に精が出ることですね」

 他に人がいないと、加ヶ里が修之輔に向ける言葉にはやや剣が混じる。気遣いが必要ない相手だと思っているようだ。返す言葉を考えるのも面倒な気がして、軽く目礼しただけで残雪の手綱を取った。

「あたしの茶屋でも、茶箱の中から藩札が出てきたの。今日はそれを報告しに来たのよ」

 返事ではなく、修之輔の反応を求めているのだと悟って、軽く頷いた。そして加ヶ里と羽代家老の田崎とのつながりを思い出す。自分の行動を加ヶ里に報告する必要があるのだろうか。漠然とした思いのまま、今の自分の状況を説明した。

「弘紀が墨堤に行くのに先立って、現地の下見の役を仰せつかった。新徴組の岩見殿が同行してくれることになったが、それは羽代家中に何か影響を与えることだろうか」


 修之輔のその申告に、加ヶ里の表情は笑みを浮かべて、その細められた目の隅がなにがしかの意図をもって光って見えた。

「あら、いいじゃない。あたしなんかの案内じゃあ秋生さまはつまらないでしょ。岩見様にはせいぜい愛想よく応対するのよ。そうね、三回ぐらいは笑いかけてあげたら。あなた、無愛想なんだし」

 馴れ馴れしい口調だが、加ヶ里が長年、弘紀の護衛を務める者であることを修之輔は知っている。加ヶ里はこうして自分と修之輔の立場が同じであることを以前から主張してくる。

 言いたいこと、聞きたいことはこれで済んだとばかり、加ヶ里は修之輔に背を向けて上屋敷御殿の玄関へと向かった。

 自分に対する加ヶ里の態度よりも、気になることがあった。

 

 加ヶ里は、岩見を知っているのだろうか。


 墨堤への下見の当日、空は朝から薄い雲に覆われていた。そろそろこんな天気が多くなる季節になると岩見が云う。岩見は待ち合わせた馬場に自分用の馬を牽いて来た。新徴組で時折大砲を牽かせているというその馬は、見栄えは松風に劣っても力の強さは充分に見て取れた。 


 市中の人通りが多いところは馬を牽き、中心から外れて川辺近くになって、修之輔と岩見はそれぞれの馬に騎乗した。馬首を並べ、馬を並足で走らせながら交わした短い会話の中で、墨堤近くの寺に岩見は馴染みがあることを聞かされた。

「なぜ」

「故郷の庄内に山がある。その山を祀る神社の御師が時々その寺院にやってくる」


 庄内には月山、羽黒山、湯殿山という山があって、出羽三山と呼ばれるそれらの山は大和国に都があった古から人々の信仰を集めてきたという。


「庄内から御師が来る度に会いに来るのか。随分と信仰が篤いな」

「信仰とか、そういうわけではない。俺の親が御師に手紙を託して寄越すから、それを受け取りに来る」

 それは武家の親子の連絡手段として、通常ではない方法だった。

 庄内藩士なら、身分に応じていずれかの江戸藩邸に宛てれば届けられる。新徴組士ならば、新徴組の詰所に届けられる。

 岩見には、生国であるはずの庄内藩との間に、入り組んだ事情があるようだった。

 その事情を聞いていいものか、あるいは受け流して別の話をしたらいいのか。修之輔が惑っていると、岩見の方から話しかけてきた。


「秋生は江戸に来て日が浅いな。参勤が明けたら直ぐに国許に戻るのなら、羽代からの便りもそうそうないだろう」

「俺の生まれは羽代ではなく、生家は黒河という別の藩になる。親家族はいないから、文を寄越す者も送る相手も思い当たらない」

 修之輔の返事に、今度は岩見が口を噤んだ。互いが互いの中に触れられたくない出自を持っているのだと言外に理解する。それは二人の間に緊張ではなく、どこか安堵に似た感覚をもたらした。


 墨堤に着いたのは、馬場を出て半刻ほど後の事だった。近くの茶店の主人に小銭を握らせて馬を預け、辺りを歩いてみることにした。周りはちらほらと人の姿があるが、いずれも気楽な行楽客のようだった。神社仏閣が並んでいることもあり、屋台はいくつか出ているものの、怪しい風体の者はいない。視界も充分に開けていて、警備はしやすそうだった。


 三囲神社の境内を抜けて墨堤の上に上がると、眼前には墨田川流域の広大な眺めが広がっていた。

 肩を並べて同じ景色を眺める岩見が、

 「雪が降ってもここの景色は良い」

 そんなことを云った。以前、江戸に雪が降った時、ここに見に来たことがあるという。雪景色は望めなくても弘紀が喜びそうな光景であることは確かで、その事を思うだけで修之輔の気分は微かに昂揚する。


 土手の下に船着き場がある、という岩見の言葉通り、目線を下に向けると簡素だがれっきとした艀が見えた。弘紀の移動を陸路でしか考えていなかったが、水路が使えるのならそちらの方が安全な面もある。

 修之輔は弘紀を安全に移動させる道程と警備について考えながら歩いていて、ふと、足が滑った。土手の下に転ぶかと思ったが、岩見の手に腕を思いのほか強く引かれて体勢を立て直す。


 礼を言いながら堤の上に上がろうとして、岩見が自分の腕を離さないことに気が付いた。

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