第4話

 翌朝、修之輔は中間の手を借りながら松風の体を洗い、釆女ヶ原馬場で走らせる前、中屋敷を一度通り過ぎて火事の後の様子を見に行った。

 既に奉行所が集めた人足が熱の残る土を均しているところで、燃え残りの残骸が運び出されればそこは何もない空き地になる予定だという。屋敷が建てなおされることはないらしい。

「火が小さいと儲けになんねえ」

 そう面白くなさそうにぼやいて通り過ぎるのは、材木屋だろう。大きな火事があれば彼らの商売は大繁盛なのだが、昨夜の火事の被害は武家屋敷の中だけに留まっていた。


 活気溢れた町人の日常が火事の影響なく営まれている一方、焼け落ちた門の残骸が残る武家屋敷の姿は、綻び始めた幕府の一角を暗示する様にも見えた。


 だが、不穏な予感は羽代中屋敷に隣接している釆女ヶ原馬場の周囲には無縁だった。あちこちに出ている食べ物を売る屋台には腹ごしらえをしてから今日の仕事に向かう町人の姿が見られる。周囲の芝居小屋では日の出とともに演目が始まっていて、今日も朝一番から客が入る賑わいである。


 火事と喧嘩は江戸の華、というが、このような状況に江戸の市民は慣れているのだろう。だが馬場を走らせる松風が時折立ち止まって周囲を窺う様子を見せるのは、空気に微か漂う煙の匂いを気にしているからのようだった。


 夕方、今度は残雪を采女馬場で走らせていると、新徴組の岩見が様子を見に来た。

「近くが火事で焼けたと聞いた。大丈夫だったか」

 岩見自身は、昨夜、江戸城で生じた火事に召集されていた、という。

 近頃は江戸のあちこちで不審火や犯罪が頻発していて、一つの事件にだけ人手を割くという訳にはいかなくなっているらしい。


 ――幾つかの出来事は連なっていて、けれどそれぞれが独自に起きた事件でもあるのです。


 最近、思い返した覚えのあるあの弘紀の言葉がまた、思い出された。修之輔は岩見に答えた。

「我ら羽代家中が火消しを任ぜられたが、そう手間取ることがなかった」

「羽代が火消しに出たのか。秋生もか」

「ああ、馬に乗っていられたのは良いが、頭から水を被せられたのは閉口した」

 思わず苦笑が唇の端に浮かぶ。岩見が修之輔を見る目が少し、細められた。

「……見てみたかった気もする」

「人気が無い荒れた武家屋敷の火事など、特に面白いものではなかった」

 何気ない感想だったが、それを聞いた岩見は一瞬、視線を下に落とした後、そうだな、と同意した。

「秋生が無事だったなら、それでいい」

 そう云って岩見は精悍な顔に微笑を滲ませた。岩見に返す言葉に戸惑って、目を見交わす時間が長くなる。ふと、その肩越しに外田と山崎、そして小林が歩いてくる姿が目に入った。どこかへ出かけていて、今ちょうど中屋敷に戻ってきたところらしい。あちらも修之輔に気づいて手を上げた。


「秋生、昨夜は大変だったな」

 山崎が下士の取りまとめ役らしく声を掛けてきた。修之輔は火消しの現場から直接上屋敷に帰還したので、昨夜以降、まだ彼等と話をしていなかった。

「儂らは今、奉行所で昨夜の火事の報告をするのに同行してきたところだ」

「江戸屋敷用人との同席だから、気楽だったぞ」

 小林の声音に、その場がそう改まった場でなかったことが窺い知れた。町方へ延焼することなく、武家屋敷内だけで火を止めた事に感謝されたという。

「同席した町の奴と話が弾んで、ついでに茶を飲んできた」

「そこの茶屋の店主ともそいつは知り合いらしくてな、これを貰った」

 そう、小林が懐から取り出したのは黒い獣が描かれた札だった。外田が興味なさ気にそれを見る。

「儂は前に他の者から貰っていたからいらぬ、と云ったんだが」

「外田さんは持っていても、儂は持っていないので」

 そう云う小林が横から手を出して、代わりに貰ったらしい。

「これは御嶽神社のお使いの大口様というらしく、火除けの御加護があるそうだ」

「あの火事のあった屋敷一帯には材木屋が多い。そこではこの御嶽神社に信仰を寄せているらしいぞ」

 町人ともすぐに親しく交流できるのは、農民と混じって農作業をすることもある羽代の下士たちの気質だろう。口々に話し出す彼らに修之輔は訊いてみた。

「神社のお札を町人が配っているのか」

 それは神職に就く者の仕事ではないのか。黒河での自分の経験を思い出して訊いてみたのだが、その疑問に事も無げに外田が応える。

「武蔵御嶽神社の御師がこの前の冬に来て置いて行ったのがあるから持って行け、と。なんでも欲しいものに分け与えるように、と余分に置いて行ったらしい」

 そんなものなのだろうか。

「しかし御嶽神社はどうして大口様なんだ。これは狼なんだよな」

 外田が山崎に訊ねる。

日本武尊やまとたけるのみことが東征して秩父に至った時、道に迷ったのだそうだ。その時、秩父の山から狼が現れて尊の道先を案内した。その功績が認められて祀られているのが御嶽神社だということだ」

「日本武尊様の御縁か」

「国学を学んだ時、この話は出て来たぞ」

 山崎の言葉に、ひゃあ、などと変な声を出して外田と小林が首を竦めた。彼らの様子を見ながら、修之輔には気になることがあった。


 昨夜、くろさぎが口にした草薙剣くさなぎのつるぎの故事。あれも日本武尊にまつわる話だった。そして自分はまた、狂狼、と呼ばれた。

 日本武尊と狼。御嶽神社の故事と事柄が錯綜する。偶然か。ただの狂人の戯言か。


「そういえば秋葉様も火除けの神様だ」

 小林が云う。秋葉さまは秋葉権現と云い、羽代の隣の国の大きな寺院に祀られている。

「秋葉様は仏様ではなかったか」

「秋葉山の神様と三尺坊様が合祀されているから、神様でもあり仏様でもある。いずれ、ありがたい事だ」

 山崎が手を合わせた。

「秋葉様の札もこの辺りで見かけた覚えがある。他にも大山様の札もあったな」

 横で話を聞いているだけだった岩見が、そこで口を開いた。

「江戸には様々な土地の者が流れ着いているから、それらの土地の神仏も一緒に流れ込んでいる。さらにそれらの神社仏閣が御師を派遣しているから、江戸市中に祀られている数多の神々や仏を信仰する者も多い」

 そして現世利益を求める町人は、願掛けの内容によって詣でる神社を様々に変えるので、江戸市中の神社仏閣は常に人に溢れているのだという。江戸市中を能く知る岩見の言葉に、山崎たちは揃って頷いた。

「だが羽代の八幡様は特に御師をここには遣わせていないな」

「寺や神社によって違うのだろうか」

「お伊勢様など、出向く御師の数より、参詣する者の数の方が圧倒的に多い」

「お伊勢参りも一度は行ってみたいものだ」

 信仰よりも物見遊山、話が逸れても彼らの話題は放っておけばどこまでも尽きることがない。修之輔はそろそろ上屋敷に戻る頃合いを探り始めた。横に立つ岩見に視線を向ける。岩見もそうそう時間をつぶしてはいられないはずだった。

「山崎殿、馬を上屋敷に返さなければならないので、今日はこれで」

 そう云い出す修之輔に、気を悪くした風もなく山崎が返答する。

「おお、そうだな秋生、引き留めて悪かった」


 一礼して歩き出そうとして、そうだちょっと待て、と山崎に引き留められた。

「秋生、もしかしてお前、うちの藩札を持っていないか」

 少し躊躇して、けれど懐に入れてある札差しから藩札を取り出した。

「おおこれこれ」

 色刷りで鳳凰が刷られた端正で華麗な羽代の藩札は、どこか当主である弘紀の姿を思わせる。そんな理由でいつも身に着けている自分の心持を読まれた訳ではないだろうが、修之輔はやはり少し落ち着かない気持ちがした。そんな修之輔の様子を気にせず、山崎は藩札を眺めている。

「うーん」

「どうした山崎」

 覗き込んできた外田が、あ、と声を上げた。

「これ、あの茶屋にもあったな」

「ああ。だが下半分の図案が違うから良く似た別物だと思っていたのだが」

「もしやあの下半分、削られて新たなものが刷られていたのか」

「だとすれば、羽代藩札に対する著しい無礼ではないか」

 外田と小林が語気を強める。

「これで失礼する」

 羽代家中の話だと察して、岩見が直ぐにその場を離れた。その後を追うべきか、迷う様子の修之輔をみて山崎が藩札を返して来た。

「明日もう一度、今度は屋敷の用人にも同行を頼んで件の茶屋に云って確かめてくる」


 弘紀が気にしていた羽代藩札の外部への流出が、思いもかけない形で明らかになった。弘紀にすぐに伝えたいが、自分が伝えるその前にこの事実は弘紀の耳に入るのだろう。ちり、とどこか胸のける思いがした。だがそれは。


 自分勝手な感傷を振り切って、修之輔は岩見の後を追った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る