第5話

「今日はここまで。儂は家に帰って昼寝をする」

 小太刀の師匠の曲渕は、昼を過ぎると必ず眠くなると云う。なので下屋敷で行われる稽古はいつも昼前に終わる。曲淵に教えを受けているのが修之輔一人なので、それで充分だった。

 曲淵と共に下屋敷を出ると、朝からずっと降っていた細かな雨が小止みになった。

 いつもどおり、曲淵の個人的な意向で本来ならば通らなくていいはずの内藤新宿目抜き通りに寄り道しながら、曲淵を自邸まで送り届けた。

 牛馬が行き交う道は長雨にぬかるんで歩きづらい。駕籠を拾って上屋敷に戻ることにした。


「芝か猿若町にご縁のある旦那でしょうか、おっと失礼、お武家さまでございましたか。へえ、どちらのお屋敷まで」

 雨が止んだのを見澄まして茶屋の軒先から出て来たばかりの駕籠かきに頼むと、適当な軽口の後、軽快に悪路を走り出した。

 時折水たまりを踏み抜くので目除めよけの簀垂すだれは下ろしたままに、それでもその隙間から雨上がりの江都の賑わいが見て取れる。この間まで躑躅を売っていた植木売りだが、今は朝顔の鉢をいくつも担いで売り歩いている。

 水色や薄紫の花色が目にも涼しく、思わず手に取る者が多いからこそ成り立つ商売だろう。上屋敷にこの花が咲いていた覚えはないが、中屋敷の運河沿いにこのところ勝手に蔓を伸ばし始めた植物があって、その葉の形がどうやら朝顔のようだった。

 暇にあかせて誰かが買った朝顔が、世話する人の手を待ちかねて自ら花を咲かせようとするその健気さに、中屋敷のどの程度の者が気づいているのだろうか。まったく気づかないまま、また誰かが新しい鉢を買うのかもしれない。


 籠を担ぐ人足の足取りは軽快に町を過ぎて行く。いつもならば四ツ谷御門で内堀を渡るが、この町を知り尽くしている駕籠かきはそこで道を大きく右に曲がった。左手には堀とは違う溜め池が広がり、蓮の葉が水面の半ばを覆っている。もう少しすれば蓮の花が次々に開いて江城に華やぎを添えるのだろう。

「どうしますかね、お急ぎなら山王さんに駆け上がってお目当てのお屋敷につけますが、溜池を廻り込む道でもようございましたら、こちらの足が楽になります」

 山王さん、とは、一度、弘紀と外田、山崎と訪れた山王社のことかと見当をつけた。高台にあったあの境内を思い出して、池を廻り込む道で良い、と返事した。


 今日は弘紀が江戸城に出仕するということで中屋敷の藩士に動員が掛かり、中屋敷での剣術の稽古はない。他に急ぎの用事というものもなく、御殿に戻ったら何か手伝いでもしようかと思っていたぐらいに、修之輔にはすることがなかった。

 外田のように遊びが好きなたちならば、時間などいくらあっても足りないだろう。けれど遊ぶということに馴染まない修之輔は、いつも通い慣れた道とは違う風景を今のように駕籠から眺めるだけでも充分だった。

 駕籠は虎の御門から江城の堀を越えて行く。とおりすがる人々の顔が見えないのは、修之輔の目の高さが低いからだった。


 駕籠が坂道を上る傾斜に、ふと眩暈を覚えた。


 ――薄曇りの空の下、笛の音、鉦の音を響かせながら祭礼の行列はゆるゆると、街の中を進んでいく。自分が乗せられた輿は辺りを見渡せるほどの高さはなく、ただ沿道に並ぶ人々の目線よりわずか二、三寸高いだけ。

 

 これは、修之輔自身の記憶だ。


 黒河の佐宮司神社の祭礼で、頭稚児を務めた十二歳の時の自分の記憶。あの祭礼のすぐ後に母は父と修之輔を捨てて黒河を出た。その後。


 思考が止まる。それ以上は思い出すなと、誰かの声が聞こえた気がした。黒河での剣術の師範の声のような、その父親である佐宮司神社の神主の声のような。どちらだろう。二人の声はよく似ていた。


 とん、と軽やかな振動があって地面に駕籠が下ろされた。

「着きましたよ。お屋敷の中には入れませんから、ここまででご勘弁を」

 駕籠かきが簀垂れを巻き上げてこちらを覗き込んできた。

 どれほどの時間、自分は放心していたのか。それともそれは一瞬のことだったのか。

 僅か戸惑って、だがすぐに修之輔は駕籠かきに金を払って道に出た。雲に覆われた空からいつ雨が降ってきてもおかしくない天気だった。


 ――薄曇りの空の下、笛の音、鉦の音を響かせながら祭礼の行列はゆるゆると


 今日一日、上屋敷に弘紀はいない。

 駕籠を下りた道の先には桜田門が、その向こうには今、弘紀がいる江城が見えた。


 上屋敷の門前まで数歩のところで修之輔は立ち止った。上屋敷の中にある自分一人の部屋に戻るろうとは思えなかった。振り返ると、さっき通ったばかりの虎の御門が視界に入った。修之輔は、岩見がこのところ詰めることが多いという虎ノ門近くの新徴組の屯所へ行ってみることにした。


 その屯所は羽代上屋敷から五町ほどしか離れていない。雨が降ってもこの近さなら、と、空模様を気にせずに出向いてみたものの、門前に声を荒げて詰め寄る武士数名の姿を見止めて足を止めた。見るからに揉め事の最中だったが、対応している数人の内の一人が岩見だったので、修之輔はしばらく遠目に様子を見ることにした。


 詰め寄って荒ぶる武士の言葉は訛りが強いが、よく聞けば、自分たちの仲間を返せ、と要求している。岩見も含めた市中見回り組は個別に反応せず、ただ一人の者が前に出て冷静に相対している。しかしその態度は荒れる相手には逆効果だろう。

 いきり立った一人が鯉口から刀を抜こうとし、刀身が五寸ばかり鞘から抜かれて見えた瞬間、周囲から刺股が付き出されてその者は地面に押し倒された。状況を察した他の仲間も、刀を抜く前に、既に全員が素早く抜刀していた見廻り組に無言で圧された。

 刺股で取り押さえられたものには縄が掛けられて、結局、仲間を返せと言いに来たのに、追加でもう一人まで捕縛されたことになる。


「最近は度々ああいうことが起きる」

 縄を巻かれて屯所内に連れていかれる者を見送る岩見が、近づいてきた修之輔に気づいてそう云った。取り調べに岩見は同席しなくていいのだろうか、周囲の様子に気を配りながら、修之輔は岩見に訊いてみた。

「市中見廻り組にああまで詰め寄るとは、酒井様に逆らうも同然だろう。あれはどういった者なのか」

「長州の者だ」

 岩見の答えは簡潔だった。

「今、長州は藩を上げて京都に集結している。江戸でそのようなことは起こさせないが、同胞に呼応しているのか、江戸在勤の長州者も少々頭に血が上っているようだ」


 このところ羽代の中屋敷でも京都の状況は話題に上ることが多い。毎日誰かが町角で切られて死んでいるという状況は、酒井氏によって治安が守られた江戸では想像することが難しい。岩見が云う。

「だがこのところ、江戸でも不穏な事件が多く生じているのは確かだ。この間は青山の焔硝蔵に百人ほどの浪人が押し寄せて火薬を奪っていった」

「それは先ほどの長州の者たちとも関係があるのか」

「どうだろうな。だが、市中見回り組の、特に新徴組内部から内通があったらしいとは聞いた」

 裏切者が、内部にいる。

 そのことを知らされた酒井氏は、新徴組の風紀をさらに厳しく取り締まったという。何名かが新徴組から追放された。

「藩士に登用して家禄を与えるのは、くだらぬ報酬で己の任務を裏切ることのないように、との意味もあるのだが」

 そんなことも分からない奴が新徴組の中にいる、と岩見はひどく苦々しい口調でそう語った。

「脱藩した浪士や百姓に刀を持たせたところで、その精神は一朝一夕で身につくものではない」

 岩見の言葉は、新徴組の一員であるその立場から語るものではなかった。まるで生粋の、生まれも育ちも庄内の藩士であればこそ出てくる言葉だと修之輔は思った。岩見の厳しく寄せられた眉根は、修之輔の方を見て緩む。

「秋生のような生まれからの武家の者が、いや秋生が共にこの務めに就いてくれれば、まだ俺がここに残っても良いと思えるのだが」

 急に寄越された新徴組への勧誘は、まさかそれが本気であるとは思えなかった。

「新徴組に登用されるには、羽代の家中を出ないといけないのでは」

「そうでもない。国元で役に就けずに新徴組に入っている者もいる。もっとも、拠るべき国を持たない浪人や百姓の出の者も多いが、そのような者たちにも庄内藩士の家禄が与えられている」

「俺は羽代で役目についている」

「黒河から出て羽代に仕官したんだろう。ならば羽代から出て新徴組に登用されるのもそう違わないのではないか」

 やけに食い下がる岩見に、修之輔は微笑を浮かべながら首を横に振った。

「羽代を出るつもりは、ない」

 口元に微笑を浮かべても譲れない意志が目に込められた修之輔の返答に、岩見はそれ以上は語らなかった。


 羽代に、帰りたい。

 何故かふいにその時修之輔の脳裡にぎった思いは、切実な願いとなって胸を圧した。

 羽代城三の丸の片隅にある自分の居室。当番の夜には決まって呼ばれる弘紀の部屋。観月楼の座敷。海。

 弘紀を腕に抱いて、ともに波の音を聞く夜の安らぎがひどく恋しいと、修之輔は思った。


 その感慨は押し殺し、せっかく来たのだからと屯所の中で岩見相手に竹刀を振るった。羽代中屋敷で稽古できない分、打ち合いの相手をしてもらえるのは有り難かった。たまに手の空いている見回り組の藩士とも試合をしてみた。頼んで刀と小太刀の二刀流を試させてもらったが、小太刀を習い始めた当初よりも動きが慣れてきているのが分かった。


 夕方になり、いつものように松風を牽いて中屋敷に行くと、加ヶ里が中屋敷から出てきたところだった。門の中から外田が見送る姿が見える。外田に会いに来たのだろうかと疑問に思いながら、目礼だけで加ヶ里をやり過ごそうとして呼び止められた。

「秋生様、今日はどちらにいらしておりましたの」

「虎ノ門の市中見廻り組屯所だ」

「お知り合いがいるのかしら」

「岩見が今日はそこにいた」

 あら、と加ヶ里が微笑んだ。

「仲がよろしいこと。そろそろ江戸を発つことだし、お世話になった岩見様をお食事にでも誘ってお礼を述べておいたらいいのじゃないかしら。いつも通りに報告書を上げれば、お屋敷が食事代を出してくれるそうよ」


 岩見に世話になったことは確かだ。

 個人としてより、羽代家中の意思として、礼をすることに特に疑問はなかった。山崎からは羽代藩士の任務の一環として、岩見には丁重に接するようにと指示を受けている。

 そして加ヶ里には何か役目があって行動していることを、弘紀も把握していた。ならば加ヶ里が寄越す具体的な指示には、羽代家中上層部の意図がある程度含まれていると考えられる。これは従うべき命令だった。

「分かった。だが俺は相応しい料理屋を知らない」

「どうぞ私にお任せくださいませ、秋生様。江戸の料理屋についてはいろいろと存じでおります」

「任せる。店の名と日時を決めたら知らせてほしい」

 修之輔がそう告げると、加ヶ里はにっこりと微笑んだ。

「任せて頂いて嬉しいわ。とっておきのお店をご用意いたします」


 中屋敷門前でこちらの様子を見ていたらしい外田に、加ヶ里と何を話していたのか聞かれたが特に大したことは無い、と受け流した。残雪を牽いて上屋敷に戻り、厩番とともに馬の世話をしていると、小走りに江城から戻ってきた中間が弘紀の帰還を知らせてきた。


 今日は裃姿で登城していた弘紀は、上屋敷に戻って直ぐに重臣を集めて会議を始めた。江戸参勤の期間はあと二十日ほど、いくつかの懸案事項が解決されなければ滞在延長を願い出ることも考え始めなければならない。弘紀から内情のいくつかを聞かされている修之輔には、弘紀がしなければならない仕事の重さやその量を推し量ることができた。


 夜、楠の下で御殿を見上げる。

 今夜は忙しくて弘紀は来ないと分かっていたが、心は弘紀が来るのを待っている。

 逢えなくてもこの塀の向こう、弘紀がいることは確かで、近くにいたい、ただそれだけが動機だと確認し、だがそれは自分に向けた言い訳だった。


 このところ、黒河での記憶を鮮明に思い出すことが増えている。

 何故なのかは、分からない。黒河を出て羽代で暮らしている間はまったく思い出さなかった過去の記憶。


 修之輔が父親の借金の形に身売りを強要されていた、十三から十五歳の二年間の記憶。二年間、どれだけの人数を相手にしていたのだろうか。数えていない。数えるのを途中で止めた。

 

 文武両立質実剛健を標榜する黒河藩は、城下の遊里を認めていなかった。それでも求められた欲望のはけ口は、水面下で密やかに営まれていた。管理された公娼ではない私娼は、性別身分を問わずに秘密裏の売買が横行していた。金のない者が陥る奈落に、修之輔の父親が絡め取られ、それが全ての発端だった。


 何人か相手をするうちに、抵抗すればそれだけ暴力が返ってくることが分かった。

 なので、抵抗を止めた。


 また何人か相手をするうちに、どうしても自分の体が傷つく行為と身に負う痛手が少ない行為があることが分かった。

 なので自ら能動的に動き、少しでも自分にとって望ましい相手の行為を引き出すようになった。

 それは自分の体を守るための動物の本能の様なものであったけれど。


「しばらく抱かないうちに、随分と仕上がったじゃあないか」

「生来の性質だろう。あれの母親もそうだった」

 顔だけじゃなく男を咥え込むのも母親譲りだと、抑揚のない声は父の声か。あれも愉しむことを覚えたらどこかに色小姓として勤めさせても良さそうだ、今より金になるぞ、とは、さっきまで己の体に肌を密着させて息を荒げていた男のものか。


 一時、強い風が吹いた。海の上を渡ってきた生臭い東南の風は、頭上の楠の枝を強く揺らす。からからと音を立てて乾いた古い葉が落ちてきて、肩に、背にあたる。


 吐き気も目眩も楠の花の香りに散らされて、ただ混乱だけが体の内を駆け巡った。体の震えを抑えることができず、修之輔はいつのまにか膝を折り、楠の根元に座り込んでいた。


 かたん、と隠し戸が鳴った。

 そっと開いたその隠し戸から出てくる小柄な人影。修之輔が渡した燕の浴衣を寝間着代わりに着た弘紀が、そのまま軽やかな足取りで修之輔の傍にやってきた。

 灯りは長屋の前に置かれた灯籠のみ。弘紀が修之輔の様子に気づくその前に、混乱をどうにか抑え込んだ。

「もう貴方は休んでいると思っていたのですが」

 喜ぶ声音をそのまま、弘紀は自分も身を屈めて修之輔の肩に額を付けてきた。

「眠れなかったのですか」

 弘紀の顔に頬を寄せ、返事の代わりにした。

「逢えなくても、そこに弘紀がいるならば少しでも近くにと思って」

 その言葉は嘘ではなかった。隣に座った弘紀の体の温かさに、強いて抑えた己の混乱が静かに溶けていく。先ほどまでの昏い混乱は、弘紀の声に、眼差しに、体温に、その影を潜めて気配を隠した。


 夜風に鳴る楠の葉、香る花の匂い、雲間に星の光が零れているのが今更のように目に入る。弘紀もそれに気づいたらしく、星の光を数え始めた。


 ふと、佐宮司神社の奥宮で、弘紀と肩を並べて過ごした夏の日があったことを思い出した。

 白い狩衣を着て、軽やかに山道を歩く弘紀の姿がつい昨日のような鮮明さでよみがえる。


 懐かしくて、忌まわしい、黒河の記憶。


 しばらくして、見える分だけの星の数を数えて満足したらしく、弘紀が立ち上がった。その右には弘紀の御殿が、左には修之輔の長屋がある。


 楠の根元でまだ立ち上がらない修之輔を振り返って、弘紀は左へ、歩いた。

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