第4話

 それは礼次郎が江戸に着いてから二日目の夜だったという。


 黒河から江戸に着いた初日、礼次郎は遠縁にあたる江戸勤番の用人の屋敷に滞在した。黒河江戸藩邸の手続きが済むまで外に出ることができず、二日目の昼を過ぎてようやく手元に江戸滞在の許可が届いた。

 黒河藩邸はその許可と共に、礼次郎に一度下屋敷の方へ顔を出し、江戸滞在中の諸注意を確認するように、と指示を寄越した。

 用人の家は小石川にある黒河中屋敷に近いところにあるが、下屋敷は下谷にある。そう遠くはない距離なので今日中に用事を済ませてしまおうと、礼次郎は用人の家を出た。家の小者に行きは同伴してもらったのだが、道は単純で分かりやすい。帰りは大丈夫だからと下屋敷の門前でその小者を帰した。

 黒河では従者など付けて歩かないから、どうも気づまりになったのだ、と礼次郎が言う。


 そして案の定、帰り道で迷った。

 江戸は人が多い。誰かに道を聞けばいい、と思ったが、生来の口下手で上手く人に声を掛けることができない。日が暮れ始めて辺りは薄暗くなり始める。

 普通なら焦るか心細くもなりそうなところ、黒河よりも温かな江戸の気候だから野宿でもするか、と思ったというから、礼次郎はやはりどこか変わっている。

 薄紫に暮れる道をもはやどこへ向かっているかもわからないまま歩いていると、ちらっと眼の隅に白い物が見えた。

 薄闇の中でもその白色は鮮明で、思わず振り向くと、真白な着物を着た小柄な少女がこちらを見ていた。


 目が合っても視線を外そうとしないのはこちらに用があるからだ。

 礼次郎はそう思い、その少女の方に近づいた。一間ほどの距離で少女は小走りに先を行き、直ぐに立ち止まって礼次郎を振り向いた。近づくとまた小走りに先へ行く。奇妙だとも、まして恐ろしいとも礼次郎は思わず、素直に少女の後を追った。

 そうして着いた先は、門の軒先に提灯が下げられた屋敷だった。屋敷、なのだろうか。ここに至るまでの細い道は左右から木々が枝を伸ばして空を遮っていた。既に暮れた空の下、明かりを望めるはずもなかったが、太い柱の脇を通った気がした。


 まるで鳥居のような。


 自分と屋敷の周囲にだけ風が吹き、黒い木々の葉が鳴り騒ぐ。

 少女が門の内側から手招きをするので、礼次郎は中に入った。


 灯りは玄関に灯された提灯のみで、これも紋が記されていない素地のままの提灯だった。礼次郎が成り行きに任せたまま屋敷の玄関に入ると、中は真っ暗だった。けれど周囲の空気に荒れた気配はなく、かといって生きた者の気配もなく、ただ静謐な空間で、自分にとっては好ましいと礼次郎は感じたという。


 ここまできたならば、と中に上がってみても咎める声はない。中にも灯りはなく、表の提灯の明かりでかろうじて廊下が左右に伸びていることが見て取れた。

 朝になるまでここで待つか。

 そんな礼次郎の気持ちを見透かしたかのように、左手の廊下の先にぽっと明かりがともった。その青白い燐光はゆらゆら揺れて、礼次郎はその明かりの方へと歩を進めた。


 廊下の先。襖が大きく左右に開けられている場所があった。覗き込むと火がともされた燭台が三つあって、どうやら板敷の広間には三カ所に畳が置かれている。奥二カ所の畳の上にわだかまる闇の塊が人影に見えて、思わず礼次郎はその場に平伏した。

「失礼いたしました。こちらに人がいるとは思ってもみず」

 無礼を詫びる言葉にもその人影は何も言わない。こちらをじっと観察しているようなのだが、昏くて人相も何もわからない。ただ目が慣れてくると身に着けている着物がどちらも白っぽい狩衣の様なものであるのが朧に見えた。


「ようこそおいで下さった、お客人」

 暗闇の向こう、水の底から湧いてくるような低い声が聞こえてきた。

「もてなしも何もできないが、まずはそこに座られい」

 別の畳に座る相手の声か、谷奥から響くような張りのある声が聞こえてきた。

 礼次郎は勧められるまま、手前の畳に座った。


 先程の少女が酒器を持って現れ、礼次郎に盃を進める。

「申し訳ない、酒は飲みつけないのです」

「ならば小菊、桜湯を持って参れ」

 小菊と呼ばれた少女は一度下がって、今度は盆に汲み出しをもって現れた。自分の前に置かれたその汲み出しの中身を一口飲むと、軽い塩気と華やかな桜の香りが口の中に広がった。すっと喉から胸がすく思いがして、その良い気持ちのまま、礼次郎は目の前の人影に話しかけた。

「道を聞こうとしてここまできてしまいました。黒河下屋敷の場所を教えて頂きたいのですが」

 空気が微かに震えて、それが忍び笑いの声だと分かった。

「この期に及んでなんとも呑気な」

「いや、若い者はそうでなくては」

 だが空気の軽い振動はすぐに止んだ。


「さて」


 ばさり、と鳥が羽を打つような音は、対する相手が袖を直した音だった。空気が、変わる。

「そなたは黒河家中の澤井礼次郎だな。笛の名手と聞いている。礼は充分に出す。今宵しばらくその笛の音を聞かせてはもらえないだろうか」

 気がつけば傍らで、小菊がその胸のあたりに笛を捧げ持っていた。自分の名前を知られている不審さよりも、笛の腕前を知られている事のほうに礼次郎の注意は向いた。

 今は黒河で礼次郎の帰りを待つ母に良く言われていることがある。


 ――いいですか、礼次郎。お前が人様のお役に立てることは限られています。笛もその一つ。お前の笛を聞きたいとわざわざおっしゃってくれる方がおられたら、断らず、何も言わずに笛を吹いて差し上げるのです。いいですね。


 母が言っていたことは、きっとこのような状況でも通用する事だろう。

 礼次郎は流行りの曲を知らない。なので昔から良く知られた曲や、古典の曲を中心に数曲吹いてみた。


「これは妙なる笛の調べ。名手と聞いておったが、いやなにこれほど耳を楽しませてくれるとは」

 一通り吹き終わると、人影の片方が感嘆と喜びの声音で礼次郎の笛の音を褒めた。

「しかしそれは我らが求めるものではない。澤井礼次郎、国許、黒河の地に伝わる曲を吹いてみろ」

 固く冷たい声が別の人影から発せられ、礼次郎は笛を下ろした。

「黒河の地のみに伝わるものはあまりありません」

「あまりない、なら、あるということだろう。それを吹いてみて欲しい」

「曲としては面白みもございませんが」

「それでいい」


 有無を言わさぬ口調からは感情を読み取ることはできなかった。礼次郎は、佐宮司神社の祭礼で演奏したことのある曲を吹いてみた。


「これかのう」

「いや、違う」

「……もしや伝わっておらぬのか」

「黒河の巫女は全てを消し去った、か」


 笛を吹く礼次郎を別にして続けられる微かな声の応酬。吹き終わると、硬い声が尋ねてきた。

「似たような曲は知らぬか」

「この他には知りません」

 そうか、という言葉と共に、礼次郎の手前の燭台以外、他の二つの燭台に灯されていた火が消された。

「お若い人、今夜はご苦労だった。あとは小菊に案内させよう」

「後日、この場所を探そうとしても、それは徒労に終わるだろう。探すな。忘れろ」

 広間の奥から響いて来る二つの声。振り返ると、小菊が手持ち提灯を下げて礼次郎の方を見ていた。


 ふり返る気にもなれずに屋敷を出て、小菊について歩くうちに世話になっている用人の屋敷についたという。心配していた家の者には、狐に化かされたのかと心配されたらしい。


「それでその時のことなのだが、実は奏でなかった曲がある」

「噓を吐いたのか」

「ああ」

 おそらく自分の命の左右すら相手に握られていたその状況で、礼次郎は相手をたばかり通したということになる。他の者ならば豪胆な、と表現できるが、こと礼次郎に関しては、その場の空気が読めていないだけだ。

「弘紀しか知らない曲があるだろう」

 ん?と弘紀が首をかしげて、何かを思い出す仕草をした。

「あれかな、礼次郎が知らないというから、何回か吹いて聞かせた曲があったが」

「それだ。弘紀が黒河からいなくなってから、一度、そう云えばと思い出して佐宮司神社での笛の稽古中に吹いてみたのだが、神主にその曲は忘れろ、と言われた。それ以来演奏していないから吹こうとしてもちゃんとできるか分からない」

「……あれは私が母から教えてもらったのだ」

 ああ、と、礼次郎はそこでようやく弘紀の血筋に思い至ったらしい。

「ならば、あの曲は弘紀にのみ伝えられるものなのだろう。真似事とはいえ、弘紀の知らないところで吹いて悪かった」

「謝られても困るけれど」

 弘紀が困惑するが、本当に困惑しているのは礼次郎の体験そのものについてだった。

「礼次郎、その後は大丈夫なのか」

「なにが」

「なにがって……」

 言葉に窮した弘紀が修之輔を見上げてきたが、反応に困っているのは修之輔も同様だった。

「この話は、でも弘紀とは関係ないだろう」

 礼次郎が何気ない口調で言い、思ったより長居をしてしまって悪かった、と立ち上がった。

「帰りが遅くなると、今度は狸に化かされたのかと心配されてしまうから」

 真顔でそんなことを云う礼次郎に、弘紀が生真面目に頷いて同意する。

「分かった。今日は会えて楽しかった」


 部屋の外に出て、修之輔は弘紀と共に楠の下に立った。そこで礼次郎を見送ろうと思ったのだが、そういえば、と、急に礼次郎が立ち止まった。

「今度の秋に、祝言を上げる」

 弘紀がきょとんと礼次郎の顔を見た。

「誰が」

「自分が」

 まったくの他人事のように言うので、礼次郎本人が祝言を上げるのだと理解するまで弘紀にも修之輔にも間ができた。

「そういうことは早く言え」

 先に口を利けるようになったのは弘紀の方だった。

「けれど、めでたいことには変わりない。相手は」

「城下の呉服屋の娘だ。今、父の知り合いの家に養女に入って、嫁入り修行をしている」

「呉服屋の娘? あれ、もしかして」

 礼次郎が弘紀の言葉に頷いた。

「弘紀も知っている筈だ。一緒に町で遊んでいた時、時々見かけただろう」

「いつも綺麗な着物を着ていて、髪もきちんと結い上げていたあの娘か。そうか、それで今になって嫁取りか」

「家の母がやけに張り切ってこれを逃せば後が無いと、話をどんどん進めたのだ。自分は何もしていない」

「何もしていないって、礼次郎、お前……」

 さすがに弘紀も絶句して、けれどすぐに気を取り直したのは礼次郎との付き合いの長さだろう。

「わかった。祝言の日取りが決まったらまた手紙で知らせて欲しい。私の名前で祝いを送ることはできないが、本多の家を介して伝える」

「礼を云う。家の者にそう伝えておく」

 羽代の藩主から個人的な祝いの品が届く、と、礼次郎が澤井の家にどう伝えるのかやや疑問も感じたが、この辺りはもう弘紀と礼次郎の二人に任せた方が良さそうだった。

 礼次郎は要らないと言うが、弘紀が強引に中間を付けて帰すといって一度、御殿に戻っていった。


「弘紀は変わりなくやっているようですね」

 弘紀の藩主としての立場をわかっているのかどうか、礼次郎のその口調からはどうしても推し量ることができない。けれど友人を思っての言葉であることは伝わってきた。

「そうだな」

「修之輔様は、弘紀といつも会っているのですか」

 会える時には、とだけ答えた。

「良いですね」

 礼次郎の返事はそれだけだったが、少し間をおいて、また口を開いた。

「弘紀は気づいていませんが、自分の嫁に来る女子おなごは、前に弘紀のことを好いていたのです」

 礼次郎は御殿を見上げた。欅の木の下、飾りも美しい羽代上屋敷の屋根が見えた。

「けれど、これではどうやっても無理だなあ」

 修之輔は礼次郎と同じ方向に視線を向け、しばらく楠の葉が風に鳴る音を聞いていた。

 待つほどもなく弘紀が隠し戸から姿を現した。中間を手配するように、申し付けてきたという。

「もう知らない人間に付いて行くなよ」

「分かった」

 そろそろ二十歳前の男子に向かっての送り言葉とは思えないが、礼次郎は弘紀のその言葉に生真面目に頷いた。またいずれお会いしましょう、と他人行儀な言葉を残した礼次郎は、弘紀が寄こした中間を後ろに従え、羽代の上屋敷を出て行った。

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