第3話
澤井礼次郎は黒河藩で代々勘定方を務める武家の息子である。
大人しいが少々融通が利かない性質をもつ礼次郎は、弘紀が身分を隠して黒河で過ごしていた時の友人だった。その性格から周囲とは浮きがちだった礼次郎と、黒河にやって来たばかりの当時の弘紀は、なぜか馬が合ったらしい。年が同じだということは、この二人の場合あまり影響していないだろう。小柄な弘紀とひょろりと縦に長い礼次郎が二人、連れだって修之輔が師範代を務めていた道場まで通ってきていた当時の姿を思い出して、懐かしさに思わず口元が綻んだ。
「久しぶりだな、変わりはないか」
「はい。修之輔様もお変わりなく。お留守の時に上がらせていただき、ご無礼をいたしております」
礼次郎の言葉を聞いて、黒河では互いを名前で呼び合う習慣があったことを思い出す。
「江戸には黒河の参勤できたのか」
修之輔は座敷に上がり、礼次郎の対面に腰を下ろしながら訊いてみた。
「いえ、それとは別の用事があって参りました。前もって佐宮司神社の神主殿から弘紀に連絡が行っているかと思います」
佐宮司神社は黒河城下にある古い神社である。修之輔の剣術の師匠がそこの神主の次男だったこともあり、修之輔は幼い時からその神社に縁があった。けれどその神主が弘紀に何の用事があるのだろう。
礼次郎に聞いてみようと疑問を口にする前に、部屋の外から、かたん、と木が鳴る音がした。軽い足音がそれに続き、部屋の戸が軽く叩かれる。修之輔が返事をする前に戸が開けられて、薄浅葱の小袖に袴姿の弘紀が中に入ってきた。
羽織は御殿に置いてきたらしいが、この格好だと執務中を抜けてきたのだろう。礼次郎の姿を認めて、弘紀は破顔した。
「礼次郎、久しぶりだな。元気そうだ」
「弘紀も。けれど、手紙は時々貰っているから、そんなに久しぶりという気もしない」
礼次郎は弘紀の身分を知っている筈だが、口調は黒河にいた時のままである。弘紀はそれをまったく気にしていない様子だが、思わず身構えてしまった修之輔は、弘紀に対する自分の気持ちの有り様が黒河にいた時とは変わっていることを自覚した。
弘紀はそんな修之輔の方を見て、少しだけ首を傾げた。
「修之輔様、部屋を少しの間、お借りしますね。礼次郎を御殿の方に通してしまうと、話もろくにできないので」
この頃は秋生、と呼ばれていたので、黒河にいた時のように名前で呼ばれると調子が狂う。ここは自分の部屋ではあるが席を外した方がいいのだろうか。その逡巡は弘紀に見抜かれた。
「修之輔様はここにいて下さい。礼次郎から受け取る物があるだけなので、そんなに時間はかかりません。すぐに終わります」
遠方からわざわざ江戸の藩邸まで訪れてくれた友人を相手に、その言い方は聞きようによっては薄情だが、礼次郎は別段顔色を変えることなく頷いている。弘紀と礼次郎の間の友人関係は端から見ると分からないところがいくつもあるのだが、当人たちは全く気にしていない。そういうところが似た者同士だから、続いている友情なのかもしれない。
「そうそう、これがその渡す物だ」
礼次郎が風呂敷包みから取り出したのは文箱だった。弘紀が受け取って中を改める。手紙のあて名書きを確かめてから文を取りだした後は、空いた文箱を礼次郎に返した。
「確かに。神主殿は他に何か言っていたか」
「言いたいことは全てその中に、と。それから、修之輔様には変わりがないならそれで良い、とだけ」
伝言ですらないようなその言葉は、何事につけても大ざっぱな佐宮司神社の神主らしい一言だった。
「これで自分の用事は済んだ。弘紀も、修之輔様も元気そうで良かったのです」
礼次郎は淡々と風呂敷を畳んで懐に収めた。もう帰るつもりらしいが、弘紀が引き留めた。
「礼次郎、もう少し話を聞かせて欲しい。黒河は今、どのようなことになっている」
礼次郎は修之輔の方をちらっと見た。修之輔の居室を使わせてもらっているのでそれなりの気遣いではあったようだが、弘紀がこの屋敷の主であり、羽代の藩主であるという意識は抜け落ち気味のようだ。
「修之輔様が黒河を出られたあと、剣道場は閉められて、代わりに藩校になった。国学だけでなく蘭学も学ぶということで、大膳殿が音頭を取っていろいろ行っている」
「ああ、それは聞いている」
弘紀は何気なく頷いたが、礼次郎の言葉に出てきた大膳と云う名前は修之輔の友人の名だ。思わず弘紀に訊ねてしまった。
「弘紀、それを誰から聞いた」
こちらを横目で見る弘紀と視線が合う。
「大膳様、本人からです」
友人である修之輔ではなく、なぜ弘紀に。疑問が顔に出たらしい。弘紀が向き直って正面から修之輔に対面した。
「修之輔様がいけないのです。羽代に来てから、黒河に便りも何も出していないでしょう。貴方の安否を確認する手紙が私の下に届いたのです」
その手紙の内容を教えて欲しいと弘紀に言おうとして、その前に礼次郎が修之輔の方を向く。
「修之輔様、自分は旅路の疲れが癒えるまで、数日、江戸にいます。よろしければ江戸を発つ前に大膳様への手紙を預かることができますが」
礼次郎の言葉に応える前に、今度は弘紀が修之輔の返事を遮る。先ほどから修之輔は二人の顔を相互に見るだけで、何も話せていない。
「礼次郎、それは少し急ぎ過ぎだ。修之輔様、私が黒河の本多家へ出す手紙と共に送るのが確実です。送りたい時は私に預けて下さい」
「そっちのほうが良いな。じゃあ弘紀にそれは頼もう」
何故か今度は礼次郎が納得している。結局、修之輔がひと言も自分の意見を云う間もなく、弘紀と礼次郎の間で話がまとまった。修之輔がこの場にいてもいなくても、これでは変わりがない。
じゃあこれで帰る、と礼次郎が立ち上がろうとする。
「どこも見て行かないのか」
弘紀のその言葉は、礼次郎の帰る先が黒河の江戸屋敷でなく、黒河の地であることを前提としたものだが、それで間違っていないらしい。礼次郎は淡々と弘紀に答えた。
「黒河に帰る前に、和算の会があるというからそれには顔を出そうと思う」
「和算の会?」
面白そうだな、と弘紀が目を輝かせる。礼次郎が上げかけた腰を下ろした。
「黒河で良く読んでいる和算の書があるのだが、先日、その作者に感想を綴ったものを送ったら、一度、会に来てみないかと誘われた。その会合は五日に一度開かれているというから、江戸にいる間、一回は参加できる。あとは浅草の辺りで笛を見繕おうかと思っている」
「礼次郎は、まだ笛を吹いているのか」
「吹き手がだんだん少なくなっている。そもそも自分と近い年の者で笛をするのは弘紀だけだったんだ。けれど弘紀はいなくなるし」
「そうか。私も時折は吹いてみている」
そこで弘紀は、話から置き去りにされて茶を淹れる支度を始めた修之輔の方に視線を送り、同意を求めてきた。仕草が羽代の当主ではなく、一人の若者のそれのようだ。茶葉を取り分けながら修之輔はそれに応えた。
「時々、弘紀の笛を聞かせてもらっている。黒河にいた時は聞いたことが無かったが、羽代でも、この江戸に来てからも、弘紀に聞かせてもらう笛の音はいつも美しい」
それを聞いた礼次郎が頷いた。
「吹かなければ腕は落ちますから。聞かせる相手がいれば練習のし甲斐もあります。……そういえば、江戸に来ておかしなことがあった」
礼次郎がふいに声の調子を変えた。
「何があった」
弘紀が気軽な調子で間の手を入れる。
「知らない者に笛の腕を見込まれて、一晩どこだかのお屋敷で吹いてきた」
何気ない顔の礼次郎が言い出したのは、とんでもないことだった。
「礼次郎、お前、それって」
「それは……」
思わず修之輔も口を挟んでしまった。
「大丈夫だったのか」
「大丈夫だったからここにいる。特に変わったことはなかった。ただ自分の笛を聞きたいというだけだった」
それだけで十分におかしいのだが、礼次郎は何も疑問を感じていないようだ。
「どんな相手で、いったいどこで」
「あれはどの辺りだったかな」
さすがに心配の気持ちを隠せない弘紀の緊張とは裏腹に、礼次郎は一昨日のことだという自分の身に起こったその話を、まるで他人事の昔話のように語り始めた。
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