第2話

 降り始めた雨が時に弱く、時に強く、次第に長く降り続くようになってきた頃に、羽代の下士たちを取りまとめる山崎が中屋敷の広い座敷に皆を集めた。

「我らに新たな役目が言い渡された。昨今、江戸参勤に応じない国が多いのは皆も知っている事だろう。その他国に割り当てられていた辻番の任を、羽代が肩代わりすることになった」

 皆が一様に顔を顰める。

 警備のために市中の通りに一定間隔で設置されている辻番所は、人一人立てるだけの面積に適当な屋根が付けられただけの簡素なものである。その屋根すらないところもある。この季節、半日交代だったとしても雨の中、ずっと立ち通しで番をする、その役目をありがたがるものは皆無である。

「……身なりが良くない貧乏旗本が辻番に立つと町の子らが囃し立てるらしい。犬も吠えてくるそうだ」

「番をしながら飲み食いするわけにもいかないのだろう」

「だったら何もなくても屋根の下、雨の多い事でもあるし、中屋敷に閉じこもっている方が楽だ」

 江戸に来て三か月ほどになると、最初は文句の多かった中屋敷の生活にも皆はかなり馴染んできたようだ。


「ここに当番表を貼っておくから、各自自分の当番の日を確認しておくように」

 ざわざわと騒ぐ周囲の声を抑えるように、山崎が云う。

「それから、最近、屋敷内で気軽な格好をしている者がおるが、屋敷内とはいえ自室を出る時は身なりを整えろ。袴を着けずにいるのもそうだが、湯浴み着などは言語道断だ」

 そう云って山崎が睨んだ先は、いつものように外田達だった。この二人の間柄なら直接山崎が外田本人に注意してもいいのだが、外田に迎合する者が少なくないことを知っている山崎は、敢て皆の前で注意する。思った通りに、外田以外の者たち数名が山崎の言葉に首を竦めた。

 集まりの解散が告げられた時は、ちょうど雨脚が強くなっていた。修之輔は上屋敷に戻る機会を失って、まだ座敷に残っていた外田達の話の輪に加わってみることにした。

 彼等の話は丁度さっき山崎に注意されたばかりの服装のことで、外田は町で浴衣と呼ばれる湯浴み着を近頃仕立てて、それを皆に自慢しているらしい。流行りの生地で誂えた外田の浴衣を中屋敷詰の者は羨ましがっている。

「なんでも贔屓の歌舞伎役者に見立てて仕立てたりもするんだろう」

「龍や虎の文様もあると聞いた」

「役者のように着こなしてみたいものだが」

「さっき山崎殿に怒られたではないか、我ら寝間着代わりに着るのが関の山だ」

 浴衣は町人の流行ものなので、武士が表だって取り入れることはできない。だが、

「国許の母や妻から、その浴衣の生地を手に入れて来いと矢の催促だ」

「錦絵の美女が来ているから似合うのであってなあ。茶渋の様なうちの女達が着たところで」

「いや、俺はいくつか見繕っていこうかと思っている。馴染みの女への手土産だ」

「うちの女房に、浴衣じゃなくて切れ端の手拭だけだったら怒られるか」

「だろうな」

「だが女房殿には櫛簪くしかんざしをと云われているが、こっちの方が値段が手軽だな」

 江戸土産としても浴衣は人気が高いということだ。そろそろ参勤の先も見えて来て、江戸土産をどうにかしたいと思い始める中屋敷の面々にとって、浴衣は格好の話題のようだった。


 次の日は雨が止み、昼前には青い空さえ微かに灰色の雲の合間からのぞいていた。久しぶりの天気に修之輔はしばらく走らせることができなかった松風と残雪を同時に牽いて馬場に出かけた。

 先に走らせた松風をいったん中屋敷に預け、次いで残雪を走らせているうちに、これまでよりは早い時間だが岩見が采女ヶ原に姿を現した。しばらく離れた場所でこちらの様子を窺っているようだったが、修之輔が残雪の馬首とともにそちらを向くと遠慮がちに近くまでやってきた。

 修之輔は作ることに慣れてきた微笑を浮かべながら、岩見の目を見た。岩見の肩から少し力が抜けたように見えた。


「岩見殿、ここ数日姿を見なかったが、忙しかったのか」

「……秋生の邪魔になってはいけないかと。今日も直ぐに戻るつもりだった」

「岩見殿を邪魔だと思ったことは無いが、なぜそんなことを」

 修之輔は微笑を浮かべたまま岩見を見た。首を少し傾げて相手に答えを促すこの仕草が、弘紀の仕草を模したものであることは自覚していた。岩見はしばらく黙っていたが、そうだな、とひとり言のように呟いた。

「岩見殿に今日これから時間があるならば、また江戸の名物について尋ねたいことがあるのだが」

 今度は何だ、とこれまでと変わりない修之輔の話の中身に、岩見は苦笑しながらもどこかほっとした表情を見せた。

「江戸で流行っているという浴衣は、どこで仕立てられるのだろうか」

 あれほどまでに皆が話題にするのだから弘紀が知らない筈はない。きっと興味を持っているだろう。外田に聞いても良かったのだが、岩見の方が良く知っているのでは、と、そんな修之輔の思惑通り、腕の良い針子がいるという呉服屋に岩見が案内してくれることになった。


 駿河町に立ち並ぶ数多あまたの呉服屋の一画にその店はあった。上等の着物というよりは、町の者が普段着るような反物を扱っているということだったが、江戸っ子の気質に合わせているのか、色も柄も種類が豊富に揃っている。江戸に人の数多かずおおし、とはいっても、なかなか同じ着物を着た者には行き会わないだろう。

「お待たせして申し訳ございません」

 待った覚えもないぐらいだったが、腰の低い店員がやってきて上に上がる様にと手のひらで示した。が、修之輔を見て目を瞠る。

「失礼ですがお武家さまでございますよね」

 そうだが、となぜか岩見がそれに答える。

「いえ、こちらのお方があまりにもお綺麗な顔立ちをしておられるので、猿若町の役者の方かと思いました。そちらも手前どもを御贔屓にしてくださいますもので、お許しください、ご無礼を」

 そつなく頭を低く下げる店員だが、これを含めて接客だろう。浴衣を見繕いたい、という岩見の言葉に、では、と手近なところから反物を二つ三つ、持ってきた。

 失礼いたします、と修之輔の肩に布の端を充ててくる。

「この菖蒲柄は人気でして、女子供の着る分にはも少し花の大きさが小さいのですが、殿方が着られるこの柄はこのように、大きく花弁を取ってあります」

 口上を述べながら、その店員は目利きらしく目を細めて感心した。

「それにしてもこれは選び甲斐がございますね。新作の他にもいくつか売れ筋をお持ちしましょう」

 勢いに飲まれてしまったが、修之輔は自分の浴衣を誂えるつもりではなかった。店員が浴衣地の反物を取りに店の奥へと引っ込んだその間、置かれたままの生地を手持ち無沙汰に持ち上げてみていると、岩見が修之輔の肩に他の布地を充ててきた。

「藍地が勝る方が秋生の肌の色に合う」

 布を持つ岩見の指が、修之輔の襟元に触れた。直ぐに離れるものと思った指は襟から逸れて、鎖骨あたりをなぞっていく。偶然ではなく意図をもった触れ方だった。


 抑えることができない修之輔の体の微かな震えを岩見は感じた筈だった。だが修之輔は、岩見のその仕草に、自分の肌に触れた指に、気づかないふりをした。


 結局、店員の立て板に水の口上と、岩見のそんなに高いものではないから、という言葉に流されるまま、修之輔は菖蒲に菱垣の文様が配された浴衣を一枚、誂えることになった。そしてこれは江戸の気質で、明日の夕方には仕立て上がるという。

「まあ浴衣でございますからね、ちゃっちゃと仕立てて流行り物をいち早く身にまとうのが江戸の粋でございます」


 そんな呉服屋の店員とのやり取りが終わって店を出た道の先、このまま行けば飯田町の新徴組屯所へ続く。今日はこれでと岩見と別れ、馬二頭を預けてある羽代中屋敷に向かおうとした矢先、降り出した雨の雨脚が瞬く間に強くなった。

「この雨が止むまで少しここで待たないか」

 岩見に呼び止められて小さな稲荷の祠の軒下を借りた。いくつも並んだ赤い鳥居は雨に濡れ、幟からは雫が落ちる。雨を避けるには狭い軒下で岩見に身を寄せる必要があった。

「この間、改造された羽代の藩札が町に撒かれていたが」

 修之輔の耳元近く、岩見が話しかけてくる。くろさぎが羽代の藩札を路上に撒いた現場に、岩見は修之輔と居合わせた。

「あれは家中の話だから」

 そう言い差した修之輔の言葉を岩見が珍しく遮った。

「気を付けた方がいい。今、江戸の市中は様々な事に敏感になっている。お伊勢参りの流行はやりに乗じて、札を配る御師に化け、西へ東へと渡り歩いている不審な者がいることが明らかになっている。目的は上方と江戸に潜伏している幕府に逆らう者達の間を取り持つ情報のやり取りのようだ」

「それに羽代が関わっていると言いたいのか」

 岩見の仕官先は江戸市中の治安を守る新徴組である。その情報には根拠があるのだろう、確かなものだと思えた。

「そこまでは考えていない。ただ、江戸市民の信仰に乗じてつけ込もうとする者がいる。よからぬ疑いを掛けられぬうちに、家中の問題とは言っても早く解決した方がいい」

 藩札の問題は、既に羽代の当主である弘紀が把握し解決に向けて動いていたが、岩見がそれをわざわざ修之輔に告げた真情には、単純に感謝の気持ちを覚えた。

「分かった。なるべく早期の解決が望ましいということを、伝えられる範囲で家中の者に伝えておく」

 岩見と合わせた目を伏せ、頭を下げた。

 そうして感謝の意を表しながら、首筋が相手の目線に露わになるこの体勢はひどく無防備だ、と、雨粒が跳ねかえる地面を見ながら修之輔は思った。


 二人してしばらく特に会話もないまま雨空を見上げていると、やがて雨脚が弱まってきた。このぐらいならと祠の軒先を出て別れ際、岩見が少し躊躇いがちに話しかけてきた。

「浴衣が仕上がったら一度、一緒に湯屋にでも行ってみるか。作法があるが、それは教える」

 湯屋も江戸名物だ、というが、湯屋への出入りはは山崎から禁止されている。そのことを岩見に伝えた。

「そうか、それは残念だな」

 その言葉がやけに正直に聞こえて、外田達、羽代の藩士の性質と重なった。岩見の本来の性質は、案外彼等に近いものかもしれないと修之輔は感じた。


 ぬかるむ道にどうしても足は汚れる。せめて牛が牽く車の水跳ねだけは避けながら中屋敷へと一人戻る道すがら、修之輔は岩見から聞かされてことを考えた。


 幕府の転覆を企む者が伊勢神宮の御師に変装しているというのだろうか。だがそれは伊勢神宮に対するひどい不敬にあたる。神罰を恐れない者なのか。あるいは。


 伊勢神宮の御師自身が、世の中の擾乱を招きよせようとしているのか。


 翌日の夕方、今度は修之輔一人で浴衣を頼んだ店に行くと、注文した浴衣は既に仕立てあがっていた。仕上がりを店員と共に確認した後、もう一つ頼みたい、と修之輔がいうと、店員は揉み手で喜んだ。

「確か昨日見せてもらったものの中に、燕が飛ぶ姿が染められた生地があったはずだが」

 それには軽やかに水面を飛ぶ翼の意匠の他に、水辺の草花が散らされていたはず。弘紀に似合いそうだと自分の浴衣を誂えながら、既に弘紀の分も見繕っていた自分の記憶を可笑しく思う。

「お仕立ての寸法はこちらと同じでよろしゅうございますか」

「いや、この寸法で」

 書き付けてきた弘紀のおおよその寸法を示すと、店員は別段不思議がることなく受け取った。

「こちらで仕立てて頂くお武家さまの中には、ご家族のものも一緒に仕立てる方が珍しくございませんので」

 兄弟、親子で参勤に来ると、そんなこともあるらしい。そんな場合は粋な大柄より花木の柄が老若男女問わずに売れるという。江戸の針子の仕事を見たい、とわざわざ仕立てを頼んでくる奥方もいるらしい。

「弟君ですか、甥御様ですか」

 店員に、そうにこやかに聞かれて、弟ということにしておいた。あるじと答えるわけにはいかない。

「こちらの寸法ですと布地が余ります。手拭いを誂えましょうか」

 少し考えてから作ってもらうことにした。だが、布が余ったから手拭を作った、とは、弘紀に正直に云っていいものか、それは迷うところだった。


 その浴衣を今、弘紀は身に着けて、修之輔の部屋でくつろいでいる。水を入れた汲み出しを持ってその傍らにに座ると、弘紀の手元には羽代の藩札と、その藩札を改造した札があった。

「くろさぎがまた姿をくらましたのです。逃げも隠れもしない、といった割には姿をしばしば消すのです」

 くろさぎの所在は一応つきとめたのだが、そこは木賃宿で、寝起きするためだけの場所だったらしい。

 ねぐらを突き止めた、それだけではどうしようもない。藩札を改造する作業の場を突き止めて奉行所に報告し、内容を認められた上でようやく捕縛が可能になるということだった。岩見が思っているよりも弘紀の対応は早く、順調とは言えなくても確実に捜査は進んでいる。

「加ヶ里の監視を抜けるのですから、心得がある者なのでしょう」

 弘紀のその言葉は加ヶ里を褒める言葉に聞こえ、弘紀自身がそれに無自覚であることが修之輔の気持ちを波立たせる。弘紀に他心はないから無駄な動揺とはわかっているのだが。


 既に一度、情を交わした後の床の上、弘紀は起き上がらずに横になった姿勢のまま藩札を見比べている。いつもは絹の単衣だが、今は肩から背にかけて、浴衣の白地には水輪が広がり、燕と柳の葉が散らされている。仕立てたばかりの浴衣だが、弘紀はそれをとても気に入ったようだった。

 弘紀の肩に手のひらを置く。絹でも麻でもない乾いた手触り。背まで指を滑らせながら首筋に顔を近づけると、いつもと違う木綿の香りの向こうに弘紀の体の温度があった。

 五月の昼間、弘紀と中屋敷の長屋天井に見上げたのは、運河の水面が映った白く光る水の輪だった。今は白い浴衣地に沈む藍色が水の輪を描いている。

「……その新徴組の者が云っていた、伊勢の御師の話は注意しておくべきですね」

 そう云いながら、肩越しに振り向く弘紀の目が修之輔を見つめてくる。

「他に、何かその者はいっていましたか。言葉だけでなく、何か気づいたことは」

 言外に弘紀が修之輔に何かを訊ねている、そのことは察することができた。だが。

「何か、他に」


 修之輔は知らず、視線を逸らせた。

 岩見が自分の肌に触れた指。時折、こちらを見つめてくるあの視線。


 弘紀が訊いているのは、岩見自身のその仕草か、それともその仕草に呼び起こされる修之輔自身の感覚か。


――薄暗がりの中、この肌を這う手。力任せに腕を、足を、引かれた。口の中に何か捻じ込まれ息ができなかった。足首を縛る紐は、両足を開いたままの無防備な体勢を強いた。抵抗できない。覆い被さってくる黒く大きな影。


 混乱に陥る前、弘紀の体を無言で引き寄せた。何か言いたげな弘紀が、けれどそれ以上は何も言わずに修之輔の胸に顔を埋める。長く濃い睫毛が伏せられて、互いに何かを隠すもどかしさ。相手の体を掴む指の力が強くなる。


 光と影が逆転した水輪が腕の中で揺れる。


 また強く降り出した深夜の雨音は、草花模様の灯籠がともるこの部屋を周囲の世界から緩やかに遮断した。


 その二、三日後、いつものように馬追いを終えて上屋敷に戻ると、門番から客人が来ている、と伝えられた。

 客人が持参した書状を屋敷の用人が受け取り、そのあとすぐに修之輔の部屋に連れて行くようにと指示があったという。

 自分を名指しして訪れるような知り合いは思い当たらず、いったい誰が、と訝しみながら人の気配がある長屋の戸を開けた。

「お久しぶりです、秋生修之輔様」

 そこには修之輔が黒河で剣術を教えていた弘紀の友人、澤井礼次郎が座っていて、こちらに頭を下げていた。

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