第6章 神楽秘曲

第1話

 薄灰色の雲が空を常に覆って、地面に落ちる影の輪郭も朧な天気が続いている。時折降る雨は糸のように細く、目に映るすべてのものを濡らしていく。

 過ぎた皐月の陽気に慣れた体にとって、水無月半ばを過ぎて降る雨は時に冷たく、夜、湿った着物を乾かすために火鉢に火を入れることもあった。


 修之輔が小太刀を習いに羽代下屋敷に通う道中も、渋の塗られた傘にあたる雨音を聞きながら行くことが多くなった。


 始めてひと月ほどになる小太刀の特訓は、次第に高度なものになっていた。修之輔自身、剣術の師範免許状を持ってはいるが、黒河で修得したその明雅流には小太刀一本に特化した技は数えるほどしかなかった。


「そもそもな、儂ら奉行所が相手にするのは町人だ。彼らは長刀を持てないから、却って刃渡りの短い匕首の扱いに長けている。得物の大きさにたのんで油断すると、一気に懐に飛び込まれて喉首を切られることもある」

 ひょいひょい、と曲渕が身軽に動いて、修之輔の前後左右から小太刀仕様の短い木刀を突き出してくる。修之輔が自分の手に持った同じ長さの木刀で打ち払うと、その腕をかいくぐって喉元に剣先が突きつけられる。長刀の感覚を一度捨てなければならず、それに案外時間がかかった。


「それから大切なのは防御から攻撃への切り替えじゃな。太刀なら攻防両方同時にできるが、小太刀にそれはできないからのう」

 長刀ならば、その刀身の長さから防御と攻撃の切り替えを動作に切れ目なく行うことができた。しかし小太刀は長刀の攻撃を防いだら直ぐに攻撃に移らなければ防戦一方になり、それは分が悪い。


「つなぎがまだ見える。敵にそこを突かれるぞ」

 こうなってくると曲渕の小柄な体は小太刀の扱いにこそふさわしく思える。距離を走ることはできなくても、細かな足さばきで右に左に、体の位置を変えて相手に照準を定めさせない。

 相手の攻撃を防いで直ぐに足を引き、隙のある場所を見定めて攻撃を仕掛ける。瞬時の判断が必要だが、幾つもある型を覚えることにより、判断がより迅速かつ重層的に行えるようになる。その型の組み合わせを自分なりに工夫するようになって、ようやく、曲渕の腕や足に木刀の先が触れるようになった。

「おお、今の動きは面白いぞ」

 それでも曲渕は飄々と修之輔の剣先を躱す。まだ自分の動きのどこかに、相手に見透かされるような油断があるはずだ。


 至らないところ、足りないところをひたすらに探究する地道な訓練だが、小太刀の術について熟練した曲渕を相手に、一人黙々と訓練できるのは非情に恵まれた事だった。


 そんな訓練の最中、ふと下屋敷のどこからか笛の音が聞こえてきた。吹き方の抑揚、曲に聞き覚えがあった。弘紀が前に修之輔に吹いて聞かせてくれた曲の一つだった。

 弘紀が下屋敷に来たのだろう。思わず逸れそうになる意識を、敢えて笛の音の流れに沿わせてみた。


 笛の音は途切れなく、異なる音を繋いで曲を紡いでいく。

 防ぐ動き、相手の動作、攻撃に移る足運び。


「そんな感じだ」

 ぽこん、と、修之輔の頭の上に木刀が落ちてきた。曲渕が放り投げたらしい。

「今日はここまで。次回は別の技を教えよう」

 落ちた木刀を拾う修之輔に、曲渕はそう告げた。


 指導の礼を云い、曲渕に良しと云われた動きを反復していると、下屋敷の者がやってきた。

「秋生殿、稽古の後、庭に行くように。弘紀様がお呼びだ」

 笛の音が聞こえた時から期待していたその指示に、修之輔は強いて一呼吸おいてから返答した。

「承知しました。それでは曲淵先生、本日はこれで」

 なんじゃ、今日は一緒に帰れんのか、と曲渕が云う。

「おぬしと内藤新宿の軒先を冷かして歩くと女達が必ず視線を向けてくる。それが楽しいのだが」

 やけに残念そうな言葉を残して、曲渕は一人、帰って行った。


 修之輔が庭に回ると中間が植木の手入れをしていた。こちらの姿に気づいたらしく、腰を低くして傍にやってきた。

「秋生様でしょうか。池の向こうにまでお越しください。そう伝えるよう、言いつかっております」

「わかった。ご苦労だった」

 中間を労い、下屋敷の庭を一度、見渡す。先日来た時は弘紀と、その兄の先代羽代当主である弘信に従って池の周りを回っただけだった。広い下屋敷の敷地全てを見たわけではない。

 池を回り込むように踏み石が続くその先、奥には薬草園があると弘紀に聞いていたが、今、目の前に広がるのは薬草園というよりはまるで畑で、作物のようにいくつかの植物が植えられている。その先に人影があり時折轟音が聞こえてきた。鉄砲を撃っているようだ。


 数歩進むうちに、二、三人の近習を従えた小柄な弘紀の姿が見分けられるようになった。砲術に心得があるらしい者が数本の異なる洋銃を点検しながら、弘紀に渡している様子も見えてくる。

 修之輔が近づいて跪礼する、その前に弘紀と目が合った。弘紀はだいぶ前から修之輔の姿に気づいていたのだろう。

「これの使い方を貴方に教えようと思って」

 弘紀がこちらに向ける口調の親しさに戸惑ったが、そんな修之輔の様子を見て弘紀が笑んだ。

「今ここにいる者達はおもての者ではなく奥仕えの者達なので、遠慮はいらないのです」


 こっちに、と呼ばれて弘紀の傍に行くと、十間ほど先に的が用意されていた。弘紀の姿も普段の装いではなく鷹狩りに出るような筒袖に野袴である。弓掛けが右肩に置かれているが、右利きの手を持つ弘紀は本来ならば左にある筈だった。洋銃を撃つための装備なのだろうか。

「最近、これを手に入れたのです。スナイデル銃、と呼ぶのですが」

 弘紀が一本の洋銃を手に取って修之輔に渡した。細身の銃身の形状は明らかに講武所で触ったゲベール銃とは異なる。

「この銃身の中に螺旋状の溝があって、こちらのゲベール銃より命中率がかなり上がるのです」

 弘紀はそう云って、他方からもう一本、洋銃を取り上げた。それは修之輔にも見覚えがあるゲベール銃だった。

「試しに、撃ち比べて見ているのです」

 弘紀が器用にゲベール銃に弾を込め、的に向けて撃つ。的の中心は外しても、弾は的の外縁を貫いた。射程距離は種子島より格段に長い。弘紀の腕前は確かなものだった。けれど弘紀は不満げに鼻を鳴らした。

「あのぐらいぶれるんです。ちょっとでも強い風が吹くとあの的ですら外しますから」

 そして弘紀は次にスナイデル銃を手にした。弾込めを銃身の後方から行っている。

「この銃の良い所の一つが、弾をこうやって後ろから入れることができるところです。打ち終えた後、銃を持ち替えずに直ぐに次の弾を込めることができるのです」

 そう云って弾込めを終えたスナイデル銃を肩に充てて、弘紀は再び的を狙って撃った。

 轟音の後、弾は的の中心近くを過たずに射抜いた。


 修之輔は、昌平坂の下にあった幕府お抱えの錬砲所で見た試し打ちの的を思い出した。縁を穿ったものばかりのその的は、ゲベール銃を模して作られた銃で撃たれたものだった。


 弘紀がスナイデル銃を再び撃つ。弾はほぼ中心を射抜いた。弘紀の腕前を差し引いても、スナイデル銃の性能の良さは明らかだった。


 黒曜の瞳に鋭く光を宿して的を見据え、姿勢良く銃を撃つ弘紀の姿は見ていて好ましい。指先、腕、肩、背。上半身全てを使って照準を固定し、肩幅に広げられた足はその上半身を支えて地面を抑える。狙いが定まると、す、とその目が細められ、次の瞬間、銃声と共に的に穴が穿たれる。

 弘紀がスナイデル銃を撃つ、そのひとつながりの動きは見飽きることなく、修之輔はしばらくただ見ていたかったのだが、弘紀は撃つのを止め、修之輔にそのスナイデル銃を寄越してきた。

「貴方も試して見て下さい」

「いや俺は」

 断ろうとして、周りに控える近習の存在を思い出した。断れなくなる修之輔の内心を見透かして、なお、弘紀が修之輔の手にスナイデル銃を押し付けた。

「ここをこうして、こう持つのです」

 修之輔は、火縄銃の練習は羽代城で何度かしており、講武所でゲベール銃を触ってもいた。弘紀にスナイデル銃の扱いを簡単に教えてもらいながら数発撃つうち、撃った弾が的に当たる様になった。

 弾が的に中ったことよりも、さすがですね、と弘紀がこちらに向ける笑顔を単純に嬉しく思っていると、その笑顔に微かに含羞みが混ざった。

「私が貴方にこうして教えるのも、なんだか変な感じです」


 弘紀に剣術を教えたのは自分。文字通り、手を取り、足を取って教えた。弘紀は自分が教えた者の内で最も秀でた腕の持ち主だった。剣術を介して、師弟の関係だった過日を思い出す。

 あの時から比べると、二人の関係は大きく変わったとも、何も変わっていないとも、どちらにも思えた。

 今、修之輔が弘紀と二人で逢うのは人目を避けた夜になる。けれど昼日中の屋外で、こうして近くいるのは珍しいことだった。この間、墨堤で降った雨を避けたあの雨宿りの時以来だがその時よりも弘紀との距離が近い。


「体の向きは、こう、ですね」

 口で言えば済むはずの助言だが、弘紀は修之輔の体に触れてくる。その指の感触に隠される秘めやかな官能を密かに二人で共有する感覚は、蕩けるような甘やかさを伴った。


 そして、ふと岩見を思い出した。


 弘紀に腕を掴まれても、背や脇腹を触れられても大丈夫だが、岩見に掴まれた時、背に腕を回されて引き寄せられた時、この身が竦んだ。忘れたと思っていた過去の記憶が、あの岩見の所作で次第に甦ってきているのを、ここ数日、否応なく自覚させられている。


 肌を這う手。力任せに腕を、足を、引かれた。口の中に何か捻じ込まれ息ができなかった。足首を縛る紐は、両足を開いたままの無防備な体勢を強いた。抵抗できない。


 視界が、流れる。


 目を閉じる。

 火薬の匂い、草木の匂い、花の匂い。そして弘紀の匂い。


 修之輔に銃の扱いを教えているはずの弘紀が、いつのまにか腕の中にいてこちらを見上げてきていた。弘紀の指示への反応が遅れた修之輔に、次の動作を促す黒曜の瞳。見交わすだけで心が安定を取り戻す。

 この動揺を弘紀に気づかれてはならない、強くそう思った。


 修之輔はいったん、その場で跪いた。自然、修之輔の腕の中から外れた弘紀が、軽く首を傾げてからちらっと周囲に視線を巡らす。修之輔に近づき過ぎていた自分に気づいたようだ。けれど変わらぬ口調で修之輔に訊いてきた。

「この銃、貴方にあげましょうか?」

「町中で持ち歩くわけにも使うわけにもいかないだろう。刀だけで」

「ふうん」

 弘紀はそれ以上、強いることはなかった。

「今日はこのくらいにしておきます。今度、松風も連れて来てみようかと思っているんです」

「松風の上から撃つのか?」

「ええ。そのためにはこの音に馴らさないといけません」

 松風はひどく暴れるか、まったく気にせず平然としているか、どちらかだろう。弘紀の云うことは聞く松風なので、銃声に慣れる訓練には弘紀の同伴が必須だろう。


 その日、修之輔は弘紀と共に上屋敷に戻ることになった。弘紀の乗る駕籠の右側の護衛の任は、弘紀との距離が近い。下屋敷の門を出る前、駕籠の御簾を上げて弘紀が話しかけてきた。

「大きな通りに出る前に少し、寄り道をしてきます。この間云っていた牡丹の花を眺めて行きましょう」

 下屋敷から前もって知らせがあったらしく、牡丹が美しいというその植木屋の屋敷では、門前に主人が出てこちらを待っていた。中を見せてもらうという話だったのだが、雨が降り始めて、また日を改める、ということになった。切り花としても売っているという牡丹の花を数本、弘紀は買い求めた。


 上屋敷に戻ると玄関には用人が待ち構えていた。下屋敷に知らせを遣わすほどではないが、そこそこ急な用事があるようだ。小声の報告を聞いた弘紀は、直ぐに屋敷の中へと入って行った。修之輔は弘紀が乗っていた駕籠の片付けを手伝ってそのまま、雨脚が弱まった気配を好機と、残雪を采女ヶ原へと牽き出して、数日ぶりに走らせた。


 時々辺りを見回したが、岩見の姿は見えなかった。


 中屋敷に顔を出しても特にこれといったこともなく、上屋敷に戻ると、部屋の前に牡丹が一枝置かれていた。思わず、今は閉じられている隠し戸に視線を向ける。弘紀が自分で置いて行ったのだろうか。

 花を挿すための風流な器は部屋の中を見渡しても見当たらず、戸口の外に据え置かれている水桶の上から手桶を一つ借りて、そこに活けた。


 柔らかく白い花弁が微かに揺れて、身近に見る花芯の紅が濃いことを知る。藤の花の香りの妖艶さはなくても、仄かに甘い匂いがする気がした。

 その夜、弘紀は部屋に来なかったが、牡丹の花の華やかさは弘紀の存在を思わせて、修之輔に甦りつつある過去の記憶を忘れさせた。


 江戸にいるのもあとひと月程度。

 本来ならば練り物、踊りに山車が繰り出す華やかな山王の祭りも、時勢から警備が難しいとの判断で簡略化された。神輿だけが威勢よく羽代上屋敷前を通り霞ヶ関を登っていった祭りが終われば、次第に降る雨の時間は短く、けれど雨脚は強くなり始めた。


 この梅雨が明ければ江都に夏が訪れて、参勤の任が済んだ弘紀が国許へ帰る時は、近くなる。

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