第2話

 市中見廻り組、という言葉を耳の端に聞いて、屋敷の門の外に集まった町人にその場を離れる者が増えてきた。酒井氏の見廻り組がこれからこの場に来るという訳でもないのに、酒井氏の名が江戸の町民に与える影響の大きさを修之輔はあらためて知った。


 その修之輔が残雪とともに守る門の内、屋敷内の火の手は羽代の火消しによって火勢が明らかに衰えて行く。

 残っていた野次馬も、これ以上の被害も見物すべきものもないと見切りをつけて周辺から次第にいなくなり始める。背にはまだ燃える火の熱が感じられたが、修之輔は残雪の足を時々止めることができるようになった。

 そして残雪の上から周囲へ巡らせた視線の途中、白い御師おし装束の人影に気づいた。

 参勤の途中、品川宿で接触した、くろさぎと名乗るあの人物だった。


 くろさぎは修之輔に気づいているのかいないのか、その視線は修之輔の背後、まだ火が燃える御殿の方に釘付けになっている。

 いや。


 くろさぎの視線の先を追って修之輔の緊張は急激に高まった。

 くろさぎが視ているのは、門の中で火消しの指揮を執る弘紀だ。


 その事に気づいてすぐ、修之輔は残雪の腹を蹴り、くろさぎの目前に残雪を進ませてその視線を遮った。

「武家屋敷の火事は見世物ではない。退け」


 くろさぎは今ようやく気づいたように、馬上の修之輔を見上げた。だがその目の焦点は修之輔の上にはない。牽制する修之輔の様子を無視して、くろさぎは勝手に話しはじめた。

「素晴らしい。この火勢にあって虚勢きょせい怯懦きょうだもなく陣を指揮するあの姿、白鳥の御子が不二のふもとの草原で草薙の剣をふるったというあの故事そのままの姿ではないか」

 江都の夜を染め上げる紅蓮の炎。風に舞う火の粉の中に弘紀の姿がある。


「正統は、やはりこちらだ」


 ふいにくろさぎの目の焦点が修之輔に合された。異様な鬼気に満ちたその目に炎の影が揺らぐ。

「会わせてくれ、羽代の当主に。伝えなければならないことがある」

 残雪がくろさぎのその異常な雰囲気を嫌って、鼻を鳴らした。修之輔はくろさぎの姿を強く睨み、手綱を離した右手指を刀の鯉口にかける。

「そのような無礼、口にするのも許されることではない。お前のような素性も知れない者を弘紀には近づけない」


 ――狂狼が。


 くろさぎが食いしばる奥歯の奥から言葉を零した。

「我らは同士ではないのか。日輪の巫女を守るのが我らの役目だ。忘れたのか」

「何を言っているか分からない。まったく覚えのない事。世迷いごとばかりならべるのなら、お前は羽代の当主の身を脅かす狂人に過ぎない」


 修之輔は刀を鞘から抜いた。残っていた野次馬の目が集まる。炎の色を受けても青白く光を零す黒漆の鞘。抜かれた抜身の刀身には燃え盛る火が映り、既に血に濡れているかのように朱い。だがくろさぎの関心は、別のところへ向けられた。

「あの剣はどうした。黒河から持ってきたのではないのか」

 くろさぎのいう剣が、自分の長覆輪であることは察せられた。今は弘紀に預けその私室に保管されている。だがその説明をする必要は無いと修之輔は断じ、くろさぎの問いかけを黙殺した。

「置いて来たのか、黒河に。月牙の剣は正統を示す物。なぜ持ってこなかった」

 勝手に恐慌に陥り始めたくろさぎの喉元に、無言で刀先を突き付けた。躊躇いは感じなかった。このまま何の感情の波もなく、この喉を貫ける、そう思った。

 話が通じない相手というのはお互い様だった。くろさぎの視線がゆっくりと刀の先へと落ちて行く。

 その時。


 大きな音と振動を立てて、ほとんど焼け落ちる寸前だった御殿が崩壊した。無数の瓦が落ちて割れる音、柱が熱に爆ぜる音。礫混じりの強風が辺りを吹き過ぎる。

 その間隙をついて、くろさぎは修之輔の刀先から逃れて町の闇のなかへと走り去って行った。追う必要は無かった。修之輔は残雪の馬首を返し、半壊の門を潜って弘紀の側へ戻った。


 巨大な炭の塊と化した御殿は、もはや燃え上がることは無い。白い煙を上げる小山の様な残骸に、さらに運河から汲み上げられた水が次々に掛けられていく。

 弘紀は、庭木を倒して周囲への延焼を防いだ山崎や、御殿の鎮火を報告する加納の言葉に頷いて火消しの引き上げを命じた。


 現場には、明け方に来る奉行所の役人に対応するための数名が残された。加納には中屋敷で風紀粛清に勤めるよう弘紀は指示を下して、羽代大名火消の行列は上屋敷へと引き上げた。残雪に騎乗する修之輔は行列の最後尾についた。焼け跡の匂いから遠ざかるにつれ、夜空に星の光が増えていくように思えた。


 上屋敷に戻って御殿のなかへ戻る弘紀を見送って厩に松風と残雪を牽いていくと、厩番が盥と桶に水を用意していた。大人しい残雪を厩番に預け、修之輔は水に浸した手拭で松風の体から煤塵を拭き落した。

 馬は強い匂いを嫌う。明日、日が出てからもっとしっかり煤煙の匂いを洗い流してやる必要があった。厩番とその打ち合わせを終えてから、使わなかった水桶を借りた。自分の体にも焦げた匂いが纏わりついている。両袖を抜いて、上半身に頭から水を浴びた。

「寒くはございませんか」

 近くでまだ作業をしていた厩番に云われた。

「火消しの後だ、これでちょうどいい」

 そうでございますね、と調子のいい返事が返ってくる。

「秋生様は御見かけより鍛えておられますな」

 こちらの体を見ての言葉のようだ。江戸者は自らの鍛え上げた体を自慢したり、他人の体を批評し合う風潮があるというが、厩番もその言葉通りの気質のようだ。

「今は江戸の旗本と名乗られましても、どうも持った刀に振り回される腰の据わっていないお侍さまが多うございます。その点、この度お国元からいらした羽代のご家中の皆さまは、立派に大きな体つきで、わたしら中間も他のお屋敷の者達に鼻を高くして自慢しております」

 中間の言葉の端々には羽代に仕える矜持が明らかだった。屋敷にのこる火消しの余韻にてられてもいるのだろう。


 その火消しの余韻は、部屋に戻った修之輔の中にも残り続けていた。

 燃え盛る炎を間近に見続け、火の粉を浴び続けて煽られた熱と興奮が体に残る。

 自分でこうなのだから、中屋敷の外田たちはいつもに増して騒ぎそうだ、と思った。その彼らを大人しくさせるために弘紀は加納を中屋敷に留めたのだろう。加納の事を考えるとどこか不穏になる心の内から目を逸らした。

 そうして改めて、修之輔は、羽代に来る前、自分が己以外の人間にこれほどまでに様々な感情を持ってこなかったことに思いを巡らせる。


 何人もの仲間と互いの存在を認め合って、信頼し、危険な状況でも皆で立ち向かう。

 それは生まれ育った黒河で、修之輔が経験していないことだった。羽代に来てから自分の身の上に起きた事、そしてそれによって自分の中に芽生えた感情。もともと自分の内に備わっていたのかもしれないそんな感情をひとつひとつ見出していくことに、修之輔は新鮮な驚きと、そして微かな戸惑いを覚えていた。


 弘紀のために、弘紀がいたから、自分は羽代にやってきた。

 それは自分の意思ではあったけれど。

 弘紀が自分をこの場所に連れて来てくれたことに、修之輔は心の底からの感謝を覚えた。

 このところ弘紀に伝えたくて言葉にならなかった想いが、心の片隅に澱んでいた塊が、すべてその感謝の言葉に集約されていく、そう、感じた。


 弘紀にすぐにでもこの気持ちを伝えたいと思ったが、弘紀はきっと火消しの後処理で忙しいから今夜は来ないだろう。焦燥の気持ちは不思議に薄く、そのまましばらく夜風に鳴る楠の葉音を聞いていた。


 明日。きっと明日は弘紀が来るだろう。

 休む支度をして目を瞑っても、体の内にまだ炎の残像が残っていた。すぐには寝付けないことを半ば諦めた修之輔の耳に、微かな音が聞こえた。


 カタン、と木戸の鳴る音。


 近頃習慣になっていた、この音を聞いて手持ち燈籠に火を入れる手順。それを忘れて、思わず框に降りて戸を開けた。


 御殿との境を区切る黒板塀に誂えられた隠し扉から弘紀が半身を出している。灯りは無くても月の光で充分だった。修之輔は迷いなく、弘紀の側に歩み寄った。

「こっちに」

 笑みを浮かべたその瞳で、弘紀は修之輔を塀の内側、御殿の中へといざなう。間近にみるその頬は、弘紀の気分の高揚を示していた。隠し戸を潜る時に反射的に躊躇うと、弘紀に寝衣の袖を強く引かれた。


 夜更け過ぎの上屋敷御殿。湿る庭石に月の光が滲む。

 弘紀について庭の片隅を少し歩いたその後に、目の前に迫った御殿の床上に弘紀が身軽に飛び上がった。弘紀に手を引かれて、修之輔も御殿へ上がり、その中へと足を踏み入れる。辺りの様子を探る間もなく、直ぐに、脇の小部屋の中へと弘紀が修之輔を押し込んだ。そのまま。


「今夜は、こっちで」

 華やかに笑む弘紀に、修之輔は押し倒された。

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