第5章 墨堤の石碑

第1話

 料亭百川で行われた会談の三日後に、羽代から船が着いた。船にはいつもより多く茶葉が積まれていて、中屋敷に詰める者達がそれらの茶葉を屋敷の倉へと運び込んだ。

 それから数日は何人かの商人が中屋敷の中に呼び入れられて茶の検分を行ったが、それは表向きのことである。幾分かの茶葉は百川での会談相手の屋敷や、羽代が新たに火器の取引をしようとしている藩の屋敷へと送られた。


 羽代の茶を対外的な取引の道具として本格的に運用することは弘紀の江戸参勤中の目的の一つで、その計画は順調に遂行されつつあった。


 あの夜、百川からの帰り道で修之輔が抱いた不安は、その翌日の夜、修之輔に逢いに来た弘紀には言い出せないまま、ずっと心の底にわだかまっている。これまでならば肌を重ねて、その吐息を間近に感じるひとときを過ごすだけで解消できていた澱みの様なこの感情。

 自分の心の在り方の変り様が子供じみた我儘に過ぎないようにしか思えなかった。


 我儘を弘紀に伝えるわけにはいかないと、逸らした視線を昨夜、弘紀に見咎められた。


「秋生、どうかしましたか」

 深夜に修之輔の部屋を出て御殿へ戻ろうとする弘紀が、楠の脇で立ち止まってこちらを見上げてきた。一瞬、言葉に詰まって、けれど自分の口から出たのは早く御殿の中に戻るように、というひどく素っ気ない言葉だった。物言いたげな弘紀の背を押して、隠し戸を潜らせた。

 今度逢う時、弘紀に何か言わなければならない気がして、けれど何を言ったらいいのか、分からなかった。


 修之輔の部屋の前に立つ大きな楠は、風が吹く度に古い葉を惜しげなく振るい落としていく。この楠の様にためらいなく自分の気持ちを伝えることができたなら。

 夕方の残雪の馬追いはすでに終えていて、今日はもう休むだけだった。月は満月、夜も明るい今夜の眠りは浅いだろう、そう、思った。


 次の日の夕方、残雪を牽いて中屋敷を訪れ剣術の指導をしていると、急に町の火の見櫓の半鐘が打ち鳴らされた。

「火事だ、火事だぞ!」

「火の手が上がった!」

 直ぐに中屋敷の建物の屋根に上った者が、どうやら武家屋敷が火元のようだと怒鳴って寄越した。直ぐに上屋敷へ知らせが走らされた。


 羽代中屋敷の周囲には武家の屋敷があるがそれらは中屋敷や下屋敷である。今は幕府からの参勤要請に応じずに国許に引き籠っている大名が多く、それらの屋敷には人が少ない。どころか無人の屋敷さえある。そういったところから火の手が上がったとなれば人為を疑わざるを得ないが、今は鎮火が危急の課題だった。


 町火消しの足の速さはさすがで、すでに纏が通りの向こうに見え隠れしている。町方の火消しは彼らに任せれば十分だが、町人が武家屋敷に手を掛けることは許されない。火の元付近の武家屋敷の消火作業は、武士が行うことになっている。この距離、最も距離が近い上屋敷は羽代で、奉行所から出動の依頼が来るのは明らかだった。


「羽代に火消しの命が下ったぞ、火消しの支度にかかれ!」

 中屋敷に走り込んできた予想通りの伝令によって、藩士たちは襷を掛けて股立ちをとり、互いの頭から水を掛け始めた。山崎が調練の洋太鼓を腹に括り付けてながら、修之輔に指示を寄越した。

「秋生、残雪で周囲の誘導を頼む。非常時だ、場合によっては刀を使え」

 人が集まる所では何が起こるか分からない。火消しだけでなく火事に紛れて犯罪が行われないように監視するのも役目の一つだった。

「分かった」

 山崎の指示に応えて、修之輔は直ぐに残雪に騎乗した。突然の騒ぎに残雪は軽く興奮していたが、修之輔の手綱の指示には充分に従った。緊急の事態なので騎乗したまま中屋敷の門を出て、藩士が出動できる空間を確保するために残雪を門前で周回させる。

 

 中屋敷の門の外、釆女ヶ原の馬場には火から逃れてきた町人が集まっている。

 その馬場の向こうから、紋誂えの提灯を先頭に武家の行列がこちらへやってくるのが見えた。紋は違い鷹羽。それは奉行所からの要請で出動した羽代当主、朝永讃岐守の大名火消行列だった。


 江戸市中、しかも急を要する大名火消の行列に町民は平伏する義務はない。しかしその進行の妨げにならないよう、町人は慌てて道を避けていく。紋提灯を掲げて走る中間の後ろに梯子持ちや差股を担いだものが続いて、そして鹿毛の馬、松風に乗っているのは弘紀の姿だった。

 黒漆の陣笠から下がる火除けの防火布がその肩を覆う。

 上着の白い火消し羽織と青海波の野袴が、次第に強さを増してくる風に煽られている様子が遠目にも分かった。

 当主に先立って中屋敷に着いた加納が、山崎に状況の確認を求める。弘紀が中屋敷門前に到着すればすぐに火元へ向かうため、中屋敷に備えられている竜頭や火消し道具の準備が中屋敷の塀の外に運び出され、稼働の準備が整えられつつあった。


 弘紀の率いる上屋敷の隊列が中屋敷に到着するその前に、修之輔は残雪から降りた。弘紀は松風に騎乗したまま加納と山崎から状況の報告を受け、直ぐに火元へ向かうよう集まる藩士達に号令を発した。

「先ほど、我が羽代に火消しの命が下された。直ちに現地に赴き、消火、鎮火にあたる。羽代家中のお役目と各自が充分に理解し、火消しの任に当たるように」

 小柄であってもその声は群集のざわめきを抑えて辺りに響く。

「出立!」

 弘紀は掛け声とともに松風の馬首を火元方向へと向けた。


 どん、どん、どん

 山崎の叩く太鼓の音で藩士は隊列になり、弘紀の後に付いて走り始める。


 どどん、どどん

 山崎の太鼓は隊列に細かな指示を伝え、藩士はそれに応えて動く。これは日頃の練兵の成果だった。


 残雪の乗った修之輔は、行列のしんがりに付いた。そうして羽代勢が到着した火事の火勢の中心近く、燃えているのは確かに武家屋敷だった。広い通りを挟んだ町方は既に建物が打ち壊されて類焼を防ぐ措置が終わっている。羽代がやるべきことは、この無人の武家屋敷の門を破って鎮火しながら隣の武家屋敷への延焼を防ぐことだった。


「せぇえの!」

 掛け声とともに外田らが丸太を担いで門を破壊する。既に内側からの熱波で脆くなっていた門が崩れ、直ちに羽代藩士たちは屋敷の中へと走り込んだ。


 おそらく打ち捨てられる前はどこかの藩主の趣味の邸宅として使われていたのだろう、優雅なつくりの御殿が今は炎に包まれていた。広く作られた庭と池が隣の武家屋敷への火の足を留めていたのが幸いした。


「隊を二つに分けよ。一つは庭の木々を全て倒せ。もう一つは運河より水を汲み火を鎮めながら御殿を破壊せよ」

 弘紀の指示に山崎が太鼓を鳴らす。


 どんどん、と何回か鳴らすと隊列は二つに分かれ、一つは加納が陣頭指揮をとって御殿へ向かい、もう一つは山崎の指示で庭の木々を引き倒しに向かった。江戸参勤中、馬廻り組頭の任に就いている修之輔は弘紀の護衛が任務だったが、いつもは見られない武家屋敷の中を見てみようと集まる野次馬が火消しの邪魔にならぬよう、残雪で牽制する任に追われていた。


 その野次馬の群集を掻き分けて前に出てくる姿があった。

「我ら庄内酒井様の市中見廻り組である。羽代御家中にお尋ねする。手助けは必要か、否か」

 この場にいるのは修之輔一人、そして今、ここを離れるわけにはいかない。燃える屋敷の中に向かって声を上げた。

「酒井様ご家中から手助けの有無についてご諮問が来ています」

 その声に最も鋭敏に反応したのは弘紀だった。

 燃える御殿に向けていた視線を外し、松風ごとこちらを振り返る。そしてそのまま修之輔の方へやってきた。


 夜空を染める赤い炎をその背に。白と見えた羽織は白銀の綾織りに、五色の糸の鳳凰が舞っている。端正に整うはっきりとした目鼻立ちはその羽織よりも、燃え盛る炎よりも華やかに、小柄に見えて姿勢正しいその姿は馬上にあって紛い物ではない気品を漂わせていた。

 火勢に煽られた風が吹いて、青海波の袴が波打つように、羽織の背から袖に掛かる五色の翼が羽ばたくように、揺らめいた。大小の刀の黒漆の鞘が不思議に青白い光を零しているのが見えた。それは、今修之輔が腰に差している物と揃いの刀だった。


 修之輔の隣まで松風を寄せた弘紀は、市中見廻り組から寄越された者に直接返答した。

「手助けは無用であると、酒井殿に伝えよ」

 黙礼する見廻り組をそのままにして、弘紀は直ぐに馬首を返し屋敷の中へ戻って行く。すれ違うその一瞬、修之輔は弘紀と目を見交わした。

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