第9話

 闇の中に微かな水音。けれど流れる音ではなく、雫が垂れて澱む音。広がる水輪の音すら聞こえそうな静寂の中、一滴。また一滴。

 水底に棲まう冷たい躰の生き物が、空気の泡と共に微か吐き出す呟き声が、闇の中に密やかに響く。


「小菊に黒河の月狼を見に行かせたが」

「はて、月狼か、狂狼か。正しいのはどちらの名前」

「変わる名前は意味を持たぬ。意味を持つのは変わらぬもの。変わらぬものこそ、ものの本質」

「何も残さず全てが変わってしまったら、何とする」

「それはそもそも本質すら持たぬただの泡沫であっただけのこと」

「あの狼は泡沫かのう。……古老殿はあれをどう見た」

「二色殿、何を今さら白々しい。あれが江都に来た時に、既におぬしは見に行っていたではないか」

「はて、儂は動かぬ、動けぬ」

「お主の使う御師の行状なれば、おぬしの目、耳であることに変わりはない。小菊が云うておったぞ、福徳稲荷の柳の下で浪笠に会ったと」

「これはこれは、古老殿の目は厳しいの」

 呵々と笑う声がする。

「羽代の主はあの日輪の巫女の血筋だろうに、彼の者に自覚はあるのか。月狼を従えてはおっても己の血筋には無頓着に見えた、と浪笠が」

 隠し事はできぬと開き直ったのか、それともそれすら気まぐれな戯れであったものか。二色と呼ばれた者の声音には、面白がる色がある。

「古老殿、なれば狼は。自らが巫女の守護者である自覚はあるのか」

「どちらも出自を忘れておる」

「いや、知らぬだけやもしれん。教えてやれば目覚めるか」

「教えてやったところで、どうにもならぬ。根は既に失われている」

「その根が失われていること、巫女も狼も、くろさぎも知らぬか」

「知らせてやらねばならぬのは、くろさぎこそ」

「己が根無し草だと、初めて知る彼の者こそ哀れかな」


 くぐもった音が規則的に繰り返される。それは闇の中からの泣き声にも笑い声にも聞こえる音の連なり。


 そして。その闇の中、一滴の水が垂れる音も、無くなった。

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