第8話

「恐れ入ります、上屋敷より知らせが参っております。加納様、少々ご確認のためにお時間を頂けないでしょうか」


 淀みない言葉は弘紀の口から発せられたものだった。

「失礼。何か急な事があったのかもしれません。少々座を外す無礼をお許しください」

 加納が座敷を立って次の間に入ってくるその間、相手方の目に付くこともあって弘紀と修之輔は平伏していた。だが加納が後ろ手に襖を締めると、弘紀は直ぐに体を起こして加納に顔を寄せ、小声で、しかし強い口調で云った

「この機会を逃してはならない。アームストロング砲を手に入れられるのだろう。一つは買いたい、できれば三門までは」

「弘紀様、恐れ入りますがこの提案、罠かも知れません」

「それでも相手が既に自分達が買っていることをこちらに明かしている以上、断れない話だということはわかるだろう」

 一つ目は言い値で、追加での注文の値段は交渉で買い取る意思があることを伝えるように、と弘紀は加納に指示した。加納は了承して座敷へと戻った。

「時間の遅れを気にしての確認だったようです」

「そうだな、夜も遅くなってきた。そろそろ戻る頃合いか」

 話を切り上げようとする松尾を加納が引き留めた。

「松尾殿、先程のお話ですが、余っているのならば試しに一つ買わせていただけないでしょうか。そちらの御家中と浅からぬ縁のあるお方ならば、ご紹介いただいたその後で、先方と直接数の相談をします」

「ふむ、引き受けられるか」

「はい」


 わかった、と頷く松尾の声音には、これで今夜の会談が終わりであるという意志があった。修之輔は廻廊に通じる次の間の襖をあけて、外で三味線を弾いていた芸者に合図を送る。心得ている芸者はそのまま店の者に宴席が終わったことを知らせる筈だ。

 その間にも松尾は加納に話を続ける。

「海の向こうのアメリカ国では、しばらく同胞同士の血で血を洗う大きな戦争があったのだが、このほど終結した。戦場に打ち捨てられたり、最早使われなくなった兵器が新たな所有者を探している」

「ペルリ提督の母国が擾乱の様相であったことは聞き及んでいますが、平定されましたか」

「南蛮とはよく言ったもの、建国をともに勝ち取り、昨日は隣人であった者と殺し合うとは。将軍が治め、帝のおわす日の下で、そのような争いはよもや起こるまい」

 修之輔の隣で弘紀が体を固くするのが分かった。同時に加納も返事を躊躇している。羽代上層部では松尾と異なる見解が共有されているようだった。

「なんでもアメリカ国内で信じる教えが違う、というのが争いの発端だとか。キリスト教にもいろいろと流派があるようだな。西本願寺と東本願寺の争いのようなものか」

 それは本当に返答を要さない類の独り言であったらしい。喋り過ぎた、と松尾は苦笑の気配を声音に滲ませる。

「酒井様に目を付けられているこの料亭で不用心な話でしたかな」

 そうは言ってもそれは口先ばかりで、松尾自身、さほど気にしている様子はない。加納は松尾の言葉を受けて会話の続きを促した。

「あの霞ヶ浦の禍根、酒井様の方には未だ残っているのでしょうか」

「酒井様ほどのお方ならば、例え根が残っていようとそれを表に出すことはしないだろう。育てに育てて一気に絞め殺しにくるのではないのか。徳川の大木が倒れても、あのカタバミの根を断つことはできぬだろうなあ」

 加納は、松尾のこの言葉にはあからさまな同意を示さなかった。これが西川ならば手を叩いて同調しただろうが、何一つ軽率なふるまいがあってはならない隠微な緊張が、この会談では常に漂っている。

 松尾は軽率に反応を示さない加納を試すように、更に別の商いの話を持ち出してきた。

「そちらとは今宵、話を進めることができた。どうだろうか、一つこの茶を海の外にも出してみないか」

「売れるでしょうか」

「南蛮人がこの繊細さを楽しめるかと云えば、否。けれど、我が国の茶葉に混ぜれば、また香味の違うものとして売ることができる。最初の内は試しで、何とも値はつけられぬがそれで良ければ如何かな」

 無料か、それに近い値段で羽代の茶葉を一定量よこせという要求を松尾はしてきた。

「我が主は、たとえ儲けがでなくても海の外との商いの端緒を見つけることを望んでおります」

「確か当主に就かれたばかり、御年十九であられたか。なかなかの英邁と聞いておる。我が主も、国守に任じられたのは十六歳の時。時流の読み切れぬこの時勢、若い方が思い切った決断をしやすいものかも知れぬ」

 加納が軽く顎を引く仕草で同意を示す。

「今宵、松尾殿にお試しいただいたその茶の独特の香味は、国許のいくつかの産地の茶葉を調合したものです。新茶が次の船で着くので、是非それも検分して貰いたいのですが」

 話の成り行きを次の間で聞いている弘紀の横顔から、緊張が伝わってくる。だが今夜の加納の対応はおおむね弘紀の指示通りだったらしく、焦燥や苛立ちはその面には出ていなかった。


 座敷の中に双方の従者が入ってきて帰り支度が始められた。護衛である修之輔と弘紀は、座敷にいる加納や江戸家老、そしてその従者らに先立って百川樓の外に出た。浮世小路の奥には運河の水面が揺れて、料亭の座敷から零れた灯りと笛三味線の音色がさざなみに乗って広がって行く。


「秋生、運河の近くに行ってみたい」

 無断で行こうとしないだけましだろう、弘紀に袖を引っ張られた。そして、自分の心の片隅、先程の弘紀と加納のやり取りが思い浮かぶ。

 いつもあれほど近くに、親しく、共に執務をしているのか。


 運河の水音。提灯の灯り。

 若い葉を充分に伸ばした柳の枝が五月の夜風に不規則に揺れていびつな影を作る。


 前を歩く弘紀の後ろを数歩と離れずについて歩いた。船を寄せる運河の小さな船着き場で弘紀が足を止める。

「船で来るのも楽しそうですね」

 そう云って微笑みながら振り返る弘紀の端正な顔立ち。凛々しく引かれた眉、濃く長い睫毛の影にある瞳は笑みを浮かべる瞼の下に半分隠れて。軽く閉じられた紅く柔らかな唇。

 質素な小袖袴に目立たぬ黒羽織だが、姿勢の良さ、何かを考える時、顎にあてる指のしなやかさ、細かな仕草一つ一つに気品がある。艶やかな髪。滑らかな頬。桜貝のような爪。


 弘紀が修之輔を見上げて、こちらの目線を求めるその気配に応えて目を合わせる。

 何かを測る様に弘紀がじっと修之輔の目を見つめ、その視線はやがてゆっくりと修之輔の姿をなぞっていく。目、鼻、口、顎、首、胸。さっき修之輔が弘紀の姿をなぞったように。


 水面に揺れる月の影。笛三味線の微かな音色。

 弘紀の目に映る自分の姿はどのようなものなのだろう。訊ねたくてその頬に触れようと手を伸ばし。その前に、弘紀の指が修之輔の頬に触れた。囁き声なのに耳にはっきりと聞こえてくる。

「貴方はとても、綺麗ですね」


 りん。


 不意に涼やかな鈴の音が響いた。

 福徳稲荷の鳥居の前に、瓦版売りの姿がある。料亭に集まる客を見込んでか。顔を隠すその深い笠は、本来禁制の瓦版を売る者の身元を隠すためのものである。調子のいい口上を述べながら、ほろ酔いで行き交う人々に瓦版を売っている。

「一枚、買ってみたい」

 弘紀がそう云って一度離していた修之輔の袖をまた掴んで、瓦版売りへと足を向ける。辺りに不穏な人影はなく、街角の隅には辻番の武士の姿が、百川楼の入り口には羽代の藩士も何人か待機している。

 弘紀の側から離れずに後ろをついて行きながら修之輔はふと思った。


 


 何気なく浮かんだ感想に、次の瞬間、修之輔は血の気が引く思いがした。

 自分の知覚は無意識のうちに、品川で見かけたあの瓦版売りと今目の前にいる瓦版売りが同一の人物であると認識していた。


「弘紀、待て」

 思わずその名を呼ぶと弘紀がこちらを振り向いて、その後ろ、瓦版売りの口が微かに笑みを浮かべたように見えた。弘紀の背からその肩を両手で掴み、この場から離れさせようとしたその前に。

「お若い方にはこちらがよろしいのでは。少々前の物ですので、今宵はただで差し上げましょう。またお目にかかれたその時は、どうぞ新しい物を買って下さいませ」

 云っている内容ではなくその声音、奇妙に人の気を引き寄せる口上に、二人してその場に思わず足を止められた。弘紀の視線はゆっくりと瓦版売りに戻されて、その手に一枚の瓦版が渡される。


 ――山間を流れる渓流に、とある神社の御神体が沈んでいるとの言い伝え有。祟りを恐れぬ剛毅の者が言い伝えの場所に潜ってみたところ、水底には何もなかったという。だがその者はその年の冬、深い雪に埋もれて死んでいるのが見つかった。近くの神社の神主は、月牙の剣は月狼とともにある、今後この淵に近付く必要は無し、そう周りに伝えたという。


 瓦版売りはその瓦版の内容を謳うように読み上げた後、地の声に戻って弘紀に恭しく話しかける。

「その月狼、今この江戸の地にやってきたとの最近の噂。武蔵国の御岳神社も秩父の三峯神社も身に覚えない、ただの野狼だろうと取り合わぬそうでございます」

「……月狼?」

 その言葉の内、気になる響きがあったのを聞き逃さなかった弘紀が怪訝な声で呟いた。

 

 また、りん、と澄んだ鈴の音。


 瓦版売りが辺りを見回す仕草をする。この様子ならば先程の音もこの男が出したものではなさそうだった。妙に心を惑わすその声音こわねに再び捉われないうちに、修之輔は弘紀の背を抱くようにして、この場を離れるよう促した。


 二、三歩進んで、ふいに細い道から人影が現れた。弘紀よりも小さな体。


 それはまだ十をいくつか越えたばかりと思われる少女だった。白い着物は狩衣にも似て、首元にのぞく半襟が血の様に紅い。

 大道を行く芸人が連れて歩いている子か、見世物小屋で働く子か。けれど肩の後ろで乱れず束ねられた黒髪は、そんな俗な仕事とは無縁の世界にこの少女が生きていることを思わせた。

 まるで稲荷のお使い、天界から下りて現世に現れた子ぎつねのような。


――綾織純白の狩衣装束は袴も白。中の小袖は鮮やかな緋色で、袖詰めの緒と袴の裾飾りも同じ緋の色。


 修之輔は、故郷黒河の佐宮司神社の祭礼で、かつて自分が身に着けた衣装を思い出した。


 りん。


 澄んだ鈴の音はその少女の手元から聞こえてきた。何を持っているのか。暗がりの中で確かめようとして、ふいっ、と少女は街角の小道に姿を隠した。


 不意に辺りの喧騒が戻ってきた。時間の感覚の喪失に気づき、慌てて後ろを振り向けば、百川樓の玄関口で会談の相手を見送った加納が自分の駕籠に乗り込もうとしているところだった。修之輔は狐につままれたような顔の弘紀の背を押すように、急いで百川樓へと戻った。


「秋生、気を付けろ。加納様がまたお前のことを睨んでいたぞ」

 百川楼の玄関について直ぐ、声を顰めた外田にそんな忠告を受けた。山崎も珍しく懸念の目線を加納と修之輔の交互に向けている。この二人がこれほど気にしているということは余程だろう。だが。

 それは弘紀に向けた視線だったのではないのか。

 苛立ち紛れに思わずそう返そうとして、修之輔は思いとどまった。


 加納の駕籠の前を行く修之輔は、自分の前に弘紀を引き寄せる。籠の中から向けられる加納の色素の薄いあの目から弘紀の姿を隠したかった。自分がいるところでは弘紀を見るな、と言いたかった。

 上屋敷への帰り道、弘紀は歩きながら手に持った瓦版をずっと見つめていた。


 その夜、修之輔の部屋に弘紀は来なかった。

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