第7話

 夕刻に、外田と山崎が上屋敷にやってきた。彼等もこれから行われる他国の家臣と羽代家老の加納との会談に随行するという。

「西川様じゃない、ということは、弁当は期待できないな」

 山崎が嘆息する。

「山崎、どうにか儂らも料亭の料理を食えるよう、融通を利かせろ。中屋敷に帰るまでに絶対腹が減る」

 そもそも上層部の護衛は剣の腕が認められての登用なのだが、外田も山崎も嬉しそうではない。


 本来、町中の料亭を使ったこういった形式の会談には同じ家老の西川が赴くのだが、今宵は加納が羽代の代表として出向くことになっている。ただ、当初の予定はやはり西川がこの任に当たっていた。

 今夜の会談は、羽代が相手側をもてなす形である。他の高名な料亭に格式はやや劣っていても日本橋の百川と云う料亭を選んだのはいかにも派手好みの西川の趣味である。しかし会談の内容の詳細が決まっていくうちに、この話し合いには加納がいいだろう、と当主である弘紀が判断したという。


 そんな内輪の話を山崎から聞きながら上屋敷の前庭で待機していると、加納が上屋敷の御殿玄関から前庭に下りてきた。弘紀を含む羽代の上層部で行っていた最終的な確認が終わったらしい。


 その加納の恰好に、外田と山崎が好奇の視線を向けた。

 加納はいつもよりも派手な金襴織りの羽織に、その頭には御高祖頭巾まで被っている。

「どういうことだろうな」

 黙っていられない性質の外田が、隣の山崎に小声で話しかける。

「あの堅物の加納様もとうとう江戸にかぶれたか」

 山崎の声音も、好奇心を隠し切れていない。他にも中屋敷から集められた者達と互いに目配せし合っているのは、今夜、中屋敷に持ち帰って皆に知らせるべき話のネタとして十分に大きい、というところだろう。


 出立の準備が整うと上屋敷用人の指示で一行は町中へと進み始めた。八名程度で構成されるこの道行の先頭は、加納家の紋が染められた提灯を持つ中間である。これは羽代の公務ではなく、外面的には加納の私的な外出であることを示すためのものだった。

 修之輔達のように護衛の任に就いている者は、直ぐに刀を抜けるように提灯などは持たない。挟み箱を担ぐ中間も灯りを持てず、だが、暮れはじめる江戸の町を行き交う人々の手には火の入った提灯が、店の軒先、牛の背からも灯りが揺れて、昼と見まがう明るさがある。

 灯りの外は朧な夕闇に互いの顔が霞みかけて、けれど商家から漏れる灯りが道を照らしてそぞろ歩きには丁度良い。


 途中、人が集まる一画があった。それは道端に店を開いている四文屋で、集まっているのは夕飯の惣菜を買い求めに来た町人達だった。

「講武所の帰り、時々ここで総菜を買って中屋敷に持ち帰っているんだ」

 町人だけでなく、外田のように江戸に家族を持たない独り身の武士もここに通っているらしい。

「染み豆腐と椎茸の煮つけが旨いと皆に人気だ、なあ、山崎」

 話を振られた山崎が外田に同調する。

「豆の煮物も人気だな。築地の方は蛸も出す」


 そんな外田と山崎が交わす小声を聞くともなしに聞いていると、修之輔の後ろからひょい、と顔を出した人影があった。

 小柄な背丈に頭上で結わえたひと房の髪。

 上屋敷で加納の会談の結果を待っている筈の弘紀だった。


「弘紀どうして」

 ここにいる、という修之輔の言葉を遮って弘紀が何でもない口調で言葉を被せてきた。

「会談の内容を私も直接聴きたいのです。私がこっそりついていくことを加納は知っています」

 云っている内容は、仕事に真摯である故の行動だとの言い訳に聞こえるが、だからといって身分を隠してついてくるその振る舞いや、四文屋の惣菜に釘付けの視線が言葉の信憑性を削いでいる。弘紀は楽しそうに町の様子を眺めながら、

「今宵の加納のあの出で立ちは、私の姿を目立たせないための変装なのです」

 そう修之輔に教えて寄越した。そして大きくはなかった声をさらに低めた。

「実は、直前で少々話し合いが揉めたのです」

 結論が出ないまま会談の時間が迫り、上屋敷御殿で行われていたその会議は膠着するかと思われた。いっそのこと自分が会談について行きたい、とそこで弘紀が強情に言い張って、他の大名が気軽な護衛で遊びに出ることを知っている江戸勤番の家老が、ならば身分を悟られぬよう変装を、と進言したという。

「それでこの格好をしてみたところ、日頃私の姿を見馴れている者達なのでどうも変装が充分ではない、などと言い出して」

 結局加納にも、まるで地方の小大名のような格好をさせることにしたという。

 外田や山崎のような下士たちだけでなく、家老などの上層部を含めた羽代家中もまた、どこか呑気な性質を備えているようで、まるで緊張感のない話だった。 

 それよりも加納が弘紀のこの姿を知っている、ということに修之輔は謂われないとは思っていてもまた軽い苛立ちを覚えた。


 弘紀とは小声で話していたのだが、やはり気配に気づいたらしく、前を行く外田と山崎がこちらを振り返った。山崎がちょっと肩を上げて弘紀を見る。

「おや、弘太。今日はこれで二度目だな」

「弘太、お前も来たのか。残念だな、加納様は土産を下さらないぞ」

 外田も弘紀に気楽に話し掛け、弘紀もそれに自然に答える。

「つまみ食いもできませんか」

「毒見ならさせられるかもな」

 山崎が笑いながら弘紀を脅す。

「一口二口しか食えんなら、なにも食えないほうがいい」

「いや儂は一口でもいいから江戸一流の料亭の料理とやらを食ってみたい」

「評判みたいですよね、百川の料理は」

 弘紀の身分に疑問を持たない外田と山崎は雑談を始めた。だがすぐに同行している用人に睨まれて、弘紀を含んだその三人はようやく口を閉じた。


 家路を急ぐ町人とこれから盛り場に繰り出す粋人が行き交って、昼より賑やかな日本橋、今宵会談が行われる百川と云う料亭はその日本橋を渡って室町通を貫く大通りから、小道を折れたその先にある。


 浮世小路うきよしょうじと呼ばれる小路を挟む建物には、軒先にいくつも提灯が下げられている。その明るさの切れた先、突き当りには運河の先端が伸びてきていて、客は船で百川の玄関口にやってくることができる。

 風に揺れる柳の枝の合間から、店の灯りに照らされて赤い鳥居が見え隠れしていた。鳥居の奥は福徳稲荷と呼ばれる神社である。百川の客は身分を問わず、稲荷に参詣してから店に上がるしきたりだ、ということだった。

 加納を先頭にして、羽代の一同は福徳稲荷神社での参拝を済ませ、玄関先まで案内する番頭の後ろから百川の中へと入った。


 料亭百川の玄関口は半間しかなく、杉板の壁でぐるりを囲って中が覗けないようになっている。半間の入り口も暖簾が垂れ下がり、入る人の姿を往来から隠している。

 店に入る前は外田や山崎の顔には半信半疑の色が隠せず、だが、暖簾をくぐって細い通路を抜けた先には、全く別の世界が広がっていた。


 建物の中に吹き抜けの中庭が作られており、鉢植えの樹木がいくつも運び込まれていて季節の花を咲かせている。まるで屋外の庭園を思わせるその庭を、一階と二階それぞれの廻廊がぐるりと囲む。正面から左右二手に分かれて緩やかな螺旋を描いて上っていく階段が二階の回廊へと上がる階段で、床、欄干全てが漆塗り、艶やかな漆はいくつも灯された明かりを映して、足元からも客を照らす。

 運河から水を引いているのか、中庭には小川が設えてあり、庭石を模したいくつかの敷石が敷き詰められていた。そしてどんなからくりか、加納が回廊を歩き始めると小川の片隅から水が一筋、上に向かって吹き上がった。階段の踊り場から手を伸ばせばその噴水に手が届くのだろう。


 だが加納は一瞥しただけで興味を示さず、かわりに修之輔の横にいる弘紀がうずうずしている様子が見なくても伝わってきた。店の主人として張り合いがあるのは、きっと弘紀のような客だろう。

 修之輔が弘紀の小柄な姿を少しの間だけ自分の背で周りの視線から隠してやると、その一瞬を逃さずに弘紀はすかさず噴水に手を伸ばした。

「冷たい」

 そうなることは分かっていて、袂から出した手拭を弘紀に渡す。弘紀がその手拭で濡れた手を拭き終わる前に、二階のいちばん奥まった部屋へと羽代の一行は案内された。


 その部屋は広い座敷で、障子を開けはなった向こうには先程の福徳稲荷の鳥居が眼下に見える。運河を行き交う船の灯りも見えて、ここから江都の景色を眺めながら料理も楽しむ趣向だろう。

 だがその景色も一瞬の事、修之輔達護衛の任に就いている者は次の間に移動して、そこで会談の成り行きを見守ることになった。あたりまえだが今夜は弘紀も座敷ではなく次の間にいて、襖の向こうを注視している。


 料亭入口に中間が、外田と山崎は次の間から出されて座敷入口に配置された。残るように、と弘紀に目線で促された修之輔は、そのまま次の間に留まった。三畳ほどの狭い部屋だが、襖の向こうにも人が出入りする気配がある。


「貴方はここで詰めていて下さい。私は会談の様子をここで聞いています」

 弘紀がそう云って次の間の座敷に面した襖を少し開けた。座敷から漏れてくる華やかな灯りが光の乏しい次の間に細く入ってくる。

 弘紀の肩越しに座敷の様子を覗くと、花鳥の掛け軸が掛けられた床の間と上座を空けて座っている加納の姿が見えた。

 今日、この料亭百川に相手を招待したのは羽代の方だと聞いている。さほど待つほどもなく相手方の一行も到着したらしく、百川店主が加納と相手方、双方と挨拶を交わす声が聞こえてきた。


 直ぐに酒と料理が運び込まれて給仕の女性が侍り、三味線や唄の音曲奏でられる中での食事が始まった。

 弘紀と修之輔が控える次の間にも大皿で芋の煮物や鱸の煮つけなどの料理が運び込まれた。加納たちの主客に出されている料理に比べると格段に簡素だが、味付けはさすがに人気料亭のそれで申し分がない。修之輔が料理を小皿に取り分けて弘紀に渡すと、弘紀は座敷から目を離さずに、それでも黙々と食べ始めた。座敷では、焼かれた尾頭付きの鯛が膳に載せられ供されている。

「だいたいこういうところでは鯛が出てくるのですが、江戸に来てからは鯛ばかり出されて、私は少し飽きているのです。こっちの煮付けの方がおいしいですね」

 ものすごく真面目な顔の弘紀が、今自分が食べている物の感想をいう。

「加納たちの次の膳には蒸し鮃が出ますが、私は造りのほうが好きです」

 事前に百川から知らされていた本日の膳の献立を、弘紀は憶えてきているようだった。


 二の膳が終わると酒が供される。

 今夜、加納の会談の相手は西にある藩の江戸家老としか伝えられていない。漏れ聞く限り、松尾と云う名で呼ばれていた。ここまでの会話もこの頃江戸で流行っていることなど当たり障りのないもので、時折、松尾は使われている器を手に取り眺めていたりしている。

 弘紀は次の間に運ばれてくる料理をぱくぱくと食べ続けて、切子の刻まれたガラスの小鉢に少々関心を示したものの、盛られた鯛豆腐は一口で食べた。

「美味しいけど少ない」

 高価な食材を次の間に控える従者にも供する百川の気風の良さだが、これでは形無しである。


 三の膳がひと段落すると、座敷には茶が運ばれてきた。

「あれは羽代の茶葉で淹れた煎茶です」

 弘紀が修之輔に教えて寄越す。こちらに出されたのは大振りの土瓶に入った焙じ茶だった。座敷には羽代の茶を出すよう、羽代側から前もって料亭の主人に指示をしていたのだろう。

 会談の本題はここからで、加納の合図で座に侍っていた給仕の女人や芸妓が座敷の外へと退出した。これまでとは打って変わって静かになった座敷の入り口に、年増だが充分に美しい三味線弾きが一人残って細く音曲を奏でている。密談の内容を外に漏らさないための粋な計らいだが、近くで見張りをしている外田や山崎の耳も慰められるに違いない。


 月の光が落ちてくる中庭の優雅な風情とは裏腹に、座敷の中の空気は次第に張り詰める。

 最初に口を開いたのは茶を一口飲んだ松尾だった。

「これは面白いものを。この茶は薫りが繊細ですな、まるで桜の花の様だ」

 その感想は茶葉の観賞に馴れた者の言葉だった。

「我が国許でも茶を作って売っておりましたが、如何せん、京も大阪も、まして江戸など遠くて遠くて」

「それでも松尾殿のお国では茶を作り続けていると聞いております」

 加納が感情の無い声音で応える声が聞こえてきた。

「買い手は他にもおりますからな。ご存じでしょう」

「……海を渡る商いは実入りが多いとは聞いております」

 松尾の国許は幕府が禁じている海外との貿易を行っている、加納とのやり取りはそれを暗示していた。そして双方がそれを暗黙のうちに了解としていることを前提として、話は続けられていく。


「我が藩の茶葉の商い、買い手を海を渡ることができる大きな船を持つ相手一本に絞りたいのだが、そうは問屋が卸さない」

「何か問題がおありでしょうか」

「これまで商ってきた物が手に入らないのは困ると、それこそ問屋が文句を言っておりましてな。けれどその問屋に任せれば、我らの茶葉はいいように買いたたかれて酷い安値で売られます」

「なるほど、そちらでは陸の商いに茶葉を割けば割くほど儲けが減って行くことになりますか」

「左様左様。けれどその問屋、我らが商いを始めた頃からのよしみで色々とこちらの内情を知っている。お上に訴えられて叩かれれば埃が出ないわけではない。それでちょっとした口封じ、我らの代わりに小口に卸してくれるところを探している、と、まあこんなところだ」

「商いを始めたばかりの我らの藩にとって、小口のおろしが精一杯ではあります」

 加納の生真面目で簡潔な答えに、相手は満足そうに頷いている。

「我らの代わりにそちらが請け負ってもらうのならば助かる。しかし、どうやって物を運ぶ」

「我らの国は船を持っておりますので如何様にも。茶葉だけでなく他の荷も請け負うことができます。領地には東海道のちょうど真ん中にある宿場があります。西から東への下りものも、東から西への上りも同じでございます」

「ふむ、他の物も運べるか」

「ええ、そちらのお国元で作られている鉄で作られた重い物も運べます」


 茶の残る汲出しをもてあそぶように眺めていた松尾は、そこで加納の顔を横目で見た。

「加納殿、そちらが今回この宴席を開いた目的ですかな」

「いえ、ただ今回は我が国の茶葉の行方が定まれば良いとの思いです」

「重い鉄はまた別の機会に、ということだろうか」

「そう云いたいところですが、我が主の江戸参勤はあと六十日と少しを残すばかり。あまりのんびりともしていられません」

「では今日この話を持ち帰り、明日にでも我が家中で話をしておこう」

 よろしくお願いいたします、と加納が頭を軽く下げた。


 これで会談は終わりかと思ったが、松尾は席を立とうとしない。

「それで、と」

 何かを考える体で天井を見上げながら、これまでとはやや異なる声音で話を続ける。

「独り言と思われれば、聞き流していただきたいのだが、我が藩と少々内密に話を通じているところがありましてな」

「はい、顔の広い事と存じております」

「ま、ま、どことは言わぬが。我らの得意先でもあるのだが、彼の藩は今、幕府とうまくいっていない」

 加納が頷く気配があった。

「そちらが最近、異国から大砲、アームストロング砲を買い過ぎた、と嘆いておりましてな。古くからのよしみですので、こちらとしてもいくつかを買って差し上げたのだが、全てを買えるほど安い品物ではない」

 即答せずに一呼吸置く気配に、加納はこの話を断ろうとするように思えた。


 とん、と急に弘紀が次の間の畳を軽く叩いた。 

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