第6話 

 弘紀が中屋敷の中にいても皆に馴染んで違和感がないのは、服装のせいだけではない。

 弘紀の母であるたまき姫は、修之輔と同じく黒河が出自であったが、羽代の当主の息子として生まれ、羽代で育った弘紀にとって、中屋敷に詰めている藩士は同郷なのだから、そもそも浮きようがないのだ。未だ羽代の江戸勤番の者から誰何の視線で見られる修之輔は、軽い足取りで前を歩く弘紀の背を見ながらそんなことを思った。


 中屋敷の奥詰まりは運河に面した荷上場になっている。ここに来るのは初めてだという弘紀は、興味深そうに辺りの様子を見回した。

 江城の堀も運河に繋がっているところがあり、海から運ばれてきた荷物をそのままや域内へと運び込むことができるのだが、いくつかの藩邸もまた運河に面していて、将軍様のお膝元とはいえ、密かな物資のやり取りの抜け道はいくらでもある。


 運河に大小さまざまな船が行き交っているその中に、座敷船が出ているのを弘紀が見つけた。

「あれ、いいですね。川は海とは違ってあんな船でも行き来できるのがいい」

 座敷船には軒先に小ぶりの提灯がいくつか下がっていて、昨夜の宴席の名残を思わせる。朝一番に河岸に荷を下ろして来たのか、煙管を加えた船頭一人が操るだけ、空荷の高瀬舟の向こうには、馬を運んでいる船もあった。

「牛を載せてる船がいないけれど、重いのかな」

 弘紀は一つ一つの船がどんな形で、どんな荷を運んでいるのか、興味津々で見つめている。

 昼が近づいて、日の強さが増すほどに地面に落ちる影の色は濃く、川面に光る日の光は強くなっていく。

 しばらく運河の景色を眺めていると、弘紀が長屋塀の二階からも景色を見てみたいと言い出した。


 運河に面した長屋塀の一階は住居ではなく倉庫になっている。屋根の低い二階は荷物を改めたり記録を付けたりするところだったので、畳敷きの座敷がいくつか設えられていた。だが荷の揚げ降ろしが頻繁になってきたこの頃は、まとめて母屋で事務処理を行っているのでほとんど人気ひとけがない。山崎による練兵訓練があるから中庭に人が集められているせいもあるだろう。


 弘紀と修之輔はその運河に面した長屋塀の二階に上がり込んだ。

 使われていないから、といって、全く放置されているわけではなく、定期的に手入れがされているようで、障子襖の破れも廊下の埃も見当たらない。ただ灯りに使える道具がないので夜は真っ暗になるのだろう。それも江戸の名物である花火を見るためには都合が良いのかもしれない。


 弘紀は躊躇なく座敷の一つに入って行って、格子の入った窓の戸板を外し、そこから運河を見下ろした。修之輔も弘紀の後ろ数歩下がった辺りに腰をおろし、弘紀の肩越しに風景を眺めた。

 櫂が水を掻く音に、船上で商いをする物売りの声が聞こえてくる。運河を渡る微かな風が座敷の中にも入ってきた。弘紀がおもむろに立ち上がり座敷の真中まで歩いてきて、どうするのかと思えばその場に寝転がった。そして仰向けになったそのまま、実に気持ちよさそうに伸びをした。

「秋生も一緒に」

 手の平で軽く畳を叩いて、弘紀が催促してくる。

 最近は二人で居る時も修之輔を秋生という名字で呼ぶことが多くなってきた。黒曜の目に甘える色はあっても、その面差しはすでに成年の輪郭である。

 黒河にいた時はまだ頬に柔らかな線が残っていた。ここ二、三年、弘紀の身の上に起きた変化を思えば、大人びるのも人一倍だろう。けれどまだ時折、子どもっぽい仕草をすることがあって、でもそれを見せるのは自分だけだろうと修之輔は心の内どこか温かいような、くすぐったいような感覚を覚える。

 弘紀の催促に応じて、刀を帯から外して畳の上に置き、その横に弘紀と同じように仰向けに寝転がってみた。ひんやりとした畳の藺草が手の平に触れる。


 中天近い太陽は格子窓から差し込むことなく、代わりに水面に反射した光が部屋の中へ入ってきて、天井に様々に形を変える光の輪を描き出す。


 二人してそうして仰向けに寝転がり、天井に映る運河の水輪を映した光の揺らめきを眺めていると、まるで水の底にいるように体が揺蕩たゆたう心地がした。

 ちゃぷちゃぷとみぎわに寄せる波の音。

 とぷん、と生き物が水に潜る音。尾鰭を持った魚か、羽毛をはやしたばんか。


「……吉原に行って見たい気もするのです」

 弘紀が唐突にぼそりとそんなことを言った。

「吉原にか。行ってどうするんだ」

 吉原で女郎を買うという行為と弘紀が結びつかなくて、変な質問になった。訊いてからそう思ったのだが、弘紀は気にしていない。

「他藩の奥方や女中などの女人も、流行りの着物の柄や髪形を見に足を向けていたそうです。今はどうなんでしょうか」

 どうやら弘紀は吉原についても情報を集めていたようで、気になっているというのは今、思い付きで言ったことではないらしい。

「気になるのなら、一度俺が吉原に行ってどの程度の警備が必要なのか確認してこよう」

 言い終わる前、いきなり弘紀に腿のあたりを蹴飛ばされた。

 蹴飛ばされた、とはいっても、弘紀のつま先が叩いたくらいではあったのだが、何だ、と修之輔が上半身を起こして弘紀の顔を覗き込むと、その目をふいっと逸らされた。

「いいのです、貴方が吉原になど行かなくても」

 吉原に行ってみたい、という弘紀の望みを叶えるための提案だったのに、不貞腐れる弘紀の頬を宥めるようにそっと撫でると、その手に弘紀の指が絡んできた。


「吉原の件は置いて於くにしても、江城の城下では本来警護は最小限でいいのです」

 修之輔が弘紀が外出する際の警護について煩く云ったせいだろうか、弘紀が持ち出したのはそんな話題だった。大名であるなら、私的な外出であっても奉行所や市中見廻り組に前もって知らせておけば目的地付近の警備に人を割いてくれるという。

「吉原も、ほんとにほんとの御忍おしのびならば、見て帰るだけ、というのもできるのでしょうが、吉原の番所に届け出を出してから行くとなると、あちらも相応の準備をしてしまいますよね」

 絡めた指に唇を寄せて話すので修之輔の指先に弘紀の息がかかり、時折唇も触れてくすぐったい。

「江戸市中で派手な襲撃など起きない、という前提の習慣なのですが、昨今はそうもいかなそうです」

 最も自国の領地内で襲われた私が云えることではないですね、と苦笑交じりに弘紀が漏らす。

「江戸はともかく、上方はそうでもないのだろう」

 弘紀に取っては苦い思い出になるその出来事から話題を少し逸らそうとした質問だったが、弘紀からは、そうみたいですね、とあまり気のない返事が返ってきた。

 以前、幕府よりも上方に与する者達の話を聞いてみたと言っていたから、それなりに興味を持っているのではと思ったのだが。弘紀の思うところに何か変節があったようだった。

「上方、というより西の強藩が指揮を執っていて、思想云々より、これは大規模な謀反という側面も見えてきたのです」

 京の都では夜な夜な武士浪士同士の切り合いがあって、血なまぐさいことになっているのだという。

「自分とは意見が違う者の命を奪うことで自分の意見を通そうとする。それは世の中を変える手段としては何か違う気がするのです」

 けれど。

 弘紀が口を噤む。今、多くの国が自国の軍備増強を急いでいるという。浪人一人二人が同じ様な者達と相打ちするならともかくも、国同士が殺し合いを、戦を始めたらどうなるのか。茶葉の専売の問題など、どこかに吹き飛んでしまうだろう。

 政務の場を離れても、常に藩の運営の事が弘紀の思考の片隅にあって、ほんの些細なことが切っ掛けで弘紀は考え込んでしまう。修之輔と二人でいても。

 いつもだったら、そんな弘紀を見守ることに自分の任務と個人的な感情の充足を覚えるのだが。


 修之輔は自分の指に絡んだ弘紀の指ごと手を握り締めた。そしてそのまま弘紀の体を引き寄せると、不意の動作に弘紀が修之輔の顔を見上げてきた。今は自分しか映っていない黒曜の瞳。

 互いに横になったまま、肩口に顔を寄せ、頬を触れあう。弘紀の背をゆっくりと、ある意思をもって何度か撫で上げると、弘紀の唇が耳朶に触れた。

「今夜、貴方のところに行こうと思っていました」

 その声音に含まれる密やかな笑み。一度身を離して間近に見つめ合い、そして互いの唇を深く重ねた。弘紀の喉の奥から漏れた小さな音は、修之輔に触れられることを悦ぶ声だった。

 

 差し入れた舌を絡ませながらその腰を引き寄せると、弘紀の腕が背に回されて抱き締められた。空いた手で弘紀の袴の股立ちからその中へ手を差し入れる。脚の付け根のそこに触れても、弘紀は嫌がらなかった。下帯の上から柔らかく掴んだそれをゆっくりと揉むように愛撫する。耳元にかかる弘紀の息が早く、甘やかに喘ぐ声も混じり始めてくる。

 その下帯を外そうと、一度手を股立ちから抜こうとして弘紀に腕を掴まれた。

「……や、止めないで。もっと、触って」

「直接触ったほうが気持ちよくなれるだろう」

 だから下帯を外してから、と弘紀を宥め、腰を浮かすよう促すと弘紀は素直に従った。弘紀の袴帯を解いて、袴を脱がせる。弘紀が自ら開いた両足の間に体を入れ、首筋に口づけしながら下帯の端を探って指で掴んで。


 どん、どん、どどん

 

 急に表から大きな太鼓の音が聞こえてきた。続いて、ぱーん、ぱぱーん、とこちらはラッパの音が高らかに吹き鳴らされる。山崎の練兵訓練が始まったようだった。


「……あの訓練は上手くいっているようですね」

 上半身を起こす弘紀に倣って、修之輔も起き上がると、弘紀がこちらを見て軽く笑んだ。弘紀は、やっぱり夜までお預けですね、と云う。

「夕方、また貴方に護衛の任が伝えられます」

 弘紀の気分の切り替えは、いつも早い。軽く息を吐いて、修之輔は弘紀に訊いた。

「今度は誰が、何処に行くときの護衛を務めることに」

「今日の夕方、加納が他の藩の者と少々難しい会談を日本橋の料亭で行うのです。加納の護衛を、お願いします」

 自分の身仕舞いを修之輔の手に任せたまま、そう答えた弘紀はにっこりと、いつもの華やかな笑みを向けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る