第5話

 運河沿いにある羽代藩中屋敷には、荷船が度々着く。荷を積む船には弘紀が手に入れた藩の船の他、運送を担う商人の船もある。

 そして羽代の国許から江戸への急ぎの知らせは、陸よりも海路の方が早く着く。急ぎの知らせでなくても、川越え山越えのある道中の難儀を思えば、茶葉と共に船で運ばれる方が便宜が良い。


 羽代が販売に力を入れている茶葉は、他にもいくつかの藩が専売品にしており、最大の消費地とはいっても江戸で羽代の茶を売るための流通経路の確立は卑近の問題である。前に弘紀が語った問屋仲間への介入もそうだが、商品としての特色の明確化が必要になっている。

 一方で、羽代藩札が不自然に江戸へ流入していることについても、解決の糸口は見つかっていないという。茶箱に藩札が数枚、紛れ込んでいるのが見つかったことが発端だったが、同様の茶箱を中屋敷から直接運び込んで麹町の茶屋で客に供している加ヶ里は、未だその藩札の入った茶箱には当たっていないらしい。手口が変わったのか、それとも一時的なものだったのかも判断がつかないということだった。


 その羽代の藩札は海上に翼を広げる鳳凰と、その後ろに日輪が配された縁起の良い図柄が大きく印刷されている。細かな模様が複雑に刷られているだけでなく、赤、藍、そして黄色を使った色刷りでもある。この色刷りの色の組み合わせは細かに定められており、羽代城からの指示で変化する。これだけの手間をかけるのには理由があった。

「荷札の偽造があったので、藩札にはそのような事が無いように対策をしてみたのです」

 寅丸が羽代城の荷札を偽造していたことを、修之輔は既に弘紀から聞いていた。そうして連想されるのは、寅丸の姿を高輪で見たという山崎の話だった。あの話はどうなったのだろうか。


――幾つかの出来事は連なっていて、けれどそれぞれが独自に起きた事件でもある。


 確かそんなことを弘紀が云っていた事を思い出しながら、修之輔は自分の手の中の藩札を眺めてみた。藩札に描かれている鳳凰は青海波の紋様に広げた翼の羽一枚一枚が精細に描かれている。この藩札は弘紀が修之輔の部屋に持ってきてそのままにしている物の一つだった。


 弘紀は修之輔の部屋に通うようになってから、色々な物を御殿から持ち込むようになった。楠が近いから虫が寄らず、書籍などの紙の保管にちょうどいいという。

 弘紀が訪れるのは毎日ではないが、二日と空けることはない。弘紀が来ない夜は、修之輔は課されている報告書と自分の日記を書いた後、弘紀が持ち込んだ物を眺めてみたりする。


 今夜、弘紀は訪れず、草花の描かれた手持ち燈籠は火が入らないまま框にひっそりと置かれている。手に取った羽代の藩札は文机の脇の灯りをうけて、鳳凰の羽が微かに羽ばたいたように見えた。


 鳴らない木戸の音に弘紀の肩に掛かる責任の重さを思う。楠の葉が鳴る音。微かな香り。


 最初、羽代にいる時よりも弘紀と過ごす時間が多いことを喜んだが、馴れればもっと、と欲が出る。起きていればいるだけ自分の限りない欲求が募る気がして、弘紀が訪れない夜は早めに休むようになっていた。


 朝、今朝もまた松風を馬追に出そうとうまやで支度をしていると、御殿の玄関から走り寄ってくる人影があった。確かめなくても直ぐに、昨夜は逢えなかった弘紀だと気づいたのだが、服装がおかしい。先日、山王参りに行った時の質素な小袖に袴の姿で、しかも襷がけをしている。

「中屋敷の様子を見たいのです」

 案の定、眠気の欠片も見せない元気いっぱいの顔で修之輔を見上げた弘紀がそんなことを言い出した。

「駄目だ。外に出るのはちゃんと警護の者を揃えてからでなければ」

「朝早いから、大丈夫です。警護なら貴方がいるではないですか」

「この間の山王参りの人数でも全く足りなかったではないか」

 連れて行け、いや駄目だ、と押し問答を繰り返していると、騒ぎに気付いて厩の中から出てきた中間がこちらに声を掛けてきた。

「差し出がましいことを申し上げます。そちらのお若い方、上屋敷にお勤めのようですが表で姿を見たことがありません。ずっと奥に詰めて働いておられるのではないでしょうか。秋生様、少しばかり中屋敷にお連れして差し上げても宜しいのでは」

 中間の認識はほとんど間違っていない。ただ弘紀の役目はこの中間が思っているようなものではなく、藩主その人である。その勘違いをいい事に、弘紀は味方を得たとばかり、中間の言葉に大きく、何回も、頷いている。

「松風と一緒だから大丈夫です。行く先は中屋敷だし、寄り道はしません」

 先日一緒に山王参りに行った外田と山崎よりも弘紀は馬の松風の方を信頼している、そんな言い様になることを本人は気付いているのだろうか。小言を口には出さないまま修之輔が弘紀から目線を外して松風を見ると、松風は普段、耳だけで人の気配を探るのに、弘紀のことを目でもしっかり追ってその様子を見ていた。


――弘紀様と松風が揃うとやっかいだ。

 今は羽代で当主の留守を守る田崎の言葉を思い出した。

 弘紀のことをはとりあえず置いて、修之輔は松風に鞍を掛けた。その間も松風は弘紀の姿をじっと見ている。

「修之輔様」

 あからさまに甘える弘紀の声音だが、こればかりは譲れない。

「駄目だ。御殿の中に戻れ」

 変わらない修之輔の態度に、弘紀が少し眉を上げた。そして涼しい顔で一言、

「松風」

 と馬の名を呼んだ。その声音は強く明瞭で、松風が瞬時に反応して首を上げ、耳を向けるだけでなく正面から弘紀を見た。

「動くな」

 弘紀が松風の馬銜を左右から手で掴みながら強い口調で命じた。

「松風は私の命令をきくのです」

 そう得意げにいう弘紀の言葉通り、弘紀の命令を受けた松風は、修之輔がいくら引き綱を牽いても動こうとしなくなった。前に牽いても後ろに牽いても動かない。どころか、顔を左右に振りながら首を上下に激しく動かす仕草を見せた。これは松風の機嫌が悪い時の仕草だった。

 馬も馬なら主人も主人で、どちらも人のいうことを聞こうとしない。次第に今日の務めに参上した上屋敷用人の姿も辺りに見え始めてきた。

 修之輔は仕方なく弘紀を中屋敷へ連れて行くことにした。だがやはり自分一人では何かあった時に助けを呼ぶことができない。その場に留まって事の成り行きを眺めていた中間に、馬場まで同行するよう頼むと、今のところ急ぎの仕事はないからと快諾してくれた。


「この町で主に売られているのは木材か」

 松風を右から牽く弘紀が中間にそんなことを訊ねたのは、上屋敷を出て町に入った頃だった。修之輔は松風の左を牽いて、辺りの様子に気を配りながら足を進めている。中間には弘紀の側に着くように命じてあった。

「はい。もっともここいらの木材は木場の方から運ばれたもので、ええ、是非一度、江戸におられる間にあの木場の景色はごらんになるべきですよ」

「珍しいのか」

「珍しいというより、面白いですね。木場の連中は運河に浮かべた丸太の上をひょいひょいと飛び移りながら仕事をしていますから、あの器用さは見ものです」

「それは見てみたいな」

 弘紀は中屋敷への道すがら、江戸の町の事を中間に訊ね続けた。中間の語り口も調子良く、弘紀の楽しそうな声が松風の向こうから聞こえてくる。中間がおらず、修之輔と弘紀が二人だけだったなら、そうして弘紀と話していたは自分だったと、また自分勝手な小さい嫉妬が表に出かけて、けれどやはり護衛には人数が必要だと思い直した。


 采女馬場に着き、修之輔が中間に駄賃を渡して戻って良い、というと、手を振って断られた。

「こんなの仕事の内に入りません。いえ、仕事の内ですから駄賃を別に頂く必要はございません。お二人ともお戻りは昼頃でしょうか」

 それでいいのだろうかと修之輔が躊躇していると、逡巡の様子を微塵にも見せない弘紀が先に返事をした。

「昼までには二人とも戻る。御苦労だった」

 弘紀の態度は当主としては妥当なのだが、服装がその身分を隠している。中間はどこか面白がる顔を隠さないまま弘紀に大仰に一礼して、上屋敷へと戻って行った。 


 朝早い馬場に通う者達の顔はだいたい互いに覚えがある。特に見慣れない顔がないことを確認してから、修之輔は弘紀と共に松風を連れて馬場に入った。

「今日は弘紀が松風を追えばいい」

そう云って手綱を預けると、弘紀は身軽に鞍に上がった。心なしか松風が前脚を折って身をかがめるような仕草をしていて、上屋敷を出る時の事と云い、やはり松風は人を見て態度を変えているようだった。それだけ賢いということだろうが、その分他人が扱いづらくなる。

 そんなやっかいな感想は、けれど弘紀を乗せて走る松風の姿を見てどこかへと消えていった。

 人馬一体という言葉そのままに弘紀は実に自在に松風を操った。早足から駆け足に、軽快に走っていても弘紀が手綱を軽く引くだけで松風は足を止める。馬場にいる他の者達も弘紀の馬術を感心して眺めたり、いつもは素通りする町人も木戸賃の要らない見世物と会って土塁の後ろから覗き込んでいくる。

 弘紀はそのうち手綱も離し、松風の腹を足で締める加減で、走る向きや速さを操り始めた。修之輔の前に戻ってきた弘紀が軽く息を弾ませながら云う。

「弓があれば、松風の上から射るのですが」

「ここで騎射は許されていない筈だ。落馬しないよう、ちゃんと手綱を持て」

「今度、下屋敷に行ったら弓もやってみましょう」

 弘紀は修之輔の言葉を聞いているのかいないのか、上気した頬をそのまま、また馬場の真中へと松風を走らせた。そしてそこで手綱を気持ち、下へ向けて引くと、松風は後足だけで立ち上がった。前肢で空を掻くような動作の後、四足立ちに戻り、向きを変えてまた後足だけで立ち上がる。弘紀に集まる周囲の視線も気になったので、修之輔は彼らの側に近寄った。

「弘紀、松風に無理をさせているのではないのか」

「そういうわけではないのです。馬喰ばくろうに聞くと、野馬を産する土地では牡馬おすうまはこうして他の馬と喧嘩をするそうです。母馬が狼から仔馬を守るときも、やはり前足でこうして蹴り飛ばすそうですし」

 馬の習性としてそのような行動があることは分かったが、弘紀が頻繁にこんなことをさせているから松風の気性は野馬の様にいつまでも荒いままなのではないのだろうか。馬場の周囲を駆け巡りながら、隙を見て他の馬に絡もうとする松風の姿に修之輔はそんなことを思った。


 十分すぎるほどの馬追いを終えて弘紀と共に松風を牽き中屋敷に入ると、少し前までは昼近くまで寝ていた藩士たちが起き始めていた。顔見知りに様子を聞いてみれば、今日これから山崎による練兵訓練があるらしい。やることがないよりもやることがある方が張り合いがあるらしく、既に中庭の端で竹刀や木刀の素振りをしている者の姿もあった。


 修之輔は馬廻り組に配属されていることもあり、徒歩兵が中心となる訓練への参加は義務付けられていない。弘紀を連れて中屋敷の母屋を抜ける途中、山崎と出くわした。山崎は修之輔と弘紀の姿を同時に認めて、気さくな笑みを浮かべながら話しかけてきた。

「弘太、こっちに来たのか」

「はい。たまにはこちらのお屋敷の様子も見てみたいと、秋生様に連れて来てもらいました」

「そうかそうか。けれどこれから行う練兵訓練、お前は見ておくだけにしておけよ」

 そう云って弘紀の背を軽く叩き、山崎は中庭へと向かって行った。その機嫌の良さからすると、特に支障なく今日の訓練の準備は進められているようだ。

 弘紀はちょっと首を傾げてそんな山崎の様子を見た後、修之輔の手を引いた。

「私は練兵訓練に参加しなくていいそうですから、修之輔様、いっしょに奥の運河を見に行きましょう」

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