第4話

 羽代藩下屋敷は江都の西の外れ、内藤新宿のさらに西側にある。角筈つのはずと呼ばれるその辺りには花木を育てる職人が敷地の広い屋敷を構え、花が見頃な季節ともなれば見物客に庭を解放して辺りは賑わう。冬には雁も畑に降りて、それを狙う鳥撃ちも来るという。


 弘紀が下屋敷に兄を訪ねる行列は江城に参上する時より簡素なもので、追随する人数も半分ほどになる。朝のうちに中屋敷に詰めている羽代藩士が集められて、今日は松風の馬追いがなかった修之輔もそこに加わった。

「今日は弘紀様が先代当主の弘信さまを訪ねて下屋敷へお出ましになる。そこで、護衛の任だが」

 中屋敷母屋の広間が俄かにざわつく。

「下屋敷か」

「内藤新宿が近いよな。あそこの飯盛り女はすごいと聞く」

「どう凄いんだ」

「そりゃあ、行ってみなければわからない」

「弘紀様が御屋敷に滞在している間、新宿に足を延ばしてみてもいいのだろうか」

「品川と双璧を成すあの内藤新宿だろう、これはぜひ行ってみたい」

「外田さん、外田さんも行きたいですよね内藤新宿」

「儂は今日も講武所に行かなければならん。行けない。ほんとうに悔しい」

 口々に騒ぎ始めた者達を眺めながら山崎が話を続ける。

「中屋敷からは五人ほど人を出すことになっているが、ついでに下屋敷で畑を耕してもらう。女に袖を引かれて内藤新宿の茶屋の奥に一度足を踏み入れたら最後、お前ら戻ってこないだろう」

「……畑?」

「先代の弘信さまが下屋敷内の畑を広げたいと仰せだ。下屋敷に着いたらそのまま休むことなく働け」


 少々興奮は収まって、けれど噂の内藤新宿で遊べなくても、通りがかりに一目見るだけでも、と、ざわめきが消えない。山崎はそんな彼らを意に介さず、既に決まっていたらしい者達の名を呼んだ。その中には修之輔も含まれていたが、それは昨夜、既に弘紀自身から知らされていたことだった。

 選ばれなかった藩士たちが、それでもまだ不平を漏らして騒いでいると、いきなり、どーん、と大きな音がした。

「いいか、残っている者達は今日、練兵訓練を行う」

 そういう山崎の立派な腹の前には、いつの間にか、これも立派な洋式太鼓があった。山崎がその手に持つばちを振り下ろすたびにドンドン、と大きな音が中屋敷中に響く。

「この音でな、徒歩兵がどっちに行進すればいいのか、何をすればいいのか、指示をする。素早く隊形を変える訓練などもおいおいやっていくが、今日はこの太鼓に合わせて歩いたり走ったりする訓練だ」

 築地にある講武所の練兵場で練兵術の習得を目指している山崎は、早速習ったことを実践しようとしているらしい。そんな山崎の熱意と藩士の間にはまだ少し差があって、

「洋式とはいえ太鼓の音だ、訓練よりも踊ってはならんのか」

 などと適当なことを言う者もいる。

「練兵訓練だ」

 敢て厳しい口調の山崎の声に被せて、今度は、ふぁーん、と、大きい割には気の抜けた音が聞こえてきた。音の出所は今朝の打ち合わせに来ていた江戸勤番の石島で、こちらが手に持っているのは洋式ラッパだった。まだ上手く音を出せない様子なのに顔を赤くしてまで懸命に吹き鳴らしている。石島も山崎と共に築地で練兵訓練を受けている一人だった。

 ドンドンふぁーん、ドンドンふぁーん、と山崎と石島が交互に何度か調子の外れた太鼓とラッパを鳴らすと藩士たちの興味は急速に目新しい訓練の方へと逸れていった。

「それは今日これからやるのか」

「どんなことをするのか、ちょっとやって見せろ」

 目の前の珍奇な見世物につられた藩士達は座敷に集まったそのままで、藩主の外出に従う任務を命じられた修之輔の他四人は誰にも見送られることがないまま、中屋敷を後にした。


 残雪に乗る修之輔が先頭を務めることになった羽代当主の行列は、昼前、そろそろ日が中天に差し掛かる頃に上屋敷を出て霞ヶ関の坂を上り、内藤新宿の先は角筈にある下屋敷に向けて出発した。小走りで従う中間小物に朝永の家紋を記した槍持ちがいて、その後ろに松風に乗る弘紀の姿がある。修之輔はいつもは弘紀の後ろに付くことが多いのでその姿を視界のなかに入れやすいのだが、今日はそういうわけにはいかない。

 けれど背後に聞こえる松風の足音。肩のあたりに弘紀がこちらを見ている視線を感じるように思えた。


 馬の早足で、上屋敷を発って半刻ほどで四ッ谷大木戸に着いた。

 大木戸の番所には前もって下屋敷から人が寄越されていて、木戸を通過する手続きは済まされていた。足を止めることなく進んだ大木戸の外、これより先は江都から外れることになり、武士でない者も馬に乗って移動している。とはいってもそれらの馬は背に多くの荷物が積まれた駄馬である。積まれているのは炭や綿、馬の他にも牛車が行き交って近郊で採れた野菜を江都内へと運び込んでいる。


 宿場の賑やかな一帯を通り抜ければ、そこから道は甲州街道と名を変える。左右に広がる畑が目立つようになった辺りで通りを左に曲がれば、羽代の下屋敷が見えてきた。

 長屋塀に囲まれた上屋敷や下屋敷とは異なり、白壁の土塀がその敷地を囲っている。木々の花は終わったらしく、けれど早緑の若葉が塀の上から覗くその枝振りは、充分な手入れがされていることを窺わせた。

「ご当主様が御なりです」

 下屋敷門前に着くと門番の掛け声があって、修之輔は残雪から降りた。その場に跪礼して弘紀が松風に騎乗したまま屋敷内に入っていくのを見送る。春の薄雲を思わせる柔らかな鼠色の小袖と羽織に野袴を身に着けた弘紀は、出迎えを受けて御殿の前で松風から降りた。そうして修之輔が気配を感じて面を上げると、弘紀がこちらを見ていた。

「秋生、松風を頼む」

 皆の前で名を呼ばれるのは、これが初めてだったかもしれない。作法に沿って面を伏せたまま側に寄り、松風の手綱を受け取った。

「……庭の方に回ってください」

 弘紀が小声で囁く声が耳元に。頭を下げて諒承の意を示す。目の前から弘紀の姿が立ち去った後、修之輔が松風と残雪の二頭を厩に繋いでいると下屋敷詰の藩士がやって来た。御殿の中の控えの間で待機するか、それとも庭で護衛の任を継続するか、と尋ねてくる。先ほどの弘紀の言葉に従って、庭に行く、と修之輔が言うと、御殿の裏を通って庭へと案内された。


 敷地の手狭な上屋敷とも、船荷の揚げ降ろしがある中屋敷とも違い、下屋敷はそのゆったりとした敷地に広い池や山水が施された風情ある造りだった。元から花木の多い屋敷だと聞いていたが、ところどころの起こされた土の色から見ると最近さらに開墾されているようだった。

 水の流れる音が微かに聞こえてくる。皐月の光を木陰で避けながらしばらく待つと、弘紀が御殿から庭へと出てきた。もう一人、弘紀の隣にいるのはその兄、弘信だろう。

「兄と内々の話がある。護衛は秋生のみでいい。あとは下がれ」

 弘紀が御殿の用人や近習に命じる声が聞こえた。


「兄上、この辺りは何を植えたのですか」

 庭を巡りながら、弘紀は弘信に話しかける。口調の気軽さから、この兄弟の仲は良さそうだった。二十近く離れているという歳の差は、親子と云ってもいい。実際、先先代の当主、すなわちこの兄弟の父は、弘紀をその兄である弘信の養子にするつもりだったとも聞く。

 弘信は穏やかな品のある顔立ちで、ゆっくり話す。

「朝鮮人参だ。今は良く売れるらしいのだが、たまに値が高騰することがある。そう云ったときに必要な者達が手に入れられるようにと作ってみた」

「それは兄上のお考えですか」

「いやそれが、実は受け売りだ」

 そういって弘信が池の方へと視線を向けた。その目線の先は広い池の一角で止まった。群生する立派な菖蒲の葉が惜しげなく刈り取られているところで、脛まで泥水に漬けて菖蒲の葉を剪定する健康そうな女性の姿があった。

「あれに草木の様々な事を教えられることが多い」

「あの女人はどのような」

「名を土岐ときという。老いた父親が小石川で薬草の世話をしていたのだが、先年病みついて亡くなったそうだ。女人ゆえ、そのまま父親の仕事を引き継ぐわけにもいかず路頭に迷いそうになったところを、草木の世話ができるならと、屋敷内の中間が拾ってきた」

 ちょうど庭を広げている時で人手が足りなかったのだ、と弘信が云う。

「堀った土を運んで、木の枝を切り落とし。男顔負けのはたらきをする一方で、父親から習ったという薬草の知識が豊富で、話していて面白い」

「それは良い女人を得ることができましたね」

 弘紀が土岐の姿を眺めながら云う。

「ああ」

 一方、弘信は修之輔の方を見た。

「ところで弘紀、先程から一人残したこの者は」

「最近、羽代の家中に加わった秋生といいます。剣の腕を見込んで、私の護衛として働いてもらうべく、今、武術の修練に励んでもらっているところです」

「この者が、あの」

 修之輔の顔を見た弘信はそれだけ言って言葉を切った。なにか弘信と弘紀の間には了解があるようだったが、弘紀はそれ以上何も言わず、弘信と目を見交わしながら黙って軽く頷いた。


 羽代城二の丸御殿の庭よりも線の細い庭木が柔らかく枝を伸ばす下屋敷の庭を一巡りして、弘紀とその兄は御殿の中に戻った。


 ではこれから畑仕事の手伝いかと、修之輔が襷を掛けようとしたところ、下屋敷の用人に名を呼ばれた。小太刀の師範となる曲渕との顔合わせだという。連れて行かれた御殿の中の小さな座敷には、既に曲淵が待っていた。

 事前に耳にしていたように、曲淵は小柄な老人で、その白髪を講武所髷に結っていいる。伸びた顎鬚を指でつまんで引っ張ってみたり、開けられた障子の向こうの青紅葉の木を眺めたり、畳の目を数えてみたり、動作にやけに落ち着きがない。だがこれが常態のようだった。

「羽代家中馬廻衆組頭、秋生修之輔と申します。どうぞ御小太刀おんこだちご指導のほどよろしくお願いいたします」

「うむ。じゃ、三日後な」

 落ち着かない動作の割に口数が少ない。少し待ってみたが、それ以上の言葉はなさそうだった。

 軽く頭を下げて、それでも何も言わずに無言なので修之輔が自ら面を上げると、曲淵は修之輔の姿をじっと見ていた。何か聞かれるかと身構えたのだが、

「秋生、お主、ずいぶん美しい男だな。まるで儂の若い頃のようだ。いや、儂の方がまだ勝っておったな。間違いない」

 曲淵は真面目な顔で云う。修之輔はもう一度、頭を下げた。

 今後、江戸にいる間は三日に一度、ここ下屋敷で曲淵の訓練を受けるように、と下屋敷の用人に言い渡されて、初日の面会はそれで御仕舞だった。


 羽代の紋を掲げて下屋敷を出た行列は夕刻前に上屋敷に着いて、春の日の行楽に相応しい今日の外出は何事も無く、無事に終った。


 松風も残雪も外を歩いてきたので、今日は夕方の馬追いをするかどうか、修之輔は迷った。けれど今日も岩見が来るかもしれないと思い出して、厩に繋ぐ前の残雪の手綱を牽いていつもどおりに采女馬場へと向かった。


 このところ岩見は非番の日になると采女馬場に来るようになっていた。

 土塁に座って馬を眺め、そして修之輔と一言二言交わす。修之輔も岩見も口数が多い方ではないから、人の馬を見て何か言うぐらいだったが、そのくらいの会話が修之輔にとってはちょうど良かった。

 今度新徴組の屯所で剣の手合わせをしてみようと持ち掛けられもした。

「羽代の家中に許可を取らないと行けるかどうか、わからない」

 その時、そう修之輔が言うと、岩見は、そうだな、と頷いた。

 岩見のそんな生真面目さは、羽代の下士にはほとんど見られない。羽代藩士の裏表のない明るさは好ましくはあるのだが、岩見の落ち着いた雰囲気を修之輔は好ましいと感じていた。それは岩見と面影が重なる黒河の幼馴染、大膳が思い出されるからなのかもしれない。

 黒河で世話になっていた人達は今頃どうしているのかと、ふと江戸の空を見上げて思う。

 

 そうして岩見は、やはり今日も馬場にやってきた。 

「岩見殿、この辺りで江戸の名物を買うことはできないか」

 馬追いを短く切り上げたので、岩見と話す時間がいつもより長くとれた。当初の内は戸惑っていた口調も慣れてきて、修之輔は岩見との会話に緊張を感じなくなってきていた。その岩見に何の気なしの会話の延長で訊いてみたところ、肩越しに振り返った後ろを指差した。

「稲荷寿司はどうだ。ちょうどそこに稲荷売りがいる」

 岩見の指す指の先、なるほど、稲荷寿司と書かれた駕籠を担いだ棒振りがいた。一つ四文だというので試しに買って食べてみた。初めて食べたその稲荷寿司は、酢飯と甘辛い油揚げの濃い味付けが美味しく感じられた。

 一日の務めの疲れが体に出てきた頃合いだったからかも知れない。弘紀が好む味のようにも思えて、修之輔はあと二つ、土産に稲荷ずしを買い求めた。竹の皮に包まれた稲荷寿司を手拭で包んでいると、岩見がどこか面白そうにこちらを見ているのに気が付いた。

「秋生、そんなに稲荷寿司が気に入ったか」

 まさか藩主への手土産と言う訳にはいかない。

「藩邸から外に出られない者もいるから、外に出た時はなるべく土産を買って帰ることにしている」

 適当に話をぼやかしたところ、そうか、と岩見は頷いたが、修之輔の言葉を信じているようには見えなかった。

「次に会う時は別の江戸名物を買いに行くか」

 そんな岩見の提案には、どこか面白がる口調が混じっている。

「よければ他にも教えてほしい」

 今夜にでももう一度、弘紀に何が欲しいのか、食べたいのかを聞いておこう、そう胸の内で確かめながら岩見を見返す修之輔の口元には、弘紀が喜ぶ顔を思って零れる笑みが浮かんでいた。


 岩見がふと修之輔から目線を反らし、少し間を置いて別の事を聞いてきた。

「江戸名物と云えば、参勤で江戸にやってきた者達は吉原などの岡場所に興味を持つものだが。秋生は興味ないのか」

「ない」

「そう、か」

 修之輔にとって、それは隠す必要も感じない何気ない会話の一端だった。

 

 春の宵は次第に蒼さを増していき、江都は朧な夕闇に包まれ始める。岩見が今、どんな表情をしているのか、霞んで見えない。


「また来る」

 その一言だけ残して帰る岩見の背を修之輔は見送った。

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