第3話
時の鐘が聞こえてきて、修之輔はそろそろ中屋敷に戻らなくてはならない時間になっていることに気が付いた。それを外田に云うと、この辺りの細かい道は迷うから広い道まで送ろうと、言ってきた。その外田はもう少しここで稽古してから中屋敷に戻るという。
道場を出て少し歩くと、外田が一軒の店を指さして、あそこが例の一杯飯屋だ、と囁いてきた。
「ちょっと見るだけ、な」
そういって店に近寄った外田は、直ぐに戻ってきた。今日はいない、と残念そうに言う。外田が気に入っているという飯屋の給仕の女のことだろう。
「秋生に江戸のいい女を見せたかったのだが」
伊藤に一度顔を見せたのだから、秋生もいつだってあそこに顔を出して良いんだぞ、そういう外田に見送られ、修之輔は運河沿いの道を歩き、中屋敷へと戻った。
中屋敷に戻ると既に夕刻が近く、修之輔は中庭に繋いでいた残雪を牽いて屋敷の外、采女馬場に出た。先日の山王参りの時、新徴組の岩見が会いにくると言っていたのは確か今日の筈だった。
新徴組とは縁をつないでおけ、と山崎から云われた言葉を思い出す。
周囲の状況に目を凝らし世間の情勢にも注意を向けるように、と指示されたことも併せて、これも自分の任務の内なのだろうと修之輔は思った。
残雪を馬場内で走らせ始めてそれほど時間も経たないうち、馬場の外に岩見の姿があるのを修之輔は馬上から見つけた。新徴組の浅葱の羽織ではなく、山王社で会ったときと同じ羽織で、それは私服のようだった。岩見の近くまで残雪を寄せて、その目の前で鞍から降りた。
「岩見殿、先日は助けて頂きありがとうございました。羽代家中からも十分にお礼を申し上げるようにと云い遣っております」
大袈裟だな、と岩見が苦笑いを浮かべた。
「しかし、近くで見てもいい馬だな」
岩見は残雪を臆せずに眺める。馬に馴れているのだろうか。修之輔は浮かんだ疑問をそのまま、訊いてみた。
「岩見殿は馬を扱えるのですか」
「故郷の実家には馬がいたから時折走らせていた。こちらに来てからはそういえば一度も乗っていないな」
「この馬に少し乗ってみますか。お礼にもなりませんが」
連れて来ているのが松風ならば、しなかった提案だった。岩見は残雪の残雪の鼻面を撫でながら、軽く首を横に振った。
「やめておこう。それよりも秋生、自分相手にそんなに畏まる必要はない」
岩見が口にしたその言葉と同じことを、つい最近、外田にも言われた覚えがあった。
ふと、岩見が馬場の向こうを見た。街並みの向こう、夕暮れ近い大通りをカタバミ紋の御用提灯が揺れ動く。酒井様市中見廻りの隊列だった。岩見が近くの土塁の上に腰を下ろす。修之輔も岩見と並んで馬止めの土塁の上に座り、その見廻りの行列を遠目に眺めた。
「改めてみるとこんな感じなのか」
岩見が自分の身内に対して他人行儀でどこか物珍しげな声音を含んだ感想を零す。
「今日、岩見殿はあの務めに就かなくても良いのですか」
口調に戸惑いながらも修之輔は訊いてみた。
「酒井様は庄内藩士と新徴組士の比率を常に調節している。新徴組には出自が明らかではない者が多く混じるから、見回りに駆り出されるのはいつも半分以下の人数だ。身内と云えども警戒を怠らない酒井様らしい」
身内である筈の新徴組への警戒は、即ち生粋の庄内藩士との差別とも受け取れる。なのに岩見の声音には微かに、けれど紛れのない誇りが混ざっていた。
「岩見殿はいつから新徴組に」
「一年ほど前からだな。組士募集の知らせを聞いて、それに名乗り出た。それまでは禄に職もない浪人だった」
「そうは見えない」
それは先日来、修之輔が岩見に抱いていた違和感の根本だった。
「いや紛れもなく、浪人だった」
それ以上語る意思なく、向けられた背中は孤独に見えた。
さっき、外田と出向いた道場の様子を思い出す。江戸に来たばかりで外田はあれほど仲の良い知り合いができていた。背や肩を叩き合って笑う若者たち。あの様子と岩見の姿は対照的だった。修之輔は、むしろ岩見の方に自分は近い、そう思った。
その親近感と、未だ外田たちとは同じように振舞えない自分自身へのもどかしさ。思わず修之輔は自分の手を岩見の背に置いていた。
羽代の仲間と同じ仕草。手の平には相手の体の温かさが伝わってくる。
彼等はいつもこのようにして相手の存在を認めていたのか。
修之輔は案外簡単に自分が外田たち羽代の者達と同じ振る舞いができたことに、そして彼等と感覚を共有できたことに、単純な驚きと嬉しさを覚えた。
自分は名実ともに羽代の一員になってきているのかもしれない。知らず、思考はそのまま、羽代の者達を統べる当主へと流れて行く。
弘紀に自分の背を触れられたのは。背に回された指がしがみついてきたのは、一昨日の夜。
今夜、弘紀は来るのだろうか。
昨夜は来なかったからきっとくるだろう。何か菓子でも用意しておこうか。それとも他になにか、弘紀を喜ばせることができる物があるだろうか。
体温が伝わるほどの近さで隣に座る岩見のことを束の間忘れたその間、修之輔の頭を占めていたのは弘紀のことだけだった。
それから雨が降ったり止んだりの日が数日続いた。雲が途切れるたびにその隙間から零れる日差しは強くなってきて、時に汗ばむような陽気にすらなる。
そしてようやく今後の方針が藩の上層部で固まり、しばらく重臣たちの外出が少なくなるということが、中屋敷に詰める羽代の下士たちに山崎から伝えられた。
深い入母屋屋根に覆われた上屋敷御殿こそようやく本来の落ち着いた雰囲気を取り戻したものの、代わりに、修之輔が馬を牽いて毎日通う中屋敷では藩士たちが勉学と武術の修練に追われることになり、より一層、騒がしくなった。
急を要する仕事が少なくなって、弘紀も御殿の外に出ないまま、多少はゆっくり過ごせるのかと思えばそうではないらしい。
「外向きの用事がひと段落着いたから、これでようやく兄に会いに行けるのです」
夜、修之輔の部屋にやってきた弘紀がそんなことを云った。
肌を重ねた後の絹の襦袢一枚で、弘紀は寝転がったまま、修之輔が買ってきた
「米の霰よりも軽い歯ざわりです。甘辛にしても美味しいと思うのですが」
大き目な賽の目に切った豆腐を胡麻油で香ばしく揚げたその菓子は、塩一つまみが味付けの素朴なものである。春の盛りとはいえ夜気はまだ冷たいが、土瓶が掛けられた火鉢の炭火は微かに部屋を暖める。それでも汗が引いた体が冷えるだろうと弘紀の肩に掛け布をかけた。湧いた湯で茶を淹れていると、弘紀が起き上がってきて横に座った。
「明日、兄のいる下屋敷への訪問は、貴方に護衛をお願いしてあります」
馬で行きましょう、と弘紀は微笑しながら言う。
藩主の身分ならば公的な外出は必ず駕籠を使う必要があるが、私的な外出ならば騎乗も許される。最近は見なくなったが、朝早くに騎馬の部下を従えて鷹狩に出かける大名も珍しくなかったらしい。
「弘紀はともかく、江城内で俺は馬に乗れるのか」
「そのために役職を一つ、上げさせたのです。今の秋生の身分ならば、江城の外郭を騎乗したまま移動することもできますよ」
弘紀は残り少ない霰豆腐を全部口の中に入れて飲み込んで、茶に口をつけながらそう言った。
羽代藩邸下屋敷に住む弘紀の兄、弘信は、羽代の前の藩主だった。昨年、表向きは健康上の理由で家督を弘紀に譲ったことになっている。だが実質は、朝永家中の混乱を抑えることができなかったことを幕府に咎められての改易に近い。
弘信の奥方は実家の体面を重んじて、またどうやら弘信に原因があって子を成すことが難しいと分かっていたので、離縁を望んだ。
弘紀の兄の奥方は、他藩の大名家の姫君だが、当主直系の血筋ではない。由緒正しい譜代大名とはいえ、頸の皮一枚でつながっている小藩の大名の奥方でいるよりも、国許の足元が盤石な家臣の家に入り、藩内の地固めをしたいという実家の意向が強く働いたようだった。
奥方は朝永家に離縁を申し入れて、それが幕府に認められる前、早々に羽代の江戸藩邸上屋敷から実家の大名家の下屋敷に移り住み、年が明けて直ぐ実家のある地方へと帰って行った。
「物事をあまり気にしない兄も、少し落ち込んでいたようです」
弘紀は実務のこともあり頻繁に兄とは文をやり取りしているのだという。
「でも奥方の姿が目の前から無くなって吹っ切れたのか、昔から好きだった草木の世話にいっそう熱が入るようになって、今は下屋敷の敷地を耕して色々植えてみているといっていました。それを見せてもらうのが楽しみなのです」
草木や動物に土石など、博物学に興味があるのはこの兄弟に共通している。尤も藩主の座にあるならば、その領地内の事物には精通している必要があるので、博物学への興味は実務にも役に立つ趣味なのだろう。
「最近、珍しい物もいくつか手に入れたと聞いています。秋生も一緒に見ましょう。ちょどいろんな草木が花を咲かせている時期ですし」
弘紀の弾む口調に修之輔の心も浮き立つ。藩主としての公的な外出ではなく、私的な外出の護衛に呼ばれるのは家中一介の武士としては名誉なことであったし、嬉しくもあった。そして何より、私的な訪問とはいえ羽代の紋を掲げて行くことになるので、先日の山王参りのような緊張がない。
「それから貴方の武術の修業のことですが、妥当な人物が見つかったので、その顔合わせも下屋敷でしてもらう予定です」
「どんな武術を習うことになったのか」
「小太刀です。訪問先によっては、刀を持つことが許されない場面が少なくありません。昔日の忠臣蔵ではありませんが、そう云った場でも貴方に十分に私の護衛を務めてもらうことができるように、というのが理由です」
江戸はともかく、近頃の西の京の都では、自邸に招いた要人を暗殺することもあると聞く。世情に即した判断なのだろう。
「わかった。小太刀の技を十分に身に着けることができるよう、励むことにする」
「師範には江戸の奉行所に長年勤めていた曲淵という者を選びました。なかなかの頑固者らしく、自分の屋敷が近い羽代の下屋敷なら指導に出向くのにやぶさかではない、などと言ったらしいです」
自分の師範となる人物の人となりについて吟味する前、曲渕というその名前を聞いた覚えがあった。外田とともに訪れた伊庭流の伊藤の道場で、たしか耳にした。
「高名な方ではないのか」
「奉行所で一緒に働いていた者達からの評価は高いのですが、上役からはいまいちのようですね。腕は確かだ、ということでしょう。講武所の師範にも呼ばれたのだそうですが、高齢を理由に断ったそうです。けれど長年奉行所で培ってきた技術は、当人が年齢を重ねていても学ぶところは多いと思います」
高齢で、頑固者で、そして町の道場に勝手に出入りする小柄な人物。それが今のところ修之輔が知り得ている曲渕という人物の情報だった。それについて修之輔がどうこう言える筋合いではなく、上からの命令として明日、伝えられるのだろう。
けれど弘紀の身近にあって、その身を守る護衛の任に就くための武術の修練であることは疑いようはなく、それは修之輔にとっては励み甲斐のある任務だった。
「ではその小太刀、江戸にいる間、その曲淵先生に付いて確り学んで来よう」
そう弘紀に返事をしながら手を伸ばし、指で弘紀の口の端についていた霰豆腐の欠片を取ると、そのままその指を弘紀に咥えられた。
弘紀の悪戯な仕草に、互いに見交わす目線には笑みがあって、けれど弘紀は咥えた修之輔の指に舌を絡めてきた。柔らかに蠢く濡れた舌。軽く吸われて歯を立てられ、その刺激に思わず目を細めると、弘紀が口から修之輔の指を抜いた。唾液の糸が弘紀の唇と修之輔の指を結ぶ。
「明日は
囁く声がいつのまにか耳元に。絹の襦袢の帯は解かれたままで。
風のない今夜は、楠の葉の鳴る音はほとんど聞こえてこなかった。
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