第2話

 羽代藩中屋敷の近くにある加納の屋敷までは半刻ほど、駕籠の後ろに付いて歩きながら、外田が小声で話しかけてきた。

「秋生、さっき加納様にじろじろ見られて苛立っていただろう。お前、いつもは大人しいから珍しいな」

 苛立ちに気づかれていたことは多少意外だったが、それ以上の感慨はない。そして修之輔が苛立っていた理由も微妙に違う。

「あれは半分、お前にも責任があるぞ」

 続く外田のその言葉の方が意外だった。思い当たることの無い自分の責任とやらに、思わず横を歩く外田の顔を見た。

「前を向いていろよ」

 外田に注意されて、視線を前方に戻す。

「あのな、お前のその顔はどうやら江戸では目立つらしい。しかも顔だけじゃなく、こっちに来てから妙に色気が増しているから、それも無駄に人目を惹く。外に出る時は笠を被った方が面倒にならなくていいんじゃないのか」

 この間の山王参りの様に、と外田が云う。どうも山王参りの時の不始末の原因を、自分ではなく、修之輔の顔のせいにしようとしている気配がある。

 それは置いておくとしても、互いの認識の齟齬を付きあわせるような大事でもないと思ったので、修之輔は、考えてみます、とひと言だけ外田に返事をした。


 中屋敷よりも二つほど東の区画にある加納の屋敷前に着いたのは、まだ日も高い八つ時前だった。駕籠から降りた加納が、

「中屋敷の者達にも学問をさせなくては」

 と、外田と修之輔の方を眺めながらそんなことを言い、黙礼して顔を伏せた外田が加納からは分からぬように顔を思いっきり顰めた。


「秋生、寄って行かないか。稽古でなくても手合わせをする時間はあるだろう」

 二人で歩いて中屋敷の門の前、外田が剣術の練習に修之輔を誘った。講武所で新たな知己を得てから、外田は剣術の修練にやる気を見せている。

「松風の馬追いをしなければならないから」

 そう修之輔が断ると、まだ仕事があるのか、と外田が大仰に驚いた。

「また明日、稽古を付けにこっちに来るので、その時に」

 軽く笑みながら答えると、それそれ、その顔なんだよなあ、と眉を下げて外田が云う。

「さっきも言ったが、秋生、お前、ほんとうに顔を隠すために被る笠を用意しておいた方がいいぞ」

 真顔で助言してくる外田に見送られて、修之輔は上屋敷へと向かった。その途中、通りの向こうからやってくる行列の紋が違い鷹羽、羽代当主の物であることに気が付いた。


 弘紀が出先から帰ってきたのだろう。修之輔は行列が近づくのを待ち、行列の中の見知った顔に目配せをしてその後方に付いた。

 それが自分の任務であるという思いより、弘紀の目に少しでも触れたい、そう思う気持ちが加納への嫉妬に根差していることは間違いはなく、けれど焦燥すら微かに伴うその感情は、上屋敷の門の中、駕籠から降りた弘紀が修之輔の姿に気づいて向けた、華やかな笑顔にきれいに消された。


 藩主である弘紀自らを含めた羽代上層部の頻繁な外出が数日続いた後は、今度はそれぞれからの報告やそれに関する検討を行う会議が続き、修之輔達が護衛に呼び出されることは少なくなった。


 護衛に呼ばれることがなくても、朝夕の馬追いと中屋敷での剣術の稽古は日課として続いている。

 朝早くに松風を馬場に連れて行き、上屋敷に戻ってきてからは世話を手伝うこともある。屋敷の厩には羽代から牽いてきた松風と残雪の他、二頭の馬がいて、それぞれの馬は一頭ずつ馬房に入れられている。

 修之輔が松風を馬追に出している間に、厩番が松風の馬房の敷き藁を新しいものに変える手順になっていて、今日も馬追を終えた松風を清潔な藁が敷かれた馬房の中に繋いだ。藁束で毛並みを整えてやろうとして、松風が馬房に入口に渡されている棒に片前足を載せている事に気がついた。

 ぎいぎいと木が撓る音がする。松風が意図的に棒に力を加えているようだ。

 餌か水の催促かと思い、修之輔は水桶を松風の足下に置き、飼葉を一握り、鼻先に差し出したが見向きもしない。ただ単純に棒の音と反発を楽しんでいるようなので、それ以上は構わずに毛並みの手入れを終えて厩の外に出た途端、背後でバキッと大きな音が聞こえた。

「また折ったか」

 大きく響いた音を聞きつけて、厩番がすぐに顔を出した。その手には、今、松風に折られたものと似たような新たな棒を持っている。

「また、ということはこれまでにも何回か折っているのか」

「これで三本目です」

 諦め風情の厩番の様子を見て、馬追いにもう少し時間をかけて松風の余分な力を削いだ方がいいのか、と思った。いや、却って松風に力をつけることになるのかもしれない。今できるのは馬房の棒を太くすることだけなのだろうが。

 ……今度、弘紀に相談してみよう。今日は出かけずに御殿の中にいるその気配を探して、修之輔は振り返った。


 厩の手伝いの後、時間が余ったので長屋の周囲も掃除をした。楠が落葉の時期を迎えているので二、三日に一度は落ち葉を掃く必要がある。羽代にも楠はあるが、その香りは潮の匂いに紛れがちで、今、上屋敷に漂う香りはむしろ修之輔の故郷の黒河の山を思い起こさせる。


 懐かしいような。忌まわしいような。


 胸の内に巣食う昏い記憶が、しかしこのところの弘紀との頻繁な逢瀬の記憶に塗り替えられて次第に薄くなっていることに修之輔は気づいていた。そうしてまた、想いは弘紀に捉われる。


 昨日は弘紀と逢っていない。ならば今夜は。


 箒を片付けて、けれど部屋には戻らずに、修之輔はそのまま楠の幹にもたれて板塀の向こうの御殿の屋根を眺めた。今日も一日、御殿の中で執務に励んでいるのであろう弘紀のその姿を思い描くだけで、均衡を欠きそうになった自分の心が静まっていく。微睡むような心地には、屋内にいるよりも風に葉を鳴らす樹の側にいた方が深く浸されるように感じた。


 昼過ぎに残雪を牽いて中屋敷へ向かうと、すで暇を持て余した藩士の数名が自主的に剣術の稽古を始めていた。皆が集まる前にその数名を相手に個別に指導してみた。これまであまり稽古をしてこなかったという彼らは、却って変な癖がついておらず、これから帰国するまでの間に修練を続ければ上達が見込めそうだった。

 講武所から戻ってきた外田も加わって剣術の稽古を一刻ばかりしていると、上屋敷から伝令が来た。皆でその場に座って話を聞いてみるとそれは家老の加納からの指示だった。なんでも藩士は武術だけでなく勉学にも励むように、とのことで、それだけならまだしも、しばらく後で加納自らが藩士個別に勉学した内容を諮問するらしい。その場にいた者が皆、ざわめいた。


「俺たちは武芸の修練という任務を追っているのだから、免除してもらおう」

 修之輔に小声で云って寄越した外田は、続けて、練兵術を習いに行っている山崎なんか、今日はずっといないじゃないか、と云った。

「それよりも秋生、ちょっとこれから外の道場に行かないか」

「ここを出ても大丈夫なのですか」

「ちゃんと許可は取ってある」

 外田が強引に修之輔の腕を引く。ほぼ強制的な勉学奨励という降ってわいた事態に、あちらこちらで相談を始める藩士達の輪から外れ、修之輔は外田と二人して中屋敷を抜け出した。


 外田が云うその道場とは講武所で知り合った者が師範を務めている道場だという。他藩の藩士も多く通うというその剣道場は、中屋敷から運河を一つ、橋で越えた先にあるという。案外に近い。門を出てすぐ上屋敷とは別の方向、本願寺の伽藍の屋根に向かって歩き始めた。

 釆女馬場を背にして渡る運河は、いくつもの荷船が行き交っている。橋の上から眺めただけでも酒樽、米俵のほか、筵を被せた下に覗くのは近郊で採れた野菜や漬物だろう。人を乗せて運ぶ船もある。櫂が水を掻く音や人々の話し声が陽光とともに辺りに絶え間なく散りばめられ、江戸が運河の都、江都と呼ばれる所以ゆえんそのままの光景だった。

 

 交際上手な外田の話によると、これから行く道場は講武所の剣道師範、伊庭いば氏の弟子が開いている道場だという。伊藤兵右衛という名のその弟子は、外田よりも年下で修之輔と同じ年らしい。

「一応、山崎を通して上屋敷にもお伺いを立ててある。譜代の大名も何人か弟子入りしている由緒正しい流派だということで許可は出ているんだ、いつ行ってもいいだろう」

 由緒正しい、というその外田の言葉と、先日聞いた一杯飯屋の娘に群がる門弟の姿が重なるようで重ならない。同じ道場のことを外田は言った筈なのだが。そんなことを思っているうちに件の道場の門前についた。門扉は開け放しで、気にせず中に入って行く外田に付いていくと、数人が雑談していた。竹刀を手にしているので稽古の途中ではあるのだろう。

「伊藤、うちの秋生を連れて来たぞ」

 外田がその集団に躊躇なく声を掛けると、その内の一人がこちらにやってきた。その人物が道場主の伊藤らしい。

「噂の羽代の剣士か。楽しみにしていた……」

 修之輔を一目見て、伊藤と思われる人物が軽く目を瞠る。そして小声で外田に訊ねた。

「お前、そっちも趣味だったのか」

「言われると思ったわ。違うからな」

「冗談だ。お前は肉付きのいい女が好みだということは知っている」

「羽代の女はどうもあちこち筋張っていてなあ」

「外田のその図体でも蹴り飛ばされるか」

 何故わかる、と、おどける外田と伊藤は、互いに背や肩を叩いて笑い合う。彼らの回りに門下生が数人、様子を見に集まってきた。道場主である伊藤と親しく話す外田のことを警戒していないようだ。そもそも話している内容が真面目なものではない。


「秋生、すまない。外田から常々話を聞いていて初対面なのに無礼をした。そんな格式ばった道場ではないから様子を見て行ってくれ」

 伊藤は修之輔にも気さくに話しかけてきた。

「外田が、うちにはすごく強くてやたら顔が良い奴がいる、と日頃から云っていてな、ただ外田のことだから男気溢れるいかつい相撲取りのような者かと思えば、秋生はそこの本願寺あたりでも中々見ないほど綺麗な顔立ちではないか、正直ちょっと驚いた」

 寺の周りでもなかなか見ない、とは寺小姓か陰間茶屋の色子のことだろう。悪気なく褒め言葉として使う江戸の風習に、どう返事をすべきか戸惑っていると、外田が話に割って入ってきた。

「この見てくれに騙されるなよ。秋生の剣の腕は確かだ」

「では早速、試してみるか」


 いきなり道場主と打ち合いすることも無礼なので、修之輔は門下生の二、三名と軽く打ち合った後、伊藤と簡単に試合ってみた。しっかりとした理論のある剣術で、長年にわたって門下生を輩出してきた剣術の流派の凄みが端々にあった。

 伊藤は、修之輔の剣術を珍しくて面白い、という。

「剣の捌きというより体の使い方が我らと似ているな。秋生の流派は何という」

「世に名の通ったものではありません。自分の出自が黒河と云う山間の地方で、明雅流というその地に独自の物を学びました」

 今は全国に星の数ほどの流派がある。流派についてそれ以上のことは聞かれなかったが、別の事を聞かれた。

「秋生も外田のように剣の修行をしないのか?」

 聞く方の気軽さとは裏腹に、ひと言で答えられる質問ではなかった。

「こいつ、今、羽代家中から修行に出るのを止められているんだ」

 修之輔が伊藤への返答を考えている間に、外田が勝手に答えた。

「なんだ、揉め事でも起こしたのか」

 言葉の足りない外田の云い方は、案の定、伊藤に誤解を与えた。

「あれか、攘夷の志士でも目指すなどと、お偉方の前で口走ってしまったか」

 周りで話を聞いていた者たちが、攘夷という言葉に反応して次々に会話に加わってくる。

「このあいだも道場にそんなことを云いに来た者がいたが、ここが伊庭先生の流れを汲んでいることを分かっていたのか」

「分かっていたからこそ、敢てやってきたのではないのか」

「だがここは江戸だ。将軍様のお膝元だぞ。尊王攘夷の行きつく果ては倒幕だ、などと叫んでおったが、いったい何を言っているのか。場をわきまえるということを知らん」

「そしてついこの間まで攘夷の先鋒だった薩摩が、攘夷はいかん開国だ、などとぬかす」

「いったいぜんたいどちらに着くべきか、右往左往と尻の落ち着かぬ奴らばかりが走り回っている」

「で、秋生はどっちだ」

 皆がそれぞれ口を出し、話題が勝手に進んでいくので、どの話題のことを聞かれているのか分からない。どっちだとかそういうことではなくて、と前置きをしてから、修之輔は己の事情を説明した。

「当初の予定では砲術の修練をする予定だったのですが、それを変更して他の武術を修めるようにと上屋敷から指示がありました。学ぶ先は藩が決めるということでその沙汰を待っているところです」

「秋生は中屋敷の剣術指導だけでなく、馬の世話も任されていて忙しいんだから、いっそその沙汰は無くてもいいよな」

 外田が気軽に修之輔の背を叩いてきた。

 先程、伊藤にしていたものと同じその仕草は、仲間に対する親しみのもので、羽代の藩士はそうしてよく相手の体に触れてくる。仕草の意味するところは分かっているのだが、修之輔はなかなか自分から同じ行動がとれずにいる。羽代が生まれ育った土地でなく、黒河を出自とする自分の身の上がそうさせているのだと思い、けれどその何処かに欺瞞があるのにも気づいていた。


 外田は伊藤と話し続けている。

「しかし他の武術だと何がある。薙刀か、長槍か。江戸にはいろんな道場があってより取り見取りだな」

「小太刀の師範なら時折ここにも顔を出すぞ。確か今日も来ていたんじゃないのか」

 伊藤がそう云って、周りの者に尋ねる。

「今日は曲渕まがりぶち先生は来ておられるか」

「朝の内に町の子ども相手に小太刀の指南をしておられたが、ひるの鐘の前に今日はもう帰る、と」

「気づかなかったな。小柄な体をさらに丸めて門を出られたか」

 様々な者がこの道場に出入りしているようで、熱気も活気もあることは充分に伝わってきた。

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