第4章 運河の水輪

第1話

 江戸に着いてのひと月はただ慌ただしいまま、暦はそろそろ五月に入る。

 江都の市中は紅や橙の色も鮮やかな躑躅つつじや夏牡丹が、華やかに花弁を広げ始め、木々の若葉は緑の濃さを日に日に増してきた。


 そんな春の盛りの町中を、弘紀は毎日のように周辺の藩邸へ挨拶回りに出掛けていた。本来ならば代役の家老が出向いてもいいところなのだが、当主就任の挨拶を兼ねて、というよりも、相手によっては弘紀にそれなりの思惑があってのことらしい。


 羽代で藩による茶の専売が始まったのは昨年からのことである。本格的に動き出したのは今年に入ってからで、始めたばかりの商いをどのように発展させていけばいいのか、既に先行して専売を行っている藩に様子を聞きたいのだという。


 そしてもう一つは海運についての目論見もあった。

 羽代は自前で中規模の輸送船を持つ。今はそれで専売品の茶葉を江戸まで輸送しているが、茶葉だけでなく近隣の諸藩から荷を受けて、江戸近郊まで運ぶ手段が商売にならないかということも弘紀は模索している。うまくいきそうなら同規模の船をあと三艘ほど手に入れたい、と、新しい船の入手についても情報を集めているということだった。


 そんなことを弘紀から聞かされていたので、時折中屋敷を訪れる他藩の役人の目的を修之輔は察することができた。彼らは屋敷裏手の運河にもやう羽代の船を見に来ているのだが、遠巻きに集まる中屋敷詰めの下士たちは、首を傾げてそれを眺めているばかりだ。

「なんだろうな」

「なにを見ているんだ」

「川の方を見ているが、なにか面白いものでもあるのか。女人が行水でもしているのか」

 暇を持て余しているのは仕方ないとして、どうも少々羽代の面々は世情に疎いようだった。


 弘紀の他、羽代の重臣達も頻繁に外出した。家老の加納はもちろんのこと、勘定方の西川氏も藩邸詰の江戸家老とともに毎日のように外に出る。

 加納は弘紀の名代として出向くことが多いのだが、西川は他藩の同じような役職の家臣との情報交換を行う宴席や、有力な商人につながる人脈との会談への出席が主な役目である。

 かたいだけの加納よりも西川のほうがそういった席には向いている、と弘紀は云っていた。腹芸が効かないところもあるが、そこは同行する江戸家老が補っているらしい。適材適所だということだろう。


 この西川の護衛の任が中屋敷詰の藩士には人気だった。

 西川の護衛に就くと、帰り際に料亭から持たされた土産が同行した一人一人に渡される。土産は煮物を詰めた折詰で、西川氏は帰宅した自邸の門の前で、ご苦労ご苦労、と同行した一人一人の肩を叩いてその折詰を渡してくる。折詰の数は料亭が西川に献上する数より多く、その分は西川氏が自腹を切っているのだという。


 なんでも西川は若い頃、先々代の当主の参勤に従って江戸に来たことがあるらしい。当時の身分は今ほどではなく中屋敷に同僚と詰めていたというから、山崎や外田と似たような境遇だったのだろう。中屋敷に詰めている若い下士たちが食事に困っているのは良く分かる、ということだった。

 折詰とはいえ料亭の料理を食べることができるので、中屋敷の者達は西川の護衛にあたるのを楽しみにしている。加納あたりはそんな西川の振舞いをあまり良くは思っていないらしい。だが、なんだかんだで表立って悪く言う者がいないのは、西川が下の者に見せる気配りが、本心からのものである、と受け止められているからかも知れなかった。


 そんなことを今夜も修之輔の部屋にやってきた弘紀に話してみた。そろそろ夜に火鉢も要らない季節だが、今夜、その火鉢に火を熾しているのは、修之輔が買ってきた天麩羅を弘紀が炙っているからだった。弘紀の目は天麩羅の温まった油がふつふつと音をたて始めたその様子に釘付けだが、耳はちゃんとこちらの話を聞いていることは分かっている。

 先日の山王参りの件で弘紀はさすがに反省したらしい。羽代のように気軽に外に行けるものではないと理解して、だったら、と、修之輔に江戸の町で売られているものを買ってきてほしいと頼んできた。

「これ、なんの天麩羅でしたっけ」

 串を一つ取り上げて弘紀が聞いてくる。

「穴子だ。こっちが海老で、こっちが蓮根だったはず」

 修之輔の説明を聞いて視線を迷わせ、それでも最初に手にした穴子の天麩羅を弘紀は口にした。

「熱い。でもおいしいですね」

 穴子を食べ終わって、次は海老の天麩羅を。そうして次々に天麩羅を食べていく弘紀に、食べすぎると腹を壊すぞ、と忠告したが聞かないだろう。買った時にこうなることを見越していたので、修之輔はあまり数を買わないようにしていた。

 その天麩羅を全て食べて終えて満足げな弘紀に茶を入れて渡すと、一口、二口と飲んでいるうちに弘紀の顔が真顔になった。弘紀は自分の仕事のことがいつも頭を離れないようで、ふとした拍子に考え込む。しばらくそうして黙ったまま、何かを思い巡らす様子の弘紀を、修之輔は傍で見守った。


 かたかた、と火鉢に掛けた土瓶の蓋が鳴る。

 今この瞬間、弘紀の思考のどこにも自分の影が無いことは分かっている。それでもただ弘紀の側にいて過ごせる時間は、修之輔にとって、とても穏やかで心休まるものだった。


 春の夜の風が、表の楠の葉を揺らす。


 弘紀が目線を上げた。考えていた事はまとまったようで、ずっと手に持っていた湯呑の中の冷めた茶を一息に飲み干した。時によってはこの後、自分の考えを確かめるために、弘紀は修之輔と断片的な話をしたり、質問をしたりする。

 そうではない時は。


 弘紀は手を伸ばして隣に座る修之輔の背に柔らかく触れてきた。そのまま腰に指を這わせて、着物の上からあの傷跡をなぞってくる。弘紀に触れられるのは心地良い。そうしてこれは弘紀からの催促だった。

 修之輔が察して火鉢から土瓶を下ろす、その動作の間に、弘紀はその場そのまま畳の上に身を横たえた。

とこを引くから」

 そう修之輔が言うと弘紀はその姿勢のままで見上げてきた。

「このままで」

「背中が痛くなるぞ」

 云うことを聞かない弘紀を起こそうとして、逆に腕を引かれた。縺れて倒れて、そのまま互いが互いの体を腕の力で押したり引いたりすることを弘紀が面白がる。いい加減なところで止めさせると、修之輔の腕の中で弘紀が云った。

「今度は田楽が食べたい」

「わかった」

 弘紀の腕が修之輔の首に回されて、顔が引き寄せられる。ふざけ合いで少し汗ばんだ肌。襟の合間に手を差し入れて肌を寛げさせ、覗いた素肌に口づけた。抱える小柄な体の背を両手で撫でながら、その手を腰からさらにその下へ。絹の襦袢の上からゆっくりと揉みあげて、左右二つのその弾力を手の平に感じる。

 襦袢の裾をたくし上げて、下帯をつけていない割れ目の奥のすぼまりを指で解すいつもの手順。弘紀の湿った吐息が首筋を濡らすその合間、弘紀の唇からは小さく喘ぎ声が漏れ始める。

「……秋生、大丈夫、だから、もう……入れて」

 修之輔は弘紀が自ら広げる足の間に、自分の体を差し入れた。


 今夜も互いの躰を繋ぐ温かさ、修之輔はこれ以上の幸福があるのだろうかと、甘やかな疑問に思考を浸されながら、そう思った。


 弘紀が御殿に戻ったのは空が明けの色に変わる前だった。

 その日、弘紀は朝から遠方の大名屋敷に出かけて行き、上屋敷に残った修之輔に云い渡されたのは昌平坂の学問所に出かけているという加納の警護の任だった。外田が今日は同行するということで、馬追いを終えた松風を中屋敷に繋ぎ、外田の寝泊りする長屋へ向かうと、中庭にその外田の姿があった。

「秋生、こっちに来るのが早くないか」

 中庭の井戸端で顔を洗っていた外田が、顔を手拭で拭きながら声を掛けてくる。起きたばかりらしく、まだ袴もつけていない。

「上屋敷にいてもやることがないので」

 そうか、と云い掛けた外田が、ん?と首を捻った。何か自分の返答に何か問題があったのだろうかと、修之輔が外田の顔を見返すと、外田は今度は反対側に首を捻る。

「何か秋生、雰囲気が、こう、うーん、柔らかいというか、なんだろうな」

 気が抜けている、というわけじゃあないんだけどな、と外田は思ったことをそのまま口にするのだが、実際、上手く言葉にできないらしい。

 けれどこのところ弘紀と二日と開けずに逢っている修之輔は、いつも頭の片隅で弘紀を想っていることを自覚している。それが自分の態度をどこか上の空のように見せているのかもしれないと思ったが、けれどそれは自分の胸の内だけで、口には出せないことだった。


 しばらく修之輔の顔を眺めて唸っていた外田は、顔が良い奴はいいよな、と口にして、それで納得したらしく別の話題を切り出した。


「この間、講武所でできた知り合いが通っているという道場に行ってみた」

 こちらで新たに出来た知り合いの縁で、外田は市中の道場にも顔を出すようになったらしい。羽代家中からの許可を得ているのかどうか怪しい。

「その道場の近くに一杯飯屋があってな、そこの若い娘がまあ、見た目が良い。あれは誰に気があるのかと道場での話題になっている、んだが」

 外田がまた修之輔を見る。

「……秋生は連れて行かない方が、いや、やっぱり連れて行ってみるか?」

 なにやら煩悶している。

 自分の修業の先が決まらないうちはどうとも動けないから、と修之輔が云おうとして、

「うむ、やはり秋生、今度そこの道場に行こう。娘はどうでもよくて、俺は秋生の本当の剣の腕をあいつらに知らせてやりたい」

 外田は勝手にそう決めた。


 外田が身支度を終えるのを待って、中屋敷を出た。

 目的地である昌平坂の学問所は講武所の先、水道橋という橋で江城の外堀を渡った坂の先にある。講武所に三日に一度は通っている外田にとっては既に慣れた道のりなのだろう。江戸に来た最初の頃の物見遊山の気配を引っ込め、いかにも勝手を知っている顔で町を歩いていく。


 今日の江戸は汗ばむほどの陽気だが、吹く風はまだ涼しい。往来を行く庭木売りの天秤には花を咲かせた躑躅つつじの盆栽が、魚売りの天秤には今朝河岸かしに上げられたばかりのかつおが何尾か乗せられて、頻繁に呼び止められるその様子から、通りを抜けるそれだけで品切れ御免となりそうだった。


「あの躑躅の盆栽、旗本が内職で作ったものだと」

 外田が修之輔に教えて寄越す。武家が、しかも直参の旗本が内職をして町人から金を貰っているというのが長らくの江戸の現状だという。

「武士は食わねど高楊枝、なんて言ったところで、腹が減っては戦ができぬ、ともいうじゃないか」

 武士が日銭を稼ぐ風潮を嘆かわしく思う者もいるらしいのだが、羽代では役を持たない貧乏な下士が、寅丸の斡旋で農家に出稼ぎに行っていた。要は羽代のような小藩だけでなく、幕府自体も己が抱える武士全ての面倒を見切れる財政状態にない、という厳しい現実だということだった。


 その代わりに力をつけているのが商人で、呉服屋や油売りなどは往来に面して大店を構えているからその権勢は見て取れる。それよりも、それらの小売に品物を卸す仲買いや問屋が全国から物が集まってくる江戸の複雑な商いを成立させている。


 修之輔は、羽代の茶を江戸の流通に乗せるために江戸の商いについて調べていた弘紀から、そんな話を寝物語に聞いていた。

「問屋と仲買の間が強くて、新参者が入り込めないのです。交渉の場とは言わなくても、せめてこちらの言い分を伝えるだけの場を設けたいのですが」


 江戸の商人は手強いと言われる上方の商人とも五分に渡り合う。そんな彼らが商売においては素人の小藩羽代のいうことをまともに聞くとは思えず、実際、なんだかんだと胡麻化されるのだと、珍しく弘紀は弱気を見せていた。

 弘紀が連日外出するのは、そのようななかなか進まない商人との交渉の糸口を見つけることが目的でもある。修之輔がその問題に何らかの解決を見出すことはほぼ不可能で、弘紀の望みが叶えば良いのだが、と、目の端に揺れる柳の枝を見ながらそう祈ることしかできないのを歯がゆく思った。


 講武所を通り過ぎてお茶の水の堀に出ると、辺りは開けて頭上には晴れた皐月の空が広がる。ふと、水の流れる涼やかな音に気づいて周囲を見渡したが川のようなものはない。堀の水が微かに風に水面をさざめかせているだけである。修之輔の目線に気づいたのか、外田が、あっちだ、と指を差した。見ると、水道橋に平行して木の樋が堀を渡って掛けられている。屋根が掛けられているので中を見ることはできないが、水の流れる音はそこから聞こえてきた。


「これが武蔵の国は井之頭池から、はるばる流れてきた水だ。この樋を通って江城の内側へと運ばれている」

 俺も初めてここに来た時は驚いたな、と外田が愉快そうに言う。講武所の知り合いとやらに教えてもらったのだそうだ。

 すっかり江戸の暮らしに馴染みつつある外田は、迷うことなくお茶の水の急坂を上って行く。海沿いの羽代にはこのように長く続く急な坂はなく、修之輔はむしろ自らの生まれ故郷である山間の黒河の土地を思い出した。坂のてっぺんまで上り切る途中、なにやら騒がしく鉄を撃つ音が響く屋敷があった。


 かん、かん、と響く音はどこか聞き覚えがある。開け放しの門の向こうに半裸の者達があちこちと歩き回っている様子が見えた。外田もこの屋敷の中は初めて見たらしく、修之輔と二人で門に掲げられた表札を見てみると、ここは幕府お抱えの銃や大砲を鋳造する工場こうばらしい。荷の積まれた荷車を牛に牽かせようとしていて、今、門が開いているのはこの荷車が外に出るためだろう。

 鉄を打つ音の他、仕上がった銃を試し撃ちする音も聞こえる。閑静を求めるであろう学問所の間近にこのような建物がある事を怪訝に思い、そして視界の端にかろうじて見える試し打ちの的は、中心よりも周辺ばかりが射抜かれていることにも気がついた。


 あまり注視していても門番にとがめられるので、適当なところで引き揚げることにして坂を再び上り始める。

「銃というのは刀と、そう作り方は違わないものなのか?」 

 首を捻る外田とともにお茶の水坂の残りを登りきると、昌平坂学問所の門が見えてきた。

 中で学問をしている主人を待っているのだろう、何人かの中間の姿が門の外にある。煙管を揺らしながら、他の家の中間と世間話をしているようだ。あの中に加納の中間もいるのに違いないが、仲間同士、気楽に会話しているらしい雰囲気に水を差す必要もないだろう。外田と修之輔は適当な建物の軒下で加納を待つことにした。


 加納や西川と云った藩の家老は、藩邸とは別に屋敷を借りてそこに滞在している。中間小物も彼らが江戸で雇った者達だ。しかし、最近は悪心を持った者が紛れ込むこともある、と江戸藩邸の者から注意があった。なので、往来をいく時は護衛に羽代藩士を必ず入れるようにという決まりができ、その決まりのおかげで外田や修之輔には、毎日のように護衛の任が言い渡されている。


 さほど待つ時間もなく侍者を伴った加納の姿が建物の内から現れた。階段に腰掛けていた中間の二人が立ち上がり、それで彼らが加納の身内だとようやく知れた。修之輔達も加納の近くへと歩み寄り、立ったままで一礼した。表の明るい日差しに目を細めた加納が修之輔と外田の姿を見とめ、一瞬、修之輔の方に視線を固定した。

「やっぱりなあ」

 などと外田が小さく呟く。だが加納は修之輔に向けた視線をすぐに外して、御苦労、と声を掛けてきた。淡白な加納の事なので、それだけで自分の駕籠に乗り込むのかと思いきや、そうではなかった。

「勉強になることはなったが、特にここにまで来て学ぶことではないな。弘紀様に御進講している時の方が勉強になることが多い」

 江戸で影響力のある思想家の話を聞いて、珍しく加納は常よりも気が昂ぶっている様子だった。外田が何と答えたものかと逡巡する間があって、結局黙礼一つで済ませることにしたらしい。修之輔も外田に倣ったのだが、加納が弘紀の名を出したことには軽く苛立ちを覚えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る