第8話

 茶店の店主は近づいてきた武士を見て、安堵の表情を浮かべた。

「これは酒井様のところの。いつもお世話になっております。どうか、お願いいたします、あそこでやっかいなことが起きそうで」

「今日は非番の日なのだが」

「そうおっしゃらずにどうぞお助け下さい。ここは鳥居の内、山王様のご神域でございます。人の血が流れるなど以ての外。お頼みできるのは酒井様のご家中の方々しかございません、なにとぞ、岩見様」

 店主に泣きつかれて岩見が向けた目の先に、今にも斬り合いを始めそうな武士数人の姿があった。片方は先般より江戸の町を騒がせている薩州浪人に間違いはない。その相手はいかにもあか抜けない風体の数人連れで、江戸に来たばかりの地方の武士だろう。揉め事には慣れていなさそうだ。当人達同士で話をつけてもらうのが筋だと思い、けれど岩見はその中にひときわ目を引く秀麗な容貌の若者の姿に気づいた。あれは。


 己の身の上が明らかになっているこの場面、慎重に判断し、軽はずみな行動をしてはならないはずだった。けれど岩見の足は既ににそちらに歩き始めていた。


「市中での無暗な抜刀は禁じられている。双方、引け」

 突如、脇から掛けられた声の方へ、修之輔は視線を向けた。最近何度か見ている顔だった。

「ふん、どうしてそう鼻が利く。その顔、知っているぞ、新徴組の岩見」

「この間も我らの仲間を縛り上げただろう」

「仲間を呼ばなくてよいのか。いつもは群れで動いているではないか。一人で何ができる」

 薩州浪人だけでなく、江戸言葉を話す者もいる。物陰から現れた仲間と思しき者も合わせて三人。

 薩州浪人達の注意が岩見へ逸れた隙に、修之輔は弘紀に長覆輪をこちらに渡すよう手振りで示した。どうやら浪人たちは岩見と、というより岩見の属する新徴組とは対立関係にあるようだった。それは修之輔達の状況をやや有利にしたが、一方で浪人たちは皆、今にも鯉口を切ろうとしている。

 浪人達の新徴組への敵対心が事態を深刻にさせて、もはや斬り合いは避けられない雰囲気である。修之輔は岩見と自分が浪人たちに対峙するのが最善だと判断し、山崎に、事態を混乱させるだけの弘紀と外田を抑えているように頼んだ。


 修之輔がこれだけの判断をする間、岩見は一人で浪人達と向き合っていた。気迫と云えばそうかもしれない。だが、腕に自信がある、とは違う、どこか自分の生死を軽視するような振る舞いだった。

 この違和感は初対面の時にも感じた。しかし今それを吟味している余裕はなかった。

 修之輔は岩見に近寄り、囁いた。

「刃はすべて打ち払う。始末を頼みたい」

 こちらを見る岩見の目に、ふと感情の揺らぎが見えた。

「使えるのか」

 剣を、という言葉は省かれていた。修之輔は頷き、長覆輪を鞘のまま構えた。久しぶりのこの感触、この重さ。


「おや、若衆殿が相手か。その細腰ぐらいなら一太刀で両断できるやもしれん」

 どうやら様子見のように一人が前に出て、躊躇なく抜刀した。太身の刀身。独特の剣術に特化した刀だ。


 修之輔は、自らは動かずに相手が動くのを待った。薩州浪人というのなら、おそらく。


 猿声を上げ、相手が斬りかかってくる。ほとんど飛び上がりながら振り下ろされる重い剣戟は、斬るというよりも破壊するためのものだった。しかも一太刀だけではない。長覆輪の鞘に剣先を逸らされ、地面を抉った剣は直ぐにまた振り上げられて逆方向から振り下ろされる。一太刀ごとに体重を乗せ、打ち下ろされる剣の重さ。


 刀を受け止めて剣筋を流す長覆輪から、火花が散ったように見えた。すかさず修之輔は相手の脛を強く蹴る。刀に体重をかけていた相手は均衡を崩して前のめりになって地に伏した。その手の甲を柄の先で加減なく強く殴打する。骨を砕く感触があって、相手の刀を握る手が弛む。岩見の足がそれを蹴り飛ばすと、残りの浪人二人が同時に斬りかかってきた。


 この機会を見澄ましていた岩見が自分の太刀を素早く抜くと、相手は修之輔と岩見、どちらを狙うか一瞬の隙ができた。


 左。


 岩見が流す目線でその標的を判断し、修之輔は向かって右側の相手の太刀を止める。岩見は打ちかかる相手の刀を受けるだけでなく、強く打ち払った。体重を掛けて打ち込んでくるこの剣術では、刃を受け止めるだけでなく別の方向へ筋を変えると、使い手の体の均衡は失われやすくなる。慣れた手管に、岩見が日頃から似たような剣の使い手と相対していることが窺われた。


「背中を借りる」

 修之輔は短く岩見に告げ、そのまま自分の上体を預けた。岩見は脚を広げて修之輔の体を支える。修之輔は斬りかかってくる相手の刀を身の上ぎりぎりで止め、反動の勢いで相手の刀を打ち払った。あいた腹に岩見の刀身が当てられる。そのまま切り裂けば確実に命を奪うであろうその位置から、岩見は敢て刀を外した。


 手加減されたと知った相手が懲りずに岩見に斬りかかって、今度こそ岩見にその腕を切られる。修之輔が足を掛けてその者を地に転ばせて、岩見が膝で背を抑えつけた。間髪入れず首筋に刀を擬す。

「ここまでにしておけ。今日、俺は非番だ。見逃してやる」

 そう云って解放すると、押さえつけられていた者は直ぐに立ち上がり、何やら罵声を吐いてから他の者とともに逃げ去った。深追いをする必要は皆無だった。


「助かった。礼を言う」

 山崎の背の陰から弘紀が顔を出している。その無事な姿を確かめて安堵に緩んだ気持ちそのまま、修之輔は岩見に向けた自分の顔が笑みの表情を浮かべていることに気がついた。自分自身がこの表情に馴染みがないが、弘紀のあの華やかな笑みを知らず、模してしまっているようだ。

 このところ弘紀と過ごす時間が長いから、互いに互いの仕草が移っている。そんな心の言い訳は誰に向けたものであったか。


「……こちらも礼を言う。新徴組だと面が割れていながら不始末にならずに済んだ。連中は喧嘩を売る相手をいつも探している。気を付けて隙を見せないことだな」

 岩見が修之輔から視線を逸らせた。が、すぐにまた戻す。

「今日もこれから馬を牽くのか」

 修之輔は質問の意味を捉えかねて、岩見の目を見返した。

「そなたと前にも会ったな。秋生と云ったか。いつも市中見回りの時に馬を牽いている姿を見かける。良い馬だから目立って、気になっていた。羽代の家中だと聞いたように思うが」

「羽代上屋敷の馬を釆女ヶ原の馬場で毎日走らせています。こちらも何回か、市中を見廻る岩見殿を見かけておりました」

「剣を大分使うようだ。今度機会があれば、その腕を見せてもらいたい」

 単純に、弘紀を助けてもらったという恩と、垣間見た剣の腕前が同等であったことなどを考えて併せて、岩見の提案は悪くないもののように思えた。

「声をかけて頂ければ、日にちに都合を付けます。羽代の中屋敷近くの馬場には、ほとんど毎日通っているので、そちらに来てもらえれば」

「わかった。五日後の日中は時間が空くからその日に一度、その馬場に行く」

 岩見の精悍な顔に微かな笑みが浮かぶ。


 薩州浪人と対峙していた時の虚無が覗く表情とは違い、岩見の人となりが垣間見えるような表情だった。


 飯田橋の詰所に戻るという岩見に一礼し、修之輔は弘紀たちの元に戻った。


「前に道を尋ねた時はもう少しかたい奴だと思ったが」

 面識があるのか、と山崎が外田に訊きながら上屋敷への道を歩く。講武所に行く時に道に迷い、通りがかった岩見に道を聞いた経緯を外田が話すと、山崎は、へえ、と少し驚いたような声をあげた。

「あれが新徴組のお方か。秋生、酒井様の御家中とは懇意にしておいた方がいい。これも縁だ」

「新徴組を知っているのか、山崎」

 修之輔が山崎に応える前、外田が割り入るように問い掛けた。

「羽代を発つ前に田崎様から聞いていた。江戸に滞在中の注意事項と共に、彼の者達とは絶対にいざこざを起こさないようにと強く念を押されてな。江戸市中を守る幕府の家老、酒井様の預かりだから、刃向うことは幕府への反逆を意味するぞと脅された」

「そういうことはしっかり俺らにも伝えてくれ」

「その機会がなかったんだ。そもそも中屋敷に詰める藩士の外出も認めていないだろう。だが今後、何があるか分からんから、今夜にでも中屋敷にいる連中を集めて伝える。薩摩の者達にもできるだけ関わり合いにならぬようにとな」

 そうして山崎が外田の手元を指し示す。

「お前のその枕絵、ダシに使わせてもらうぞ。ただ呼ぶだけでは連中、面倒臭がって集まらんだろう。それを見せてやるといえばすぐに集まる」

 地面に落ちた後は風に吹かれて床几の下に潜り込み、今はほとんど汚れもないまま無事に手元に戻った枕絵を外田は眺める。

「俺の物だが」

「お前が厄介ごとを招いたんだろうが。貸すぐらいいだろう」


 外田と山崎が先ほどの緊張感もどこへやら、いつもの調子を取り戻して軽口を応酬するその後ろ、弘紀がずっと無言のままで歩いている。

 立ち回りこそあったもののなんとか大事にならずに済んだ安堵で、修之輔はその手を握るかわりに袖が重なるほど近く、いっそ肩を抱くようにして弘紀のすぐ後ろを歩く。

「……上手く、行き過ぎだ」

 弘紀が呟く声が聞こえて、けれど全てを聞き取れなかった。腰をかがめて弘紀に顔を寄せ、何と云ったのかもう一度、と催促する前、弘紀が腰に下げている長覆輪の鞘が、きらりと日の光を反射した。


 刀を振り下ろした人間の膂力りょりょくの強さか、それとも鋼の性質によるものか。これまでいくつもの太刀の刃を受け止めてきた長覆輪の鉄の延べ板の表面が、先程の剣戟で削られていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る