第7話

「見覚えあるなお前」

 いきなりの闖入者を一目見た外田がそう云う。

「羽代城の訓練で見かけた気がする」

 山崎も外田に同意する。弘紀がそんな二人に軽く頭を下げて、涼しい顔で自己紹介した。

「お二方にはお目にかかったことがあるのです。羽代家中の本多弘太です」

「だがお前、参勤の行列にはいなかったよな」

 下士の取りまとめ役である山崎が首を捻る。

「はい。行列には参加せず、羽代からの船の荷と共に、江戸に着きました」

 すらすらと弘紀の口から偽りの事情が語られる。このよどみなさ、練習をしていたとしか思えない。弘紀の思惑が既にあるなら、この場は弘紀に任せる他はない。修之輔は黙って成り行きに任せることにした。

 外田は疑いもせずに弘紀の言葉に頷いている。

「ああ、そういやあ俺らより前に船が着いてたな」

「荷を上屋敷に運んだが、そうか、お前はあの荷の中に入っていたか」

 山崎が揶揄う口調で弘紀を見るが、こちらも弘紀の云うことを疑っていない故の軽口だ。

「今は上屋敷の奥で雑用をしています。羽代でお世話になっていた秋生様がこちらにいるので、時々訪ねてきているのです」

 確りした口調の弘紀に、山崎は、お、と一瞬目を丸くして揶揄う口調を改めた。けれどどこか面白そうに弘紀を見ながら話し続ける。

「そうかそうか、いやなに、秋生一人で上屋敷ではつまらんだろうと心配していたが、おぬしがおれば多少は紛れるな」

「私一人で充分なのです」

 さあ、山王様に参りましょう、と何故か弘紀が音頭を取って出立を促すと、つられて外田も腰を上げた。

「おっと、これは巻いて袴帯に」

「二本差しならぬ三本差しか」

 丁寧に丸めた春画を言葉の通り腰に差す外田に、山崎が春画の場面をなぞらえた。


 上屋敷の門を出るまえに、弘紀の耳元に口を寄せて聞いてみた。

「弘紀、そもそもどうしてその恰好をしているんだ」

「今日は午後の執務まで少し時間が空くから、貴方に中屋敷に連れて行ってもらうつもりでこれを着て来たのです」

 交わす言葉よりも、互いの頬が触れるか触れないかの距離を嬉しがる弘紀が、どこか得意げに応えてくる。

「でも山王参りの方が楽しそうだから予定変更です」

 そして修之輔は、弘紀の腰に自分の長覆輪が差されていることに気づいた。

「その刀、重くはないのか」

 以前まで自分が使っていた長覆輪のその刀は、元が重い椿の鞘に金属の延べ板が貼られているので普通の刀よりかなり重い。腰に差すには少々コツが必要なのだが、弘紀は上手く差していた。長覆輪を支えるように差してある小太刀に工夫があるように見える。

「はい。自分の刀だと、今、貴方が差している物と同じになるので止めておきました」

 弘紀の云う通り、修之輔の大小は弘紀の刀と揃えて誂えられたものなので、別々の場所で見ればそうとは分からなくても、二人が揃う場所なら同じ刀を差しているのは直ぐに分かる。刀の銘だけでなく、鍔や栗形の細工も瓜二つなのである。ただ長さだけ、互いの身長に合わせてあるので少し違う。

「吉原にお忍びで通われる大名もあると聞いています。山王参りぐらいどうということもないでしょう」

 顔を期待に輝かせている弘紀の気を変えるのはほぼ不可能である。外田もいるし山崎もいるから、修之輔はそう自分に言い聞かせてみたが、不安はあまり減らなかった。


 半刻ほどで戻って来ると上屋敷の門番に伝えて通りに出ると、弥生二十日を過ぎた日差しは思う以上に強く、四人連れの頭上から降り注ぐ。けれど吹く風はひやりと肌に冷たくて、出歩くにはちょど良い。心地良い春の日に修之輔の心は多少紛れた。


 上屋敷を出て西へ向かう道は直ぐに上り坂になる。潮見坂という名のその坂を越えて、弘紀が振り向いた。

「どうした」

「ここから上屋敷の全体が見えます」

 確かに、この高さからだと門や長屋塀だけでなく、御殿の屋根も見えた。ただ他の建屋の屋根が重なっているので、細かなところまでは見えない。

「ここから見えるということは、御殿からもこの辺りが見えるということですね。戻ったら確かめてみます」

 弘紀が楽しそうにそう云って、修之輔を見上げてきた。春の風がその前髪を揺らせて、隠していた黒曜の瞳が笑みに煌めいている様子が見えた。

 坂は途中で裏霞ヶ関坂と名前を変えて、その突き当りにある辻番所を過ぎると次第に山王神社の賑わいが伝わってくるようになる。参道入り口の大鳥居を潜った先には茶店が床几を並べて、通りがかりの町人や参拝客が足を休めている様子が見えてきた。

 数年前に大名の奥方が国へ帰ることが許されて、大名屋敷の多くが無人になったり人が大幅に少なくなるなど武家屋敷の辺りにはどこか隠し様なく陰りが見られる。だが町人の訪れが絶えない店の活気は、見た目には衰えていないようだった。


 体の大きな山崎と外田が並んで先を歩き、彼らの後ろに弘紀の小柄な姿を隠すようにして修之輔が後ろを行く。なるべくその姿を目立たせないようにと気を配っていたのに、その弘紀自身がふいに強く修之輔の袖を引いて立ち止った。

「あれを飲んでみたい」

 そう云って弘紀が指し示す先には甘酒ののぼりが建てられた掘っ立て小屋がある。外での飲み食いはさせたくないのだが、

「甘酒か。いいな、一杯飲んでいこう」

 山崎が懐から小銭を出した。弘紀も袴帯に下げていた巾着から小銭を取り出す。やけに準備がいい。二人がそれぞれ売り子に小銭を渡し、甘酒の入った湯呑を持って床几の空いている場所を探していると、姿が見えなくなっていた外田が戻ってきた。

「そんなに甘いもの、よく飲めるな」

 そういう外田は団子を一本、手に持っている。それをみた弘紀がすかさず修之輔を見上げてきた。

「あれも欲しい」

「わかった、買ってくるからその前に」

 修之輔は弘紀の手から甘酒の入った湯呑を取り上げて、一口飲んだ。簡単ではあっても毒見は必要だ。弘紀が首をちょっと傾げて、しなくてもいいのに、と小声で云い、修之輔から返された甘酒に口をつけた。

「甘い。おいしい」

 弘紀の素直な感想に山崎が相槌を打つ。

「うん、味がちゃんとしている。羽代の雑なつくりの甘酒もいいが、こちらもうまいな」

 甘いものが好きな二人は、一口ごとに頷きながら甘酒を飲んでいる。修之輔は外田が団子を買った茶店を教えてもらい、団子を二串買った。なんでも野田の醤油を使っているから香りが違うというのが売りらしいが、山崎はいらない、という。

「それっぽちの団子、食えば食っただけ腹が空くから、儂はこの甘酒だけで良い」

 そんな山崎の言葉を聞きながら、弘紀は修之輔の手から団子の串を一本取った。そしてこちらに串の先を向ける。さっきの甘酒に倣って毒見をしろということだろう。

 修之輔はそのまま、いちばん先端にある団子を一つ口に入れた。なるほど、それが売りだけあって醤油の香りが香ばしく団子に絡んでいる。修之輔は自分の手にあるもう一本の団子の串からも一つ、団子を食べて、その串も弘紀に渡した。

「こっちも食べていいんですか」

「ああ」

 弘紀はその返事を聞き、嬉しそうに団子と甘酒を交互に口にする。その様子を眺めていた外田が見たままらしい感想を適当に口にした。

「仲良いな、おまえら」


 すぐに甘酒も団子も食べ終わり、さっそく目の前、お社に続く石段を登り始める。急で長い石段だが、掃き清められ、整備されているので上りやすい。外田と弘紀がどちらが先に上り切るか競争を始めた。大人げないのはどちらもだが、たるむ腹を持て余すように足を進めている山崎が、息を切らしながら修之輔に頼んできた。

「秋生、頼む、あいつらから目を離すな。なにをしでかすか分からん」

 その山崎の言葉はもっともで、修之輔は足早に石段を登り切った。登り切った先の大きな門の脇、すでに辿りついている弘紀と外田の姿がある。弘紀が一歩早く到着したらしい。山崎が上ってくるまでには、上がっていた息も元に戻って境内の中に揃って入ると、日枝神社のお使いである猿の像が四人を出迎えた。


「山王様は猿がお使いか」

「狛犬やキツネではないのだな」

 そうそう、と外田が弘紀を振り返る。

「弘太、さっきの競争はお前が勝ったから、土産に札の一枚でも買ってやるぞ」

 弘紀は臆することなく、ありがとうございます、と礼を云う。自分の分と弘紀の分、二枚のお札を手に入れた外田がつらつらとそれを眺めた。

「そういえば中屋敷の近くには、犬がお使いをしている神社があったなあ」

「外田、おまえ、もうすでに犬のお遣いが書かれた札を持っていなかったか」

「ああ、町の奴に貰ったものがある」

「犬猿の仲にはならんのか」

 そういえばそうだな、と外田が首を捻る。

「だがあれは犬ではなくて狼では。大口さまと町人は呼んでいたが、犬は大口とは呼ばんだろう」

 外田はあまり深く考えずに貰ってきたようだ。

「犬猿のなかとは言うが、狼はどうなんだろうなあ」

 山崎が猿の石像を見ながらそんなことをいった。


 参詣を済ませても、上屋敷に呼ばれた時間にはまだ間があった。

「どうする、溜池のドンドンとやらを見に行くか」

 山王神社は崖の上に立っていて、その下には溜池がある。溜池の水が流れて落ちる場所があり、大きな水音がするのでドンドンと呼ばれて名所になっているらしい。そんな外田の説明に、山崎が唸る。

「行ってもいいが、かなり坂の昇り降りがあるんじゃないのか」

 まだここから足を延ばそうとする二人の会話に、修之輔は言葉を挟んだ。

「俺は先に弘太を連れて戻る」

 弘紀が不満を隠さない顔をするが、これ以上はさすがに無理だと思った。なるべく何事も起きないうちに弘紀を上屋敷に戻したい。修之輔の言葉に、山崎が下士の取りまとめ役である己の立場を思い出したらしく、儂も戻る、と云った。そうなれば外田もそれ以上のことは言えない。


 四人が揃ってさっきは下った山王神社の参道の坂を上る途中、弘紀は歩きながらも周りをあちこち眺めている。まだ町の様子を見足りていないのは分かるのだが、長い時間、この状態で出歩くことはできない。

「この先は右に曲がれば上屋敷だったな」

 先を行く外田と山崎が振り返って修之輔に訊いてきた。

「はい、右に曲がってすぐ次の角を左に」

 焦る気持ちが返答に出て、少し声が大きく、そして弘紀から目を離したその一瞬の間に。

「あ」

 弘紀が通りすがった者にぶつかって転んだ。普通ならば互いに除けてぶつからないはずの距離なので、おそらくは相手が意図的にぶつかりに来た行為だった。修之輔が弘紀を直ぐに助け起こすその傍らで、外田がぶつかってきた相手を呼び止める。

「おい、ちょっとは周りに気をつけろ」

 直ぐにその場を立ち去るわけでなく、むしろニヤニヤと笑いながらこちらを眺めていたその相手は、外田の言葉に目を細めた。

「ぶつかるような所に、ぼうっと突っ立っているのが悪い。田舎者は何につけ鈍いな」

 嘲笑うような口調と態度で、外田の頭に瞬時に血が上る。

「なんだと。その愚弄は聞き捨てならん」

 刀の鞘を掴む外田の様子にも相手は怯まない。その時、外田が刀と共に袴帯に差していた丸めた紙が地面に落ちた。


 白日の下、地面にはらりと広がるのは、刷りも鮮やかな枕絵の数枚。

 相手がより大きく笑い声をあげる。


「女遊びもままならない浅葱裏が、これで自分を慰めるか」

 このやろう、と外田が低く呟いて刀の柄に手を掛ける。

「秋生、めて下さい」

 さすがに弘紀も危機感を持ったらしく、この場を納めるように修之輔に命じてきた。

 分かった、と頷いて、修之輔は外田の側に寄り、柄にかかる外田の手を抑えて下がるようにと促した。そして修之輔と対面した相手は、背は高くないが体つきは頑強だ。身に付ける着物の粗末さ、だが刀は異様なまでに手入れがされている。眉毛は太く掘りの深い容貌、独特の言葉の訛り。

「薩摩の浪人か」

 小声で呟く山崎の声が聞こえた。その様だとは修之輔も察している。

「連れが無礼をした。すまない。我らこれから用事がある。先を通してもらえないだろうか」

 なるべく穏便にこの場を納めようとした修之輔の言葉が終わるその前に、薩摩浪人は外田に向けて声を上げる。

「こいつはワ印のみならず、見目麗しい若衆までも連れまわすか。よほどの好きモノだな。おまえもあの田舎侍に夜ごと突かれて昇天か。儂ら薩摩者の方が若衆の扱いには長けている。いい思いをさせてやるぞ、こいつを見限ってどうだ今夜」

 いきなり顎を掴まれて、体ごと引き寄せられた。だが修之輔は足を開いてその場に留まり、上半身を強く捻って相手の手を振り払った。刀を使う争いは絶対に避けなければならない。相手の挑発に乗って刃を抜けば、当人だけでなく藩自体が咎めを受けることがある。

 だが。


「無礼者!」

 大きくひと言上げて、いきなり弘紀がその場に飛び込んできた。外田と同じくらいに殺気立っていて、既に自分の腰にある長覆輪の柄に手を掛けている。刃を抜かないのは自制しているのではなく、刃を鞘に固定する長覆輪の仕掛けを解除できていないだけだ。その証に弘紀の指は刃を抜こうとする動きをもどかしげに何度も繰り返している。

 こうなってしまえばこの場を修之輔一人が納めるのは既に無理だった。修之輔は山崎に手短に頼んだ

「ひと走りして上屋敷から人を呼んで来てほしい」

 山崎が頷いてその場をそっと離れようとする。その行く先を、遮る人影があった。

「おっと、仲間を置いてどこに行くつもりだ。逃げようとしてもそういうわけにはいかぬぞ」

 目の前の相手と似たような風貌。もしや、初めからこちらを嵌めるつもりだったのだとようやく気付いた。


 辺りに漂い始める不穏な空気に町人たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ始める。

 店を置いて逃げるわけにはいかない近くの茶屋の店主が、救いを求めて辺りを見回すその目線の先。一人の武士が近づいてきた。

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