第6話

 弘紀に砲術の習得の中止を言われてから二日後には、修之輔は上屋敷用人の藤木に呼ばれ、代わりに護衛術を学ぶように言い渡された。

「ただ、護衛術の師となる然るべき相手を現在検討している段階だ。秋生は剣術の師範免許を持っていると聞いている。護衛術の修得先が決まるまで、上屋敷や中屋敷で羽代の家中相手に剣術の指導をしてほしい」

 修之輔自身もそれは願ってもない仕事だった。竹刀であっても振るう機会が無ければ腕は鈍る。指導の手当は出る、というが、江戸市中の剣道場の師範を呼ぶよりは身内で済ませた方が出資が少ないと、勘定方が算盤をはじたのだろう。


「秋生もどこかで聞き及んでいるかもしれぬが、今は江戸市中とはいえ、かなり治安が悪くなっている。市中で容易く剣を抜くことは勿論ご法度だが、そうでなくても心得があるとないとでは実際物事に対面した時の心構えも違ってこよう」

「それほどまでに市中は乱れているのですか」

 修之輔は、いつもならば黙って首肯するところだが、見知った藤木が相手という事もあって質問を差し挟んだ。藤木も特に気にすることなく、雑談のように返事を返してきた。

「薩摩や長州らが浪士たちを扇動して手当たり次第に揉め事を起こすことも頻繁にあるらしい」

「薩摩、長州ですか」

 どちらも羽代からは遠国で、伝え聞く話も稀な地である。だが弘紀からは度々、彼の地の者達が幕府の転覆を目論んでいるらしい、という事情は聞かされていた。

「彼らは自分の地位に不満がある浪士や他藩の下士を言説巧みに取り込んで、仲間を増やしているとも聞く。羽代の者達がよもやそのような言説に惑わされるとは思わぬが」

 双方ともに言葉を切ってしばし考えるのは羽代の下士である外田や山崎たちのことである。単純な彼らの事、思想云々のその前に、その場の勢いで何をしでかすか分からないところはある。


「まあ、中屋敷の中に閉じ込めておけば安心だな」

 軽い嘆息とともに出された藤木の言葉は、修之輔と同じ思考を辿った末のものだと察せられた。

「だが中屋敷は上屋敷よりも広いとはいえ、気づまりにはなるだろう。秋生、そういった面からも彼らに剣術の指導を充分にしてやって、気晴らしをさせて欲しい。そなた自身の武術修練についての詳細は後日、改めて伝える」

「わかりました」

 色々と頼んで済まないな、と労う藤木自身、本来ならば番方の修之輔の人事には携わらない役職のはずである。身分役職関係なく、使える者は何でも使えという羽代の方針は、ある意味、藩士を均等に扱っているとも言えるのだが、それにしても根本的に人材が足りていないように思えた。


 早朝に松風を馬場まで牽いて馬追いし、上屋敷に戻れば加納や西川といった羽代の重臣の護衛に呼ばれる。昼過ぎに護衛の任が終われば残雪を牽いて中屋敷に行き、藩士たちに剣術の稽古をつけた帰りに残雪の馬追いをしてから上屋敷に戻る。

 修之輔の江戸での日課は思ったよりも忙しないものになったが、数日たてば生活の調子に体が慣れてきた。


 その日は護衛の任がなく、普段より早めの昼過ぎに中屋敷に顔を出すと、いつもはすれ違って姿を見ない山崎が母屋の座敷にいた。

 山崎は他に数名の羽代藩士と共に築地の練兵所で西洋練兵術の訓練を受けているのだが、今日は荒れた地面の地ならしのため、訓練は一日休みらしい。

「秋生、久しぶりだな。どうだ上屋敷は。こっちと違って静かだろう」

 騒がしさをあまり好まない修之輔の性分を知っている山崎が、少々は気遣いをにじませながら笑みを浮かべる。

「そうだな。だがほとんど日中は外に出ているから、中屋敷も上屋敷もそうは変わらない」

「忙しいのに、こっちの指導もするとは大変だな」

 そう云う山崎が座敷にどっかりと腰を据えて立ち上がる気配を見せないのは、剣術の稽古には出ないということだろう。

「そうそう秋生、聞きたいことがある」

 声を潜めて手招きする山崎の傍に身を寄せた。

「おまえこっちに来てから寅丸の姿を見たか」

「いや、江戸に来ているという話はきいていても姿は見ていない」

 そうか、じゃあやっぱり見間違いか、と首をひねる山崎に何があったのかを聞いてみた。

「高輪近くで寅丸のような姿を見たんだが、どうも様子がおかしい。こそこそとしていて、こちらが声を掛けたら逃げたから、人違いかどうかも分からなかった」

 外田にも聞いてみるか、と独り言のように呟く山崎に、修之輔は訊いてみた。

「そもそもなぜ高輪に。砲術を習っている築地からは離れているのではないのか」

「ああ、砲台が置かれているお台場とやらを見に行ったんだ。凄いな、海の中に島を作ってそこに大砲をいくつも置いていた」

 参勤の道中ではじっくり見れなかったからな、と山崎が云う。

「あの辺り、薩摩の蔵屋敷があって船の出入りが多いんだ。黒船もいくつかあったが、それは薩摩の持ち物だということだった」

 はじめて目の当たりにした江戸の海の光景に、山崎は大きな感銘を受けたようだった。

 今は姿が見えない外田は、講武所で知り合った者のつてで町中の道場にも出かけているらしい。時折小林も一緒に連れて行ってもらうという。中屋敷からの外出を禁じられている周りからは随分羨ましがられているらしい。

 そんな中屋敷の話もいくつか山崎から手短に聞いてから、修之輔は母屋の一角にある板張りの広間に向かった。剣術の稽古はそこで行うことになっていた。


 中屋敷での剣術の稽古には、江戸勤番の者も混ざっている。羽代からやってきた者との話が互いに弾むようで、広間にはあちこち話の輪ができていた。

「薩摩のな、剣術が示現流というらしいのだが、それは凄まじいものらしい」

「脳天から割られると聞いた」

「でも小林さんから聞いた話だと、初太刀さえ避ければあとは打ち合いの勝負に持ち込めるそうじゃないか」

「その初太刀だろうが、問題は」

「しかしどうしてまた薩摩は幕府に対して刃を向けるようなことを」

「いや、薩摩よりもむしろ長州ではないのか」

「尊王はともかく、そもそも攘夷は幕府の昔からの政策ではなかったのか」

「どうしてそこから幕府を倒すという話になるのだ」

「わからん」

「ほんとうに、わからん」


 尽きぬ世間話をいったん止めさせて、まずは勝ち抜きの試合で個々人の力量を確かめることを伝えた。二試合が同時に行えるように広間の場所を指定して試合を始めると、最初の内こそ遠慮がちだった彼等も次第に声援を掛け始めたり、勝ち負けの勝負を楽しみ始めた。

 船荷の上げ下げの他、ずっとやることなく中屋敷に詰めていた者達にとって、良い息抜きになったようだった。


 夕方、中屋敷から上屋敷へと残雪を牽きながら帰る途中、今日も酒井様の江戸市中見廻り、新徴組の隊列が道の向こうから来るのが見えた。修之輔も新徴組も両者ともに時間に規則正しく行動しているので、ほとんど毎日のように遭遇している。

 尾張町と呼ばれているこの場所で、今日も修之輔は目線をやや下げて、彼らが通り過ぎるのを待った。

 陣笠の騎馬武士を先頭に足並みをそろえて規律正しく揃う隊列はそれだけでも一種の見物である。町人からの信頼を得るためには目に見える威容も重要であることを、この集団を預かる庄内藩主酒井氏は熟知しているのだろう。

 そうして列の中ほど、いつも決まった場所に先日出会った岩見と名乗る者が確かにいることにも気が付いて、その岩見の視線が修之輔に向けられれば、会釈を返すようになっていた。


 上屋敷で修之輔にあてがわれた長屋の部屋に弘紀がやってくるのも頻繁だった。執務の合間にやってくる時もあったが、だいたいは夜、修之輔を求めてやってきて、明け方まで留まることが多かった。羽代にいたときよりも弘紀に触れることができる夜の多さは、修之輔に昼間の任務の忙しさを忘れさせた。


 今夜も部屋にやってきた寝間着姿の弘紀は、なぜか枕絵を数枚、持っていた。

「どうでしょうか、これ」

「どうと云われても」

 弘紀が来た時には灯すことが習慣になった草花紋様の手持ち燈籠が、男女の睦言を赤裸々に描いた絵図を照らし出す。この枕絵は藩邸にやってきた城坊主が手土産に置いて帰ったものらしい。


「ご当主様はお若いから、こういうものもお好きでしょう」

 そういって袂で口元を隠し、ほほほ、と坊主は笑ったという。城坊主は将軍への謁見の仲介役をしており、彼らに相応の対応をしなければ大名であっても将軍に挨拶をすることすらできない。

 今は江城に将軍はいないが、慣例としての手続きを行うために先日の登城の時はこの城坊主が必要だった。城坊主が藩邸にやってきたのは、その時の報酬を弘紀から貰う為で、報酬への返礼として形ばかりに持参したのがこの枕絵だったのだという。

「こういうものよりも、商店が近所に配る引札のほうが私は見てみたいのだが」

 真面目に返事をしたつもりなのに、坊主は袖を下ろして弘紀の顔を窺った。

「引札。ほほほ、羽代の殿さまはご兄弟そろって同じことを申される」

 先代当主であった兄にもこの坊主は同じ様な物を渡していたらしい。慣例とはいえ、せめて菓子など食べて無くなる物ならいいのに、と弘紀は思った。

「兄が引き札を望んだのは私がそれを望んだからだ。江戸の商いの方法を羽代の商売の参考にしたいといって頼んだから」

 生真面目に返す弘紀をどう思ったのか、坊主は、愛想笑いを消さずに手に入りましたらお持ちしましょう、と言葉を返してきたという。


「それをどうしてここに持ってきた」

 修之輔が手元にある枕絵はひどく男女の陰部が強調されていて、見様によっては滑稽にさえ見えてくる。

「置き場所に困ったのです」

 置き場所に困ったからここに持ってきた、という弘紀の理由は分かるようでわからない。

「加ヶ里にあげようと思って見せたのですけど、こんなに一物が立派な殿方なんてそうそういるものじゃありません、と鼻であしらわれてしまったのです。男同士のもあると話に聞いていますから、あの坊主もそっちを持って来てくれればいいのに。今度頼んでみようかな」

 弘紀は修之輔の戸惑う様子を全く気にせず、どころか、こちらを上目づかいで見上げてきた。

「貴方とそれを見ながらするのもいいかなと思ったのですが」

 要らないだろう、と振り返り、背後の文机の上にその数枚をまとめて伏せると、ふいに弘紀が背中から腕を回してきた。肩に感じるのは弘紀の顎。頬を摺り寄せてくる温かな体温。

「貴方が抱くのは私だけ。他の者の姿を重ねないでくださいね」

 では何故これを持ってきたのか、それを修之輔が問う前に、弘紀の唇に口を塞がれた。差し入れられた舌を軽く吸うと弘紀のその身がより強く修之輔の背に押し付けられる。

「貴方は私のもの」

 それは、何故かと問わなくてもいい言葉だった。弘紀の体を引き寄せて、今夜も重ねる肌の熱さに、修之輔は思考の全てが甘く絡め取られていくのを感じた。


「暇だから遊びに来たぞ」

 次の日の昼が過ぎ、修之輔が中屋敷に向かう前に外田と山崎が上屋敷にやってきた。家老の護衛をするようにといわれてきたらしいのだが、ついでだ、と、わざと早い時間にやってきたらしい。修之輔の部屋に転がり込むのも予定の内だったと悪びれなく外田が言う。

「暇ではないな、未の刻には仕事がある」

 山崎の注釈にも拘らず、外田は部屋の中に上がり込んできた。修之輔が茶を出そうと火鉢に熾した火に土瓶をかけるその手間の間に、外田は文机の上の紙束に気が付いた。

「なんだあれ、見てもいいか」

 片づけるのを忘れていた昨夜の春画が、そこに重ねられたままだった。少し考えて、ここで断るのもおかしいと思い、構わないと外田に云うと、さっそく手に取った外田が、おお、と大きい声を上げた。

「秋生、おまえ隅に置けないな。どうしたこれは」

「御殿の者から渡されたのです。いらないから焚きつけにでも使おうと思っていたのですが、外田さん、欲しいならどうぞ」

 いいのか、と鼻息の荒い外田の様子に山崎も春画を覗き込んでくる。

「はあ、これは上物の刷りだぞ。上屋敷のお方々はこんなものにも金をかけるのか」

「俺が、秋生から貰ったんだ」

 さっそく今夜使うか、などと脂下がる締まりのない顔の外田を呆れがちに眺めてから、山崎が修之輔の方を向いた。

「それはともかく、秋生、確かここから山王様が近かっただろう。一緒にちょっと出て参詣に行かないか」

 そうそう、と外田が頷く。最初からそのつもりで来たのだろう。

「時間は大丈夫なのか」

 修之輔が山崎に聞き終わる前、大きな音を立てて長屋の戸が勢いよく開いた。

「山王参りになら、私も行く!」


 明け方にこの部屋を出て行ったばかり、今は加ヶ里に頼んで手に入れた古着を身に付けて、前髪を下ろした弘紀がそこにいた。

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