第5話

「講武所は、どうでしたか」

 文机の脇の灯明の火は既に消えていて、手提げ燈籠の淡い光が畳の上から部屋を照らす。二人ともに乱れた息が収まった頃、弘紀が修之輔の腕の中から聞いてきた。落ちかけているその襟を直してやりながら、まだ講習自体は始まっていないことを弘紀に告げた。

「今日は教本となる書物と火薬を買っただけだった。明日、築地の演習場でまずは銃の扱いについて学ぶことになる」

 それだけではなく、講武所の雰囲気なども弘紀は知りたいのだろう。そう思って、外田と出向いた時の講武所の様子を話して聞かせた。ふんふん、と弘紀は頷きながら聞いている。

「これまで俺は洋銃を扱ったことがなかったから、明日からの講習に備えて講武所で扱いを教えてもらった。今日、学んだことと云えばそれぐらいだな」

 弘紀がふいに身を起こし、修之輔を覗き込むように訊ねてきた。


「銃の形式、分かりますか」

「ゲベール銃だった。講武所の者は今、最も良く使われている銃だとも」

「先込めゲベール銃ですか。施条のない形式の」

 弘紀の質問の内容と、講武所で受けた簡単な説明、そして羽代を発つ前に弘紀の私室で見せてもらった銃器に関わる書物や図版の記憶を照らし合わせる。

「ああ。特に何も改造の施されていない銃だった」

「それが幕府の講武所で教授される銃、ですか」

 弘紀が起き上がって床の上に座り少し考え込む様子を見せたので、修之輔も体を起こして弘紀の言葉を待った。ほどなく弘紀が口を開いた。

「講武所での砲術習得については、他の者に任せることにします。貴方にはその能力に相応しい、他の技術を習得してもらいます」

 羽代の当主である弘紀の言葉に、修之輔は頷く以外の選択肢はない。他には、と、軽く顎を上げて無言のまま修之輔に尋ねてくるその様子は、臣下の報告を受ける弘紀の日頃の姿そのままだった。


 けれどその身に付けているのは着崩れた単衣一枚。鎖骨の陰影、立てた片膝から襦袢の裾は滑り落ち、脚の内側の柔らかな皮膚の質感が朧な灯りに浮かび上がる。

 支配者の気高さと見る者を惑わす色香が交錯し、心の内が騒めいた。


 修之輔が胸に兆す淫靡な衝動を抑えながら、弘紀の意向に沿うために語るべき事柄を記憶の中から選び出すその間、弘紀の黒曜の瞳はずっとこちらを見つめている。思わず湧いてくる唾を呑み込むその前に、早めに口を開いた。

「講武所に行く途中、道に迷った。そこで偶然にも江戸に来ている加ヶ里と会って道を教えてもらったのだが、それも違う道で、結局通りがかった者に道を聞いて、ようやく着くことができた」

 弘紀は加ヶ里の名を聞いても特に驚いた様子を見せない。加ヶ里が江戸にいることを弘紀は知っていて、それには何か思惑が絡んでいるようだった。ならば弘紀自ら語りだすまで説明は求めない方がいいのだろう。

 訊きたいことは、とりあえずこの場では飲み込んで、代わりに加ヶ里から託された青海波の風呂敷包みを部屋の隅から引き寄せた。

「自分で手に入れるように、と指示された銃の火薬は、帰りの足で麹町で買って、その後、加ヶ里が働く茶屋に外田とともに行ったのだが、そこでこれを託された。弘紀に渡す物で良かっただろうか」

 その風呂敷包みを見て弘紀は表情を綻ばせ、見るからに嬉しそうな笑顔で受け取った。


 加ヶ里から預かった物が弘紀を喜ばせていることに、微かに、けれど打ち消しようのない嫉妬が自分の胸の内にあることを修之輔は自覚する。

 弘紀に気付かれない程度、そっと視線を逸らす修之輔の様子に気づかずに、弘紀は嬉々として風呂敷包みの結び目を解いている。修之輔は自分の気持ちの置き場に戸惑い、けれど取り出されて置き燈籠の灯りの中に広げられた物、それを見て思わず弘紀の顔に視線を戻した。

「弘紀、それをどうするつもりだ」

「もちろん、私が着るのです」


 弘紀の手の内には地味な藍黒一色の小袖と霰小紋の袴があって、それらは普段弘紀が身に付けている物とは比べ物にならない質素さだった。まるで修之輔達、下士が着ている様な。

「加ヶ里に言っておいたんです、江戸の古着屋で手に入れておいてほしいと」

 少し大きいかな、と肩のあたりを検分している弘紀に、まさか、と思いつつ聞いてみる。

「弘紀、それを着て屋敷の外に出るつもりか」

「私だって、江戸の町を見てみたいのです」

 弘紀が江戸見物を楽しみにしていることは充分知っていたが、しかしこれとそれとは話が違う。

「ここは羽代城ではないのだから」

「お堀の内側は江戸城ですよ」


 その堀の内側がどれだけ広いか。呆れる修之輔を脇に置いて、弘紀はとても楽しそうだ。それ以上弘紀に何を言っても無駄な気がして、ならばと成り行きの勢いで、先程は飲みこんだ加ヶ里について尋ねてみた。

「その加ヶ里は、なぜあそこで茶屋を出している」

 弘紀がふと、真顔になった。

「実はですね、先ごろから羽代領地内で流通している藩札の数が減少しているのです」


 その数は羽代の経済状況の大勢に影響を与えるものではないが、ちりも積もれば山となる、また何者かの意図が無ければ生じない減り方だった。警戒するように、と勘定方から報告があったという。

「その報告があった後、江戸屋敷の者から、江戸で羽代の藩札が見つかった、との報らせが来たのです。羽代で最近始めた茶の専売にも関わりがあるのではないかと、今、加ヶ里に茶の販路の調査をさせているのです」

 羽代藩札の発行と茶の専売は、弘紀が行った改革の柱だった。不都合が生じる前に問題を把握しておきたい、それが弘紀の望みだという。いろんなことがあって、なかなか気を抜くことができないのです、と弘紀はため息を吐くが、その手元には古着の小袖と袴が広がる。

 弘紀自らが余計な問題を持ち込むことになるのではと、修之輔が少々苦言を言おうとしたところで時を告げる鐘の音が聞こえてきた。


「そうそう、明日私は江戸城に登城します」

 何気ないように弘紀が漏らしたその一言が、先ほどからの会話の内でいちばん大変なことだった。

「御殿に戻らなくてはいけないのでは」

 焦るのは修之輔のみで、弘紀は全く意に介していない。どころか、こちらを軽く睨んできた。

「貴方は明日、ここの留守を守るのでしょう」

「そう指示されている」

「明日は一日会えませんね。じゃあ、もう一度」

 そう言って弘紀が修之輔の肩を押して、上に覆いかぶさってきた。

「弘紀」

 弘紀の小柄な体を避けるのは造作もない事。けれど、弘紀の指が修之輔の単衣の奥に伸ばされて、腰の傷に直接触れてきた。ゆっくりと撫で上げてくる感触に思わず声が漏れる。

「あと一度、いいでしょう?」

 囁く弘紀の声。腰を這うその指。どうしようもなく息が早くなっていくのが自分でも分かった。いや、耳にかかる熱く早い息は弘紀のもの。


 素肌の足が絡められて互いの皮膚が擦れ合う滑らかな感触。弘紀が緩やかに腰を前後に揺らして修之輔のそれに自分のものをあててくる。弘紀の腰を掴んだ自分の手の平にしなやかな肉の伸縮が伝わり、腰の傷を撫でてくる感触は修之輔のそれに直接の刺激をもたらしてくる。

 

 衝動を抑える気は元から無く、修之輔は弘紀の両肩を掴んで体を押し倒し、自分の下に引き入れた。


 汗と体液にまみれた肌が立てる音。皮膚を這う指。口腔を塞ぐ舌。


 修之輔から与えられる快楽に蕩けて滲む弘紀の瞳を覗き込めば、弘紀のこの体、その心が今、自分だけの物であることを確かめたいという思いだけが胸を占める。

 意識がかすむような強い快楽に二人して身を任せたその後は、体を繋いだそのまま、しばらく昏睡のような眠りに落ちた。


 夜は明けなくても楠の葉陰に鳥の声が聞こえ始めた頃、弘紀は御殿へと戻っていった。


 明けて巳の刻には、羽代当主参勤の報告のため、弘紀は江戸城へ向けて上屋敷を発った。

 朝永家上屋敷は江城桜田門には目と鼻の先にある。しかも大大名の屋敷前を通るとあって、行列の人数を不必要に大人数にするわけにはいかない。修之輔は上屋敷での待機を命じられていたが、他にも今日の行列に加わらない者は多かった。


 行列が発った後、上屋敷は急に静かになった。

 手持無沙汰に厩に足を向けると、厩番の中間が喜んで修之輔を出迎えた。当主の馬の手入れをしたいのだが、松風が見知らぬ人間を寄せ付けないのだという。残雪は今日の行列に加わっているのでその姿がない。

 中間に誘われるまま厩に入り松風の様子を見ると、確かに、明らかに、苛立っていた。これでは修之輔であっても手入れをすることは難しい。その前に松風を思い切り走らせてやることが必要だと思った。

 

「どこか馬を走らせることができる場所はないか」

「中屋敷の近くに馬場がありますから、そこでなら」

 そういえば土地が開けた場所があったかと思い出して、そこに行ってみることにした。厩番に頼んで上屋敷の中に伺いを立てると、当主である弘紀が城府から戻らない午前の内なら松風を外に出しても構わない、との返答があった。

 厩から出ることにも抵抗する松風を何とか外に牽き出し、鞍を手にしたところでようやく松風はそこそこ状況を察したらしい。少しは大人しくなって修之輔の引き綱に従って歩き始めてくれた。

 

 中屋敷の側にあるのは采女ヶ原馬場うねめがはらのばばという。修之輔と同じく、屋敷内で飼っている馬を走らせるためにやってきた者や、乗馬の練習をする者が既に何人かいた。様子を見ながら馬場内でしばらく松風を走らせる。気を抜くと他の馬に絡もうとする松風を見て、今度は残雪も一緒に牽いてこようと思い、どうやらここでの毎日の馬追いが上屋敷での修之輔の任務になりそうだった。


 馬追いを終えて、馬場の外に出ていた屋台で天麩羅を何本か買ってみた。中屋敷に行くと、今日の門番は羽代での顔見知りで、穴子の天麩羅一本と引き換えにすぐに中に入れてくれた。母屋の座敷を覗いてみたが、山崎と外田は今日の行列に加わっているので姿がない。

 母屋の奥から長屋の中庭に出ると、数人が碁盤一つを囲んでいるところに出くわした。


「秋生、何を持っている」

 鼻の利く者がすかさず口にしたその言葉に、他の者も碁盤から顔を上げた。

「ここに来る前に買ってきた天麩羅だ。穴子と海老がある」

 なんだ、秋生に銭を払えばそれを食えるのか、と早速二、三人が懐を探り始める。

「銭ではなくて、握り飯と交換してもらえると有難いのだが」

「あるある、むしろ握り飯しかない」

 一人がそんな声を残して一旦姿を消した後、戻ってきた手には握り飯が並んだ盆があった。

「醤油とな、味噌をつけて焼いてある」

 米の炊き方にすら戸惑っていた初日の様子に比べれば、目覚ましい進歩だった。天麩羅と引き換えに、醤油と味噌の握り飯を一つずつ貰う。米の炊き方は問題なく、やることの無い手持無沙汰は、何人かの興味関心を確実に料理へと向かわせているようだった。


 上屋敷との約束があるので長居をするわけにはいかず、情報交換とも言えない雑談を交わした後、修之輔は中屋敷を辞し、松風を牽いて外に出た。


 そうしてちょうど午に上屋敷に戻っても、当然のように弘紀はまだ江戸城から戻ってきていなかった。自分の長屋に戻る前、御殿の者に声をかけられ、御殿の中の掃除の手伝いを頼まれた。通用口から御殿の中へ入って刀を屋敷詰の者に預けると、当主がいる時にはできない庭廻りの掃除をしてほしいとのことだった。


 始めて入る上屋敷御殿の中は、戦国の要塞の趣を残す羽代城とは違い、繊細な装飾が華やかで美しい造りだった。黒河で弘紀が過ごしていた建物に似ていて、どこか懐かしい気持ちも覚える。

 修之輔が最初に掃除をするよう言い渡されたのが、庭に面した廻廊だった。床板は艶やかに磨かれている。廻廊の隅に溜まっている埃を柔らかなハタキで払い、固く絞った雑巾で拭いていく。

 拭き掃除の合間に目を上げると、春の日差しが落ちる庭の池には藤棚や菖蒲の影が映り、微かに水の流れる音も聞こえてきた。花のつぼみはどれも膨らんできていて、月が替わればこの庭は春を謳歌する花の競演が見られるのだろう。


 弘紀が普段、生活している空間。

 自分が勝手に入ることは許されていない場所。


 胸の奥、どうしても消せないひとかけらの小石のような凝りを紛らわそうと、修之輔は視線を庭から離して回廊の向こうを見た。主がいない間に、弘紀の居室も掃除しているらしい。襖障子が開け放たれたその部屋の中に目をやると、床の間に見覚えのある刀が置かれていた。

 修之輔が弘紀に預けた長覆輪の鞘の太刀。そして一昨日、弘紀に渡したばかりの大森の麦藁細工の鳥。


 ふと心に兆した寂しさは、修之輔から渡されたものを側に置いてくれている、弘紀のそんな振舞い一つで心の内から軽く吹き去る。


 掃除の他、上屋敷内の雑用を言われるままにいくつか片付けた。夕方近くになってようやく、弘紀が江戸城を下がり、そろそろ屋敷に戻ってくるとの知らせが屋敷に届いた。玄関前を掃き清め、上屋敷にいる者はすべて表に出て当主を迎える準備をする。しばらく待つと火を入れた提灯を先頭に、弘紀の駕籠が屋敷門を通って戻ってきた。

 駕籠を下りた弘紀の姿は頭に烏帽子を置いた直垂姿、紺瑠璃の色合いが上屋敷玄関の篝火に映えて、それは譜代朝永家当主に相応しい出で立ちだった。表情はいつもと変わりなく、けれど一日がかりの登城の任務のせいだろう、かるく奥歯を噛むような表情は、あくびを噛み殺している顔だった。


 弘紀の登城が済めば公式の役目は一段落だがそれでも付随する行事がいくつもあって弘紀が忙しい身であることには変わりはない。けれど。


 翌日の夜、修之輔が日記をつけていると、御用門の戸の鍵が外される音が聞こえた。軽い足音の合間に、春の夜風に揺れる楠の葉が鳴る。


 江戸にいる間、自分はあの音をずっと心待ちにするのだろうと修之輔は思い、それはやがて確信に、弘紀の存在に縛られる甘やかな呪縛の快楽へと変わっていく。


 長屋の戸を小さく叩く音。修之輔が手持ち燈籠に灯りを移して戸口に向かう、その光の移ろいを応の返事ととって、弘紀が部屋の中に入ってきた。言葉は要らず目を見交わすだけ。互いの望みは分かっている。手を引き寄せて枕屏風の向こうの床に二人して縺れこんだ。


 今宵もひととき、互いの熱に溺れるこの時間。


 溺れる、という言葉が最も近い感覚だと、弘紀の素肌と息の熱さにのめり込みながら、修之輔は霞んでいく理性でそう思った。

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