第3話

「そこの者、尋ねたいことがある」

 何も気づかずに話しかける外田に、加ヶ里は切れ長な目を軽く細め、紅を付けた唇で莞爾と表情を綻ばせた。外田の表情が目に見えて緩む。

「あらまあ、羽代の外田様ではございませんか。お久しぶりでございます。秋生様も」

 さすがに外田は驚いて、自分を知っているのかと聞き返した。

「あら、わたしのことをお忘れですか。羽代で私が出ていたお店には何度も足を運んでくださいましたのに」

「おぬし、羽代の者か。何故ここに居る」

 警戒よりも前に、見知らぬ土地で国許所縁の者に会えた喜びの方が勝ったらしい、外田が気楽に話しかける。

「店の主人が茶の商いも始めまして、茶を売る先を見つけて来いと、店の者ともども江戸に寄越されました」

「ああ、先だっての弘紀様の改革で茶の商いを新たに始める商人が羽代に増えたと聞いたが、それか」

 はい、と加ヶ里がまた微笑む。

「麹町に小さな茶屋を開いて、そこで羽代の茶をお出ししております。外田様もよろしければ是非お寄りくださいませ」

 分かった麹町だな、と外田が食い気味の返事をした後、本来の用事を思い出したらしい、ようやく加ヶ里に質問をした。


「そなた、江戸に来てしばらくたつのなら、講武所にはここからどう行ったらいいか分かるか」

 加ヶ里は少し首を傾げた。

「講武所、でございますか。足を向けたことはございませんが、こちらの道ではございませんか」

 そう云って左の道を指し示す。

「お武家さまが集まっているところといえば、こちらのほうにそんなお屋敷があったような」

「ほう、そうか。ではこちらに行ってみるか」

「あらでも外田様、わたしもまだ不案内なところがございます。もしまた道が分からなくなったら、どうぞ他のお武家さまにお聞きくださいませ。お武家さまが町人、女子供に軽々しく声をお掛けになるのは、およしになられた方がよろしいかと」

 分かった、と外田は頷き加ヶ里に礼をいう。外田はもう少し加ヶ里と話をしたそうだったが、それでは、と頭を下げた加ヶ里の方が足早にその場からいなくなった。

 

 

 そうしてしばらく加ヶ里に示された道を行ったが、いっこうに講武所らしき建屋敷地は見えてこない。どころかどうやら町に入ったようで、これは完全に道を誤ったようだ。

 もう一度誰かに道を聞こうと周囲を見回し、町人や女子供には聞かないほうが良い、といった加ヶ里の言葉を思い出す。ならば武家に、とはいっても、自分たちより身分が上の者に気軽に声を掛けるわけにはいかないだろう。

 道を聞く相手に迷って、二人して道の端で足を止めた。外田が役に立たない地図を無駄に開いたり閉じたりしている。修之輔が、どうしたものかと辺りを見回すと、左手の坂を降りてくる人影があった。

 浅葱色の揃いの羽織を着た三人組。揃いの衣装は、それほど身分の高くない下士に国元が支給する、いわば制服である。ならば彼らの身分は修之輔や外田とそう変わらないはずだ。


 だがもう少し見極めてから、と修之輔が思ったその時点で、外田が浅葱羽織の彼らを呼び止めた。

「申し訳ない、道を尋ねても良いだろうか」

 気軽な外田の口調に、三人組の内の二人がやや緊張した気配があった。だがもう一人は動じずに外田に応える。

「どこに行く」

 低いがよく通る声だった。

「講武所へ行きたいのだが、道に迷った」

 外田に応えた者の眉が少し上がり、従っている二人の緊張が強くなる。修之輔は外田の袖を引いて後ろに下がらせ、自分が前に出た。

「羽代家中、秋生修之輔と申します。こちらは同じく羽代家中の者。我らは朝永讃岐守の参勤に従って先日江戸に着いたばかり、土地に不案内で道に迷いました。上屋敷から講武所への書状を運ぶよう言いつかっているのですが、ご存じであれば講武所への道筋を教えて頂けませんか」


 面を伏せてこちらの事情を説明してから、対面した相手の顔を見た。濃い眉の下の鋭い眼光が印象的な、精悍な顔立ちの男だった。自分よりは少々年上、外田と同じくらいか。

 どこか見覚えがある顔だと、ふと思った。

 

 眼の端を過って春の空を飛ぶのは、気の早い燕の翼影。


 黒河の幼馴染、大膳に似ているのだとそう修之輔は気づいて、それはそのまま先日の夜の記憶、揃いの扇子を江戸で買おうと言った弘紀の言葉を思い出させた。


 ――どんな図柄がいいか、考えておいて下さいね 


 うっかり岩見と名乗る男と視線を合わせる時間が長くなってしまった。無礼を詫びるつもりで、目を伏せてそのまま黙礼し、外田を振り向こうとして、修之輔は相手の視線が自分から外れていないことに気がついた。

「何か」

 もう一度、目を合わせ尋ねる。一瞬、相手が纏う気配に似合わぬ隙が見えた気がした。

「いや」

 訝しんで見返した修之輔の目線に岩見が目を逸らす。再び修之輔を見た目には、先ほどの厳しさが戻っていた。

「我らは江戸市中見廻り組酒井様の配下、新徴組の者だ。俺は岩見清十郎という。講武所ならばこの道を進み、煙管を売る小間物屋の角を右に曲がれば良い」

 岩見と名乗ったその男の余裕ある物腰には、どこか出自の良さが垣間見えた。江戸で雇われた浪士ではなく、庄内藩直参の藩士だろうか。けれど酒井家のカタバミ紋がつかない浅葱の羽織。身分のある物が身に着けるものではなかった。そのちぐはぐさが気になった。


 礼を言って頭を下げ、道を歩きはじめる。

「なんだあいつ、まだこっちを見ているぞ」

 後ろを気にする外田が度々文句を言うが、岩見という男はともかく、他の二人が外田を警戒しているのは明らかで、修之輔は早くこの場から去ろうと足を早めた。


 道に迷いはしたものの、約束の時間には飯田町の講武所に着いた。門内に入ると用向きを聞かれ、修之輔は山崎から預かってきた書状を渡した。それは講武所での修行を願う申請書だったが、中を改めるというのでその間しばらく外田と二人、建物の入り口で待たされた。


 敷地内には多くの者がいて、槍や薙刀を持つものもいる。床を踏む足音と猿声も聞こえるので、剣術をやっている場所もあるのだろう。だがどうも雑然としている。

「講武所とはこのようなところか」

 外田もおなじような感想を持ったらしい、修之輔に小声で囁いて寄越した。

 その時不意に、二人の間を後ろから通り抜けようとする人影があった。肩に強く当たられて、修之輔は思わず眉根を寄せた。あまりにも不自然で体に当たりにくるための動作としか思えない。

「おっと、あんた、待てよ」

 外田がかなり険しい口調で通り過ぎようとした男の腕を掴んだ。

「外田さん」

「こいつ、俺の懐から掏ろうとした」

 すまんな、何も入っていないんだ、などと、よく聞けば何の脅しにもならない言葉だが、その口調には凄みが滲む外田の言葉に腕を掴まれた男は舌打ちする。

「手を離せよ、田舎侍。こっちは直参旗本だ。無礼にもほどがあるぞ」


 互いに引かずに揉め事になりそうなところで、講武所の雑事方がやってきた。またか、という言葉に、旗本を名乗った男は再び舌打ちして外田の手を強く振り切り、その場からいなくなった。

「申し訳ない。ここには手癖の悪い者も紛れ込んでいる」

 煙管入れや財布ならまだしも脇差や刀を取られた者もいて、先年は盗みの現場を見つかった者が甲州送りになったという。

「なんだあ、江戸の旗本というのはもっと確りしているものだと思っていたが」

「絵や物語の草紙に書かれている旗本は過去のもの。今は御家人旗本と云えども破落戸まがいに落ちぶれた者が少なくない」

 淡々と言って寄越す雑事方は、書状の改めが済んだから明日からでも講武所での稽古に参加して良い、と伝えてきた。

「参勤で江戸に来たばかりなら、市中をうろつくあのような者には充分に注意したほうがいい。もっともこの頃は酒井様が見廻ってくれるから大分状況は良くなったが」

「酒井様?」

 どこかで聞いたばかりだな、と外田が視線を上に向ける。

「庄内藩酒井様預かりの江戸市中見廻り組のことだ。庄内の者が多いが、それとは別に新徴組という隊もある。だが江戸の者はまとめて酒井様と呼んでいる。日に何度も江戸市中を見回りしているから、見かけることも多いだろう」

 さきほど道を尋ねた岩見と云う男が名乗った肩書きと同じだ。そうして修之輔が品川で遭遇したカタバミ紋の御用提灯の一団のことを思い出して、それの事かと訊ねてみると、そうだという。

「通りで出くわしたら素直に脇に除けた方がいい。見廻りの邪魔になれば講武所の師範だろうと酒井様は容赦がないからな、その場で斬られるぞ」


 結局、申請書を提出しただけで今日は講武所を出ることになった。雑事方に道を確かめて雉橋御門まで辿りついき、振り返ってみれば朝に迷った左右の道のうち、加ヶ里が示したのとは別の方、右の道が正解だった。

「これはあの女子おなごの店に行き、不始末を茶代で出させないとな」

 怒るよりも加ヶ里がいるという茶屋に顔を出す口実ができて、外田は機嫌がいい。


 中屋敷に戻ると山崎に呼ばれた。上屋敷から伝令が来て、修之輔の配置を上屋敷に変えるという。心待ちにしていた、おそらくは弘紀の差配によるその指示を受けて、修之輔は直ぐに長屋に戻って上屋敷に移る支度を始めた。その修之輔のまわりで暇を持て余している同室の者達が適当なことを言ってくる。


「上屋敷かあ。窮屈ではないのか」

「むしろ下屋敷の方が良いものだ。あそこは江戸の外れとはいえあの内藤新宿だからな」

「ああ、俺らもむしろ下屋敷の方が良かったなあ」

「秋生がいなかったら俺たちの飯はどうなる」


 米の炊き方をもう一度、紙に書きつけながら彼らに教えた。往来の棒振りから物を買う手段も教え、そうして硯や筆を小さな文箱にしまって身の回りのものを風呂敷包一つにまとめると、修之輔は中屋敷を出た。


 夕暮れの空は半天が既に群青色、だが灯りは未だ灯されていないのがいくつもあって、町の輪郭は朧に霞む。運河の畔に並び立つ柳の枝が宵風に揺れて春の夜を運んでくるかのようだった。


 新橋と名のついた橋を渡って町に入る。今朝は外田と歩いた道だが、時間が違うだけでこうも見え方が変わる物かと修之輔は町を何気なく見渡して、そして道の先、銀座と呼ばれる辺りからこちらに向かって隊列を組んでやってくる一団が目に入った。

 品川で数日前に見た光景と同じく、次第に近づいてくる一団の先頭にはカタバミ紋の御用提灯。講武所で聞いた酒井様の見廻りとはこのことだろう。町人のいくらかは急いで建物の中に入っていったが、路上で平伏して見廻りが来るのを待つ町人も多い。

 修之輔は道路の片側に寄って面を伏せて、彼らが通り過ぎるのを待つことにした。


 足並みのそろったその一団が通り過ぎる時、修之輔はふとこちらに向けられた視線を感じた。怪訝に思って顔を上げたが黄昏時、一様に並ぶ組士の姿を判別出来ようはずがない。それでも修之輔は瞬時に今朝会った岩見のことを思い出し、彼がこちらに寄越した視線だと、何故か漠たる確信を持った。

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