第2話
今日が講武所へ行く日の朝、修之輔が長屋で朝食の握り飯を食べていると、同行する外田が修之輔の長屋にやってきた。今日もやることがない同室の者達はまだ寝ている。
「秋生、俺にも握り飯を一つくれ」
「かまいませんが、外田様の長屋では」
云い掛けて外田が修之輔の言葉を遮った。
「俺のことを、様、などと呼ばんでいい。だいたい秋生は態度が丁寧すぎる。同じ羽代の者なのだし過分な遠慮をすることはない」
そういって外田は修之輔が勧める前、並んだ握り飯に手を伸ばし、一つを取って食べ始めた。先ほどまでは熟睡していた同室の者達が外田の気配に気がついて、薄い寝具の中から這い出してくる。
「外田さん、それ、儂らの朝飯なんで、食べるのは一つだけにしておいて下さい……」
中屋敷に詰める藩士たちの間で先ず問題になったのは、各自の食事である。
羽代で城勤めをしていた者は食事を支給されていて、自分で屋敷を構えていた者は家の用人が作ってくれていた。また、町に出れば安い食事にもありつけてもいた。
今回、江戸参勤に来た下級藩士は自分の用人など連れてきていない。まして自分で食事を用意したこともない。そこへもって外出も禁止されたとなると、いったい何を食べればいいのか。
中屋敷にも何人かいる江戸勤番の者に聞いてみたところ、長い江戸詰めに慣れている彼らは中間を雇って炊事をさせたり、外に総菜を買いに行かせたりしているらしい。だが参勤で江戸に来た者達に中間を雇うような金はない。その時々、必要な時になった時だけ手が空いている者に小遣いを握らせて手伝ってもらうのが精一杯である。
「もしや、金がいくらあっても足りないんじゃないのか」
その事実に思い至って羽代の実家に早々に金の無心を頼む者もいた。
一方、修之輔は黒河にいた時は自分の食事は自分で作っていたので、炊事には抵抗がなかった。ここでも米を炊くくらいならできるだろうと、長屋の土間に据え付けの
「飯を炊ける者がいる」
それだけで、別の部屋の者達からひどく羨ましがられた。何人かに米の炊き方を教えたが、しばらく試行錯誤は必至で、その間、同部屋の者は粥のような飯や焦げた飯を食わされるのだろう。
今、外田が食べているのは修之輔が昨晩炊いた米で作っておいた握り飯である。
「この漬物なんて、どうしたんだよ」
外田が握り飯とは別に修之輔が用意した菜の漬物を箸でつまんで尋ねてくる。
「塩があったので、菜を一晩漬けてみたのです」
「いやだから、この菜はどうした。まさかその辺りに生えているのを毟ってきたわけではないだろう」
「昨日、そこの通りを往く
昨日の夕方、米は炊いたのだが食べる物はそれしかない。あとは竈の脇に置かれた壺の中に塩が入っていた。羽代で獲れた米なので良い白米ではあるのだが、米と塩の食事というのもいかがなものか。そう思っていたところ、通りに面した長屋の格子窓の外から何やら通りの良い声が聞こえてきた。
「菜売り、菜売り、採れたばかりの菜はいかがかね」
格子の間から外を窺うと、長屋の表を行ったり来たりする棒振りの姿がある。天秤棒に下げた大きな笊には小束になった菜が盛られていて、もしやと思い、こっちにと呼び寄せると、棒振りはすぐに飛んでやってきた。
「一把、貰いたい」
「へい、ありがとうございます。おやお武家様、もしやこの春の参勤で来られたばかりでしょうか? ちょいとお足元に籠か笊がころがっていやあしませんかね」
言われて足元を見ると、確かに小ぶりな笊がある。拾い上げると縄が結わえられていた。なるほど、とまずは笊を格子窓から外に出し、小銭を置いてから縄を持ってゆっくりと窓の外へと笊を下ろしてみた。
「さようで、さようで。へえ、こちらの銭ですとお足が出ます。もう一把お付けしましょうか」
頼む、と云うと、棒振りは小銭と引き換えに菜を二把、笊に置いた。修之輔が縄を引いて笊を持ち上げるその間、商人は笊の底を捧げ持つように支えて寄越す。
「これからもどうぞ御贔屓に」
菜入りの笊が格子窓まで無事届いたのを見届けた商人は愛想よくこちらに頭を下げ、再び天秤棒を持ち上げた。
「菜売り、菜売り、採れたばかりの菜はいかがかね」
修之輔は格子窓の中に引き入れた笊と菜の束をちょっと眺めた。こうして通りを行く商人から物を買えば良いらしい。そう思って耳をそばだてると、往来を行き来する物売りの声が様々に聞こえてきた。魚、紙、菓子に酒。あれらの商いを呼び止めれば、この長屋の格子窓を介して様々な物を買うことができるようだ。
そういえば浮世絵や書物が詰まったあの行李の中にやたら料理本が入っていたのは、こうやって食材を買い求め、自分で料理をしていた者がこれまでにも少なからずいたからに違いない。
握り飯を食べ終えた外田が、さあそろそろ行くか、と立ち上がった。修之輔も大小を袴帯に差し、いくつかの書状が入った文箱を風呂敷に包んで外田と共に中屋敷を出た。往来に足を踏み出すと町は朝の気配だった。
前日までに山崎から、まず上屋敷に向かうよう指示されている。江戸に慣れない者が町を歩くといざこざの元になるから、なるべく武家の土地を行くように、という注釈付きで、江城の内郭ならばそうそう面倒ごとにも巻き込まれず近道にもなるから、という話だった。
町をなるべく通るな、と言われても、中屋敷から上屋敷には必ず町を横切る必要がある。日が昇って辺りは明るく、すでに往来は日中とさほど変わらぬ人が行き交っているが、荷を運ぶ牛馬の数の多さがこの時間に特別なようだった。人の歩みは羽代よりも明らかに忙しなく、つられて足を速めると上屋敷にはすぐに着くことができた。
着きはしたが、上屋敷は道中の目印に過ぎない。それでも修之輔はつい門の内側に弘紀の気配を探って、あるいは駕籠に乗って門から出てこないかと、その可能性がないとは分かっていても上屋敷の前を過ぎる足が遅くなってしまう。修之輔の先を行っていた外田が、前方の四辻の真ん中に立ち止まった。足を速めて追いついて、外田の目線の先を追う。
目の前には幅の広い道がまっすぐに伸びていた。修之輔が、この先を行けばいい筈です、と外田に云うと、外田はなにやら懐から紙を取り出して広げ始める。何かの図版のようで大きさが一尺四方ではきかない、二尺はありそうだ。外田がこれを見ろと修之輔に顎で示した。
「行李の中にあった地図だ。ほれ、この先、道の左側が松平安芸守様の上屋敷と書いてある」
修之輔が覗き込むと、それは確かに地図だった。彩色豊かに屋敷の区割りが細かに書かれていて、一々屋敷の主の名が記されている。
「便利ですね」
「そうだろう」
張り切って地図を掲げる外田が、そのまま前方を指した。修之輔もつられてその指の示す先を見る。
「あの堀の向こうに見えるのが桜田門だな。あそこから一度廓の中に入って抜けるようにと言われている」
桜田門には門番がいたが、名乗れば特に咎められることもなく門内に入ることができた。本来ならば何か正式な許可が必要なのかもしれないが、門番は外田が手にしたままの地図に目線を寄越していた。江戸に来たばかりの参勤者が見物しに来たと思ったのだろう。だいたいはその通りで、外田は辺りを見回しながら頻りに感心している。
「大きいお屋敷ばかりだな。幕府ご老中たちのお屋敷となればこれほど立派なものなんだな」
確かに広大な江城内郭には立派な大名屋敷が立ち並び、緩やかに傾斜する土地のせいで、陽光に光る黒々とした瓦がまるで海の様に視界を埋めている。
大名屋敷が立ち並ぶこの一画に町中のような喧騒はなく、それでも荷を運ぶ牛や武士の姿はちらほら見える。深く掘られた堀には青々と水が湛えられて、春の空と雲を映し出していた。吹く風にも潮を含む羽代とは違い、江戸の風は軽やかに羽織の袖を揺らしていく。
櫻田門から入った江城内郭の突き当り、この辺りで外郭へ出る必要があるのだがそこで外田の足が止まった。
「雉橋御門というところを出て、また真っ直ぐ行けばすぐにつく、と言われたのだが」
外田の戸惑う声も当然で、二人の前には同じくらいの広さの道が二本、それぞれ左右斜め前方に向かい伸びていた。
「外田さん、地図ではどのようになっていますか」
修之輔が問うと、外田は頭を掻いて地図を振った。
「この地図にはここまでしか載っていない」
左右どちらの道も雉橋御門から真っ直ぐといえばまっすぐである。判断に困っていると、こちらに向かって歩いてくる人影があった。女性のようだ。
「ちょうどいい、道を聞いてみよう」
外田が何やら活気を取り戻す。だが近づいてきた女性の顔が分かると、修之輔は思わず息を飲んだ。その女性は、今は羽代の留守居役である家老田崎の配下の加ヶ里だった。
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