第3章 陽春の江都
第1話
品川宿を六つ半時に発った羽代の参勤行列は、上屋敷への入り口となる江城虎ノ門を目指して北上した。北品川の宿場町を過ぎると薩摩の蔵屋敷を境に次第に武家屋敷が多くなる。砂浜の向こうに広がる海の上には、大小の木造船の他、薩摩が所有する異国船も浮かんでいた。
異国船が初めてこの地を訪れた時、人々は騒ぎ恐れて家を捨て、別地に移り住む者もいた。だが今は品川の風物詩、料理屋の二階座敷の戸襖を大きく開け放って海上を行き交う様々な船を楽しむ人々が品川の地を賑わせている。今も、路上にいる者こそ平伏して大名行列が過ぎるのを待っているが、二階座敷の格子の隙間から目覚めの茶を喫しながら見物している客も多いだろう。
江戸屋敷から追加された人足や道具が行列に加わり、羽代の大名行列は譜代朝永家の名にふさわしい格式を持って進んでいく。これまでの道中では私語が許されていたが、今日は固く禁止されている。だがその禁止が無くても、誰も気軽に会話などできなかったに違いない。
金杉橋を渡れば左手に芝の増上寺が姿を現す。あれが有名な赤い山門かと、門前町の向こうに見たのも束の間、行列はその増上寺の敷地に沿って曲がり、町を離れた。愛宕下の大名小路に入れば先触れの声掛けも奴の木遣りももはや不要で、そこから半時も経たぬうちに行列は虎ノ門の向こう、霞ヶ関にほど近い朝永家上屋敷に到着した。
加納や西川らの重臣が先に屋敷に入って当主の到着を告げ、弘紀の駕籠が運び込まれる。後は荷物持ちの人足が藩主の荷物を運び入れて、残雪も屋敷の中へと連れていかれた。修之輔がその姿を目で追っていると、
「お役目、お疲れ様でございます」
上屋敷から走り出てきた者に声を掛けられた。簡素な服装で腰には小刀のみ、屋敷が抱える中間の者だろう。修之輔は松風の手綱を渡そうとしたのだが、その厩番に拒まれた。
「恐れ入りいます、その馬の扱いについては、既に羽代の国元より注意書きが届けられております。秋生様、どうか厩までその馬を牽いていただけませんか」
自分が名乗る前に相手に名を呼ばれて、羽代城の厩番から伝えられた松風の情報がどんなものか、だいたい察しをつけることができる。修之輔が松風を牽いて門をくぐると、既に駕籠から出ていた弘紀が屋敷の玄関に向かうところだった。腕を上に伸ばしかけて、けれどすぐに下ろしたのは、伸びをしたくても玄関に居並ぶ上屋敷の家臣の姿を認めたからだろう。
藩邸上屋敷とはいえ、羽代城とは比べ物にならない手狭な敷地に建屋が隙間なく並ぶ。御殿の奥には庭もあると聞いたが、ここで百日間を過ごすのは弘紀には息が詰まるように感じるのではないだろうか。
そんな心配をしながら松風を厩に引いていく。屋敷門をくぐって右側にある厩には、既に残雪が繋がれていて、体の飾りを外されているところだった。いきなり松風がその残雪の方へぐいっと二、三歩近寄る。修之輔が手綱を強く引く前に、松風は残雪の足下に置かれた水桶に鼻先を突っ込んだ。水を飲みたかったらしい。
「この馬用の水桶は用意してあるのに」
困惑する厩番だが、松風はもちろん、水を取られた残雪も気にしていない。この程度はまだ序の口で、弘紀が江戸にいる間、厩番はこの二頭の馬の世話に翻弄されることになりそうだ。
修之輔は松風を厩に繋いで、屋敷門の外に戻った。今、中に入ることができたのは特例で、本来下士はこの門の中に許可なく入ることはできない。門の左右十間は長屋塀となっていて、そこには警護の藩士が住み込みで詰めている。江戸勤番の者がその役に就くことが慣例で、修之輔たち羽代から来た藩士たちは上屋敷とは別の場所に立つ中屋敷に滞在することになっていた。
「よし、じゃあこれから儂らは中屋敷に向かうぞ」
山崎の掛け声で中屋敷に向けて移動するのは五十人程度、江戸勤番の案内の者が山崎と一緒に先導に立つ。二人の後をぞろぞろと、皆は山下御門から江城の外郭に出た。中屋敷に向かうのは下級藩士のみ、持つべき荷物は風呂敷包一つがせいぜいで、身分も高くない者達が行列を組む必要もない。
山下御門の外は直ぐに町屋が並んでいて、上屋敷の周りとは異なり活気があって賑やかだった。木材問屋や大工の大店が立ち並び、行き交う町人たちの声も高い。
上屋敷までの緊張がようやく解けた外田や小林たちが、辺りを珍しそうに眺めながら歩いていて、そんな彼らの姿を江戸の町人は冷めた目でちょっと見て、直ぐに視線を外す。地方からやって来たばかりの田舎侍など、飽きるほどに見慣れているのだろう。
周囲に見慣れていないのは羽代藩士たちの方で、小林が不意に視線を一か所に固定した。
「なんだ、小林。面白いものでもあったか」
「外田さん、あれがほら、例の瓦版売りですよ」
「お前が品川で見かけたという、あれか」
「あの時は買いそびれましたからね、ちょっと一枚、どんなものか手に入れてきます」
なんだなんだと集まった者達が、小林が瓦版を買い求める様子を見守る。瓦版売りの表情は、深い網代笠の陰に隠れて見えなくても苦笑している様子が修之輔にはわかったが、小林は元より、外田たちは全く気にしていない。
やがて一枚の瓦版を手に小林が戻ってきた。
「これは朝一番に刷ったものだから、と一文で買えました」
「朝一番とはいえ、まだ
「それでもう古いんだそうです」
「江戸の足が速いのは魚だけではないのか」
適当なことを口々に言いながら、数人が小林が持っている瓦版を覗き込む。
「ええっと、昨夜遅く、水戸浪士、幕臣旗本に切られる」
「昨日の夜のことがもう今朝、瓦版になるのか」
「まて、水戸藩士が斬られたのか、どこで」
「なんでもこの江戸の真ん中らしい」
「水戸と言えば将軍御三家の一つだろう。それをなぜ旗本が」
往来の真ん中で立ち止まってしまった外田たちだが、彼らの背後から山崎が声を掛けた。いつもの怒鳴り声ではない。
「お前ら気をつけろ。あそこっから茶屋娘がこちらを見ている。田舎ものを丸出しにしていると呆れられるぞ」
途端、外田たちは姿勢を正して顔を上げ、順番に列を作って歩き出した。
町中を抜けて新橋という名の橋を渡ると、その向こうに羽代藩中屋敷の塀が見える。簡素な屋敷門をくぐると狭い前庭があり、入ってきた者に迫る様に中屋敷の主体である母屋が建っている。
母屋の脇を通って敷地の奥に進めば、藩士たちの宿舎となる長屋が並んでいた。さらに奥へと進んでいくと開けた更地が広がっている。
羽代の中屋敷には運河に面した一角があり、そこには海から運んだ荷を直接上げることができる船着き場がある。このところ羽代からの荷の上げ下ろしが頻繁になってきたため中庭の池は埋め立てられて、ここの更地になったという。
屋敷敷地をざっと見た後、修之輔たちはいったん母屋の座敷に集められた。山崎が声を張り上げ、今後の仕事や長屋の割り当て、滞在中の諸注意などを読み上げる。
「食事は自分達で用意しろ。長屋には井戸も竈もある。米は一人頭でいくらと決まった量を渡す。それを食ってもいいし、金に換えて別の食べ物を買ってもいい。町に出る時は、前日までに儂に届けを出すように。加納様の認めがあって、初めて外出できることになる。理由なしの外出は一切認めん」
凡そ分かってはいたことだが、周囲からは落胆の声が聞こえてきた。
「なんだつまらん。せっかく江戸に来たのに、儂らはずうっとこの中屋敷の中にいなければならんのか」
「せめてすぐそこの料理屋で旨いものを食ってくるぐらいのことができたらいいのに」
彼らの不満を聞いて山崎が注意を促した。
「さっき小林が買った瓦版にもあっただろう。今は江戸市中とはいえどうも物騒なことが多い。面倒に巻き込まれないよう、できるだけ外出は止めておけ」
ただし、と山崎が言い添える。
「何人かの者が、武術修練のために決まった場所へ外出することが認められている。これからその者達の名を読み上げる。呼ばれた者はここに残れ。他の者は羽代から中屋敷に着いた船から上屋敷への荷運びを手伝え」
そうして何人かの名前を山崎は手元の紙を見ながら読み上げて、その中には修之輔や外田の名前があった。
山崎から個々人に詳細が言い渡されたその内容によれば、修之輔は砲術、外田は剣術、そして山崎自身は他数人とともに練兵術の習得することが、藩から課せられた任務だった。
「各々それぞれの武術の研鑚は元より、諸国の状況についても耳を凝らせて来い、とのお達しだ。深入りをする必要はないが、目にすること、耳にしたことに十分に注意を凝らせ」
修練のために外出したその日毎に報告書を提出するように、また教えを乞う相手については後日追って連絡する、そう云って山崎は説明を締めくくった。
「今じゃないのか」
外田が山崎に聞く。
「上屋敷は今がいちばん忙しい。あっちの手続きが終わってからだな、儂らの身の上が決まるのは」
例え用事があったとしても、江戸に到着した今日明日で藩士が屋敷の外に出られるようになるわけではない。まずは羽代藩主が江戸城内に参勤参上を報告し、その受諾を得て、そしてようやく羽代藩士は江戸滞在を認められたことになる。藩主である弘紀を含めて藩士が外出できるようになるのはそれからだ。
上屋敷では今、荷を解くよりも何よりも優先して、直ちに当主到着の知らせを江戸城へ遣っている筈である。
慌ただしく参上のやり取りが交わされている上屋敷の表とは対照的に、修之輔達、中屋敷に詰める者はその間、やることがない。割り振られた長屋は三人ほどが相部屋なのだが、大の男三人が一つの部屋に閉じこもっていても窮屈である。結局、手持無沙汰になった者は屋外に出て、同じような仲間と暇つぶしの雑談を始めた。
「秋生、お前も外に出ないか」
同室の者に誘われたが、修之輔は断った。
「この道中、書けなかった分の日記を付けておきたい」
「へえ、まめだな。じゃあ儂らは行ってくる」
修之輔一人だけになった部屋の中で、部屋の隅に立て掛けられた文机を持ち出した。かなり埃が積もっている。長年使う者がいなかったようだ。古い手拭いを濡らして絞り、文机を拭く。そうしてようやく修之輔の数少ない持参品の硯と墨、筆と紙をその上に広げた。道中見聞きしたことについて、書き留めておきたいことは色々あった。空いた時間ができたのは修之輔にとっては有難いことだった。
しばらくそうして筆を走らせながら中屋敷の敷地内をうろつく藩士たちの声を聞くともなしに聞いていると、次第に外田や小林の聞きなれた声が聞こえてきた。どうやら通りかかる屋敷抱えの中間や小者にも声を掛け始めたらしい。羽代の国言葉とは違う、抑揚がはっきりした江戸の言葉が外田たちの声に混じって聞こえてくるようになった。
「確か、ここの長屋だったと思いますよ」
いきなり修之輔のいる長屋の戸が開けられて、どやどやと数人が中に入ってきた。そうしてそのうちの一人が座敷から二階へと階段を登っていく。服装から屋敷の中間の様だ。
「ああ、ありましたよ、これです」
その声の後、二階の屋根の狭い部屋から柳行李が一つ、下ろされてきた。行李は框に置かれて、土間に留まっていた何人かが早速蓋を開けて中を覗き込む。中には、たくさんの草紙や浮世絵が雑に詰め込まれていた。
行李を下ろしてきた者の話によると、この屋敷には参勤で江戸にやってきて、同じように暇を持て余した者達が暇つぶしに買ってきた草紙や浮世絵がたくさんあるのだという。羽代の下士たちにそれらのものは珍しく、皆がいくつかずつを手に取ってその場で眺め始めた。
美人画、役者絵、物語の草紙に和算の書まである。皆が互いに駄弁りながらそれを見ている傍ら、すでに日記を書くのをあきらめた修之輔が手に取ったのは、『江戸大節用海内蔵』と表紙に記されているものだった。節用集なら幼いころからいくつか、それぞれ何度か読んだ覚えがあるが、この書物を見たのは初めてだった。何の気なしにぱらぱらとめくると、色鮮やかな図版の中、世界地図を描いたものに目が止まった。
「忠吉、といったか。これは儂らが借りて行ってもいいのか」
外田の問いかけに忠吉と呼ばれた中間が、もちろんです、と返答する。
「皆さま、参勤の終わりごろにはここにある物に飽き足らなくなって、新しいものを手に入れることになりますから、そうしたらその新しい物と一緒にこの行李へしまっておいて下さい」
そんなことが積み重なって、この量になっているのだろう。皆は手に書物を持って三々五々自分の長屋へと戻っていった。
翌々日、上屋敷から加納が直々に中屋敷へとやってきた。修之輔を含む外田や山崎ら、武芸の修練に出ることを命じられた者達が呼ばれて、母屋の座敷に集められた。そうして加納からは、話が付いたから各々講武所に行ってこい、という命令が下された。
「名があるとは言っても町の武芸者に直接指南を乞うと法外な料金を要求されることがある。講武所に来ている師範に直接指導を願うか、身元の確かな者を講武所で紹介してもらう方が良い。羽代の恥にならぬよう、藩の名を負って各自修練に励むように」
山崎ら練兵の訓練に参加する者は築地に、外田と修之輔は小石川御門近くに在る講武所に行くように、重ねてそう指示が言い渡された。
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