第2話

 陣屋では既に藩主用の駕籠が建屋の中に運び込まれて、弘紀が乗り込むのを待っている状態だった。修之輔達は門の中には入らず陣屋の外で待っていると、ある程度人が集まった辺りで山崎がやってきた。

「今日、遅刻してきている者はいないな」

 そう確認してから、山崎は今日の行程について説明を始めた。

 本日は平坦な道をただ移動することになる。昨日は川越えがあったので距離を稼げなかったが、今日は十二里を歩くことになるから覚悟しておけ、ということだった。


 決められた宿場では参勤の人数を番所の役人が確認する必要があるが、そうでない宿場は歩いて過ぎるだけになる。

「いいか、寄り道をするな。行列から外れるな。これは任務だ」

 重ねて確認して寄越す山崎は、外田や小林の方を睨んでいる。睨まれた方は素知らぬ顔だが、さっき、途中で行列を抜けて団子の一つや二つぐらい食べて行こう、という相談をしているのを修之輔は聞いていた。

「それから秋生」

 修之輔の名が呼ばれて、前に出た。

「弘紀様が宿場の外では松風で移動したいと申されておられる。駕籠の近くで馬を牽け」

 宿場町以外の人目の少ない辺りなら、弘紀に騎乗してもらった方が駕籠かきも足を早めることができる。行列を少しでも先に進めたい加納の思惑と、できれば駕籠の外に出たい弘紀の希望が一致したのだろう。山崎の指示で、修之輔は藩主の駕籠の後ろに付くことになった。


 日の出とともに行列は道中最初の宿場町を発った。


 駕籠の近くとはいっても周りを徒歩の護衛が固めているため、弘紀の駕籠との間は五間ほど離れている。

 その駕籠との間、修之輔の前を歩く者は羽代城でなんどか顔を合わせているが、これまで交わした言葉はあいさつ程度だ。けれど黙々と歩を進める間の気晴らしに、時折簡単な言葉を交わすうち、休憩の時に少し話をするようにもなった。


 藤木というその相手の年は三十四で、訊けば役職は城の内務を行う御用人だという。言われてみれば話しぶりも番方の者達とは違い落ち着きがあった。就く仕事によって性格が変わるのか、そもそもそう云った性質のものが用人の役に就くのだろうか。

 それではと思い、最近、見習い用人の職に就いた三山の仕事ぶりを聞いてみたところ、ああ、あの調子がいい奴か、と返ってきた。

「しかし役職が違うと身分というのが分からんな。秋生は番方でどの位置にある」

「馬廻り組ですが、頭が一人あるだけで、あとの者達はみな同じ立場です」

「御用人は頭一人にその下、職務に分かれていくつかのまとまりがある。一概に比べるわけにはいかんな」

 藤木と話しているうちにその知り合いが声を掛けてくる、といった状態で、城の内では接点のなかった相手と話してみると、修之輔が知らなかったことをいくつか教えられ、視点が変わる面白さを感じることができた。


「秋生、松風をこちらに」

 昼が過ぎた頃、そう呼ばれて弘紀の駕籠の近くまで松風を引いて行った。

 弘紀の姿は既に駕籠の外にあって、騎乗して移動することを見越した簡素な小袖に野袴を着けた姿だった。重臣たちはみな膝をついて身を低くしており、こういう時の弘紀は、本来、自分が触れることもできない存在であることを修之輔に思い出させる。

 藩主であるその立場への畏敬は確かにある。けれど同時に感じる胸の奥の隠微な痛みにも似た感覚を抑えて、修之輔は面を伏せたまま、近習に松風の手綱を預けた。


「弘紀様、こちらをどうぞ」

 近習が弘紀に声を掛けて手綱を渡し、少し不自然な間があった。この場を下がる頃合いを探りあぐねて修之輔がそっと目線をあげると、こちらを見る弘紀と目が合った。一瞬、その目がいたずらな笑みに細められて、修之輔がその意図を汲む前、弘紀は松風に騎乗した。

 駕籠かきが空の駕籠を担ぎ上げ、行列が再び動き始める。次の瞬間、松風が急に駆けだした。


 慌てる周りの者達を尻目に、松風は弘紀を乗せたまま道を外れて草地に降り、向こうに見える海の方へと走って行く。人の足では追いつけないのは明らかだ。それでも追いかけるべきか、行列の前にいる加納に知らせを出すべきか、近習が迷って混乱しているその間に、修之輔は残雪に騎乗して弘紀と松風の後を追った。


 軽く振り向いて修之輔が追ってくる姿を確かめてから、弘紀はもう少し松風を走らせて、行列が視界に留まる距離で松風を止まらせた。残雪に乗った修之輔が追いつくと弘紀は直ぐに馬首を行列へ返した。遠くに行くつもりは最初からなかったようだ。

 松風を歩ませて行列の方へと戻りながら、弘紀は修之輔に文句を言う。

「道中の駕籠は狭いし、誰かと話せるわけでもないし、泊まる陣屋はせわしなくて落ち着かないし」

 そしてそんなことを言える相手もいないのだろう。たった一日だが慣れないことが続いて、弘紀には解消しがたい鬱憤がたまっているようだった。修之輔は、松風より一歩退いて歩ませる残雪の上から、弘紀に訊いた。

「今の様に、道中を松風に乗って移動するのはだめなのか」

「当主は基本、参勤の道中は駕籠に乗らなければならないと決まっているのです。今、私がこうしているのも、実はその決まり事に反しています」

 周囲に軽々しく藩主の姿を見せないことは、その権威を維持するのには必要な事だ、というのが幕府の方針である。藩主を軽んじないことは、すなわち、その藩主を総べる将軍の威光を保つことに繋がるという。

「だから参勤の決まりごとは幕府によって決められていることが多いのです」

 そう云って弘紀は松風の上、一度大きく体を伸ばし、そのままこちらを振り返った。


「それはそうと、秋生はこれまでの道中、どうですか」

 困ったことはありませんでしたか、そう聞かれて考える必要もなく首を横に振る。風景の移り変わりを見るのは目に楽しく、これまでに話したことのない藩士からも話しかけられて、案外に面白く思うことばかりというのが正直な感想だった。弘紀が、それは良かったですね、と相槌を寄越した。

「先年までの騒動と最近私が行った改革で、羽代は身分の階層が他藩に比べて曖昧になっているのです」

「田崎様や加納様のように、明らかにまつりごとに力を持っている方達がおられてもか」

「はい。他の藩の様子を聞いたところ、もっと明確で厳格な身分の縛りが家中を分断させているところがあると」

 上士と下士と呼ばれる区別は、羽代藩のなかにもある。だがそれは大まかに正規の役職に就いているかいないかで分けられていて、下士であっても役職が上がれば上士と呼ばれる。これは羽代家中の習わしで、他所では下士は上部の役職に就くことなく、上士は役職が無くても身分が下士より高いのだという。そしてそれは世襲で固定されていて、生まれながらに身分が決まっているとのことだった。


 修之輔は、自分が生まれ育った黒河ではどうだったかと思い出して、そもそも出仕せずに剣道場の師範代をしていた自分は、身分階級の外にあったことに思い至る。幼馴染の大膳の柴田家や、弘紀が一時身を寄せていた本多家は先祖代々黒河の重臣であったことを思うと、黒河の身分制度もかなり厳しく律せられていた筈なのだが。

 秋生の家は、上士下士という身分ですら括られず、完全に外れた異分子のようなものだったのだろうか。


 だから自分は。だから父親は自分を。


「羽代の家中では、そのようなあからさまな差別をしたくないのです。しばらく家中が乱れていたことを好機ととって、羽代では身分の区別を緩やかにしておきたいと思っています」

 話を続ける弘紀の声に我に返った。修之輔は心の内奥に沈みそうになる自分の思考から手を離し、弘紀の話す声に強いて意識を向けた。すでに行列は目の前に近づいて、二人で話ができるのもあと一言、二言ぐらいだろう。


「でも家老職などの政治の中枢にしばらく、仕事に慣れた世襲の家臣を数人置くのはしかたないですね」

 ほんとうは、貴方をいつも近くに置いておきたいのですが。

 最後、行列に戻るほんの手前、弘紀が小声で伝えてよこした言葉は、風下にいる修之輔にしか聞こえなかった筈だ。


「弘紀様、ご無事ですか」

 直ぐに声を掛けてきた加納の声は、弘紀の身を案じる言葉とは裏腹に険が混じる。

「大丈夫だ。松風が走りたくて仕方なかったようだ。秋生が松風を宥めてくれた。馬がしたこと、誰も咎める必要はない」

 弘紀はそう云って、行列を進めるよう促した。加納がまだ何か言いたそうな顔をして、だが弘紀にその言葉を聞くつもりがないことは澄ましたその表情から明らかだった。その代わりに、何故か修之輔が加納から睨まれた。


「寄り道をするな。行列から外れるな。これは任務だ」

 残雪から下りて跪礼し、面を伏せたままの修之輔は、朝の山崎の言葉を思い出した。


 その次の日も似たような道を粛々と歩いて、途中、二里ばかりの距離を弘紀は松風に乗って移動したが、行列を逸れることはなかった。


 さらにその翌日、行程の四日目に行列は一日かけて箱根の関を越えた。

 関所で行列の人員改めを終えて峠を下りると、景色はともかく、周囲の空気もどこか変わってきたように感じられた。それはこれまで前方に見て来た富士の山が後ろに見えるせいかもしれない。眼下に見える小田原の海の色も心なしか今までとは変わって見えた。


 この辺りから街道には行き交う人数が増えてくる。弘紀が少しでも駕籠の外に出ることはもはや許されず、しかし残りはあと二日、なんとか堪えてもらわなければならない。

 修之輔が牽いている馬二頭のうち、松風は通りがかる荷馬にも時折ちょっかいを出そうとする。だが繋がれている残雪が、不動の姿勢を保って松風を引きとめる。何回か同じことが繰り返されて、次第に松風が他の馬に絡む頻度が少なくなっていった。参勤の道中で二頭の関係も微妙に変化しているようだった。


 小田原を発った五日目は、保土ヶ谷まで行列は進んだ。ここから先、残雪を行列の飾り馬にするという前からの決まり通りに、修之輔は残雪を口取りの者に預けることになった。

 明るい栗色の残雪は、緋色の厚総あつぶさ尻繋しりがい面繋おもがいを下げて、下鞍と手綱は羽代の海の色を映した明るい青色である。飾られた残雪の姿は、羽代家中の者も感心する美しさだった。

 

 そして修之輔には、松風に騎乗して、行く先々の宿場町へ先触れとして赴くことが任務として言い渡された。荷を載せることを嫌がり、飾られることも厭う松風だが、走ることに関しては他の馬より秀でている。藩主の馬だが、その弘紀自身が行列に伴う役目に松風を使役することを許可していた。 


 松風に乗る修之輔の他、保土ヶ谷の宿で借り受けた馬一頭にもう一人、羽代藩士が騎乗して、行列に先行して街道を進んだ。品川まではもう目と鼻の先、大森という宿場に着き、やがて羽代の行列が到着することを番所に伝えれば、後は待機するだけである。


「先に腹ごしらえをしてくる」

 もう一人の藩士がそういって、修之輔に馬の手綱を預けて宿場町の中に消えた。空いた時間に町で気晴らしができるのは先触れの特権だが、一人は必ず番所近くに留まらなければならない。


 行列を待つ間、番所近くの細工物を売る店先に目が止まった。赤や黄の色に染められた麦藁が器用に編まれた大小の細工物が並んでいる。小箱や箒の他に、虎や亀など、動物の形をしたものも並べられていて、行き交う人々が足を止めて買い求めていた。

 松風の手綱を短めに立ち木に括り付けて、修之輔は店先を覗いて見た。縁起物というよりも、子どもの玩具のようだった。ふと惹かれたのは手に平に乗る大きさの鳥の細工物。手に取ると胴の中が空洞に鈴が入っていて、揺らすとチリンと澄んだ音が聞こえてきた。彩色しない麦藁の体に黄色と早緑色に染められた羽。円らに小さな目もちゃんと二つ、ついている。


 ただ理由もなく、弘紀にこれを渡せば喜ぶその顔が見れると思った。


 修之輔は小銭を店の者に渡して、手にした麦藁細工の小鳥を一つ買い求めた。包んでもらっているその間、店の中を眺めると、壁の日の当たらぬところにたくさんの札が貼られているのが目に入った。黒河にいた時に自分が佐宮司神社で書いていた札と同じようなものに見える。

 そう思って目を凝らせば、様々な神社仏閣の名前が黒々とした墨跡で記されているのが見えてきた。秋葉神社、御嶽神社、護国寺に浅草寺。

 その中に、周りより明らかに古びている伊勢神宮の札が一枚、貼られていた。店主の身内の者が参詣に行ってきたのだろうか。


 武士がこの店で買い物をするのが珍しいのか、野次馬気分でそれとなく修之輔の視線の先を探っていた町人の一人が店の主人に話しかけた。

「そういやあ、あのお伊勢様のお札だが、そろそろまた降ってきてもいい頃合いじゃあねえのか」

 主人は修之輔に鳥を包んだ包みを渡し、お買い上げありがとうございました、と丁寧にお辞儀をしてきた。その後に、知り合いらしいその男と話の続きを始める。

「六十干支が一巡すると振ってくるというから、確かにそろそろ頃合いだなあ」

「前回は札に紛れて銭も空から降ってきたらしい」

「さあて、どっちがご利益あるかな」

「銭なら現世ご利益、札なら来世ご利益。タダで降ってくる分にはどちらでも構わねえや」


 空から札が降ってくるという奇妙な話を聞いて修之輔が思い出したのは、佐宮司神社でのことだった。

「好きなだけ持って行け」

 ある日、神主が、祭りで売れ残った札を境内に遊びに来ていた子供たちの頭上から降らせた。子どもたちはその紙切れが何なのか分からないまま、ただひらひらと空を舞う紙を追って集めるその遊びに夢中になった。境内の掃除に来ていた氏子が呆れて、さすがに罰が当たりませんかねえ、というと、神主は一言、ただの紙切れだ、と言い捨てた。


 そんな佐宮司神社の神主の行いとは違うのだろうが、客の話によると伊勢神宮の札は夜の空から降ってきたのだという。降らせる者がいない虚空から何故札が落ちてくるのか。そんな疑問を覚えたが、それよりももっと身近な問題に修之輔は気が付いた。


 狭い駕籠に長時間揺られている弘紀の慰めにならないだろうか、そう思い立ってこの麦藁の鳥を買ってはみたけれど、弘紀にいつ渡せばいいのだろう。渡す機会を思いつかなかった。江戸に着くまでは、と弘紀に言われたことを思い出したが、これを渡せるのは、おそらく二人で逢える時。それはいつになるのだろうか。


 番所に戻り残雪の手綱を持って羽代の行列が来るのを待つその間、懐に入れた小さな包みから、チリン、チリンと鈴の音が聞こえてきた。

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