第2章 深更の接触

第1話

 三月の末日まで五日残して、羽代藩の参勤行列はようやく羽代城を江戸に向けて出立した。


 国境までは見送りが多く付いてくる。領地内なら駕籠に乗る義務もなく、弘紀は松風に乗って行列の中ほどを進んでいた。

 当主が騎馬なら家中の者は皆、徒歩である。参勤に出立する家の主を見送りをする奥方や老いた父母など、移動に駕籠が必要な者たちは当主の行列よりも早く城下を出立している。彼らは先回りした道のあちこちで行列が来るのを待っている。

 地面に敷物を敷いて正座して、行列に頭を下げて見送るきちんとした身なりの奥方もいれば、重に食べ物を詰めて運んできて幕を張り、毛氈敷きに傘まで立てて遊山風情な見送りもそこかしこに見られる。

 行列の中を歩く者は、家族だけでなく知り合いにも呼び止められ、しばしの別れの挨拶と盃を交わすので、花曇りの空の下、参勤行列はゆるやかな長い行列となって賑やかに進んでいた。


 その中に、ひと際女性が多く華やかな一画があった。それは勘定方の西川氏の家中が総出で主の江戸参勤を見送るためにやってきた集まりで、よく見ると中に三山の姿がある。西川氏の奥方やその御付の女性たちにまめまめしく付き従って働いていて、案外、城の務めよりこちらの方が性に合っているのかもしれない。


「おうい、秋生」

 自分の名を呼ばれて修之輔が振り向くと、その西川氏の一行とは対照的に、破れ茣蓙に胡坐をかいて酒徳利をいくつも並べ、羽代に残る虎道場の面々がこちらも行列を見物していた。

「見送りに来たのか」

「ああ。秋生もそうだが、何人か知った顔が江戸に行くからな」

「外田様はもう少し後ろの方から来ると思う」

 虎道場に縁のある外田の名を出すと、あいつ出発に間に合ったのか、と数人が笑い出した。なんでも外田は昨夜酔いつぶれ、目を覚ましたのは日がだいぶ上ってから、慌てて取るものもとりあえず城に向かったという。

「おっと、外田さんが姿を見せたらこいつらを隠さんとな。あの人は昨日から飲み過ぎだ」

 そう言って目線を徳利に向けるが、いくつもの徳利が並んだり倒れたり。どれが空でどれに中身が入っているのかも判然とせず、直ぐに隠せる量ではない。

「それより秋生、寅丸はどうした」

「寅丸?」

「ん? あいつも江戸に行くと言っていたから、こうして見送りに来てやったんだ」

「いや、寅丸はこの行列にはいない。そもそも参勤の名簿にも寅丸の名は」

 そこまで応えて、寅丸の名が通り名であることを思い出した。寅丸の本名を修之輔は知らない。

「寅丸の奴、実は昨夜の宴会に来ていなかったんだ」

 道場にたむろしていた者達に、自分がいなくても飲み食いの前金を料理屋に払ってあるからお前たちだけで楽しんで来い、と言われたのが数日前。それからこっち姿を見ないという。

「城で準備の人足に駆り出されているのかと思ったんだが、もしかして先に江戸に行っちまったのか」

「少なくとも、今この行列にいないのは確かだ」

 修之輔がそう云うと、虎道場の連中はちょっと怪訝な顔になった。

「儂らに何も言わんで江戸に向かったのか。なんだあいつ、水くさいな」

「おおかた土産を強請られるとでも思ったんだろう」

 酒の入った数人がああだこうだと言い始めると際限がない。切り上げ時を見つけあぐねて修之輔が視線を上げると、二日酔いに顔を顰めながら歩いてくる外田の姿があった。隣を歩いてくるのは小林だ。昨夜、修之輔に宿直を代わった小林は、外田よりはだいぶましとはいっても、二人ともに昨夜の酒が抜けていないのは明らかだった。


 こちらに気づいてやってきた外田は、開口一番、水をくれ、と要求した。

 酒じゃなくていいのかとからかう連中には構わずに、どんぶりで差し出された水を外田はひと息に飲みほした。そうしてようやく見送りの顔ぶれを見回して、では、と、おもむろに居住まいを正した。改まっての出立の言上かと、周りがそれに合わせて座り直すと、外田は傍らの小林と肩を組み、力強く言い切った。

「午後の川越えで、俺らの酒を洗い流すぞ」

 果たしてそれがしばしの別れの挨拶でいいものか、何故か、やんやの喝采で、虎道場の面々は外田と小林、そして修之輔の出立を賑やかに見送った。


 羽代の領地の境、人足の役に就いていない見送りはここまでで、番所の手前で別れることになる。西川氏の家族と行動している三山もここで城へと戻ることになり、律儀に通り過ぎる知り合い一人一人に声を掛けて別れの挨拶をしている。

 一方、江戸には行かないものの、川越かわごしまでの荷役に就いている木村がこの行列にいるはずなのだが姿が見えない。修之輔は三山に木村を見たか訊いてみた。

「木村殿ですか。だいぶ前に通り過ぎましたよ。荷役に就いた方は行列よりも先に出発していたかと」

 参勤に加われなかった、と落ち込んでいた様子が嘘のように三山は朗らかだ。それなりに留守を守る意義を見出した、と言えるのだろうか。

「秋生殿、いってらっしゃいませ。どうぞ道中お気をつけて」

 三山は修之輔にも頭を下げてきた。 


 羽代領を出てこの先は、まだ修之輔が訪れたことの無い土地が江戸まで続く。それは行列にいる多くの者にとっても同じ事だった。


 番所を過ぎて行列が羽代領を出てしばらく、皆が一度集められた。領地内ならともかく、他藩の領地を行く初日ぐらいは隊列を整えておくべきと、加納の手配でそれぞれの持ち場が確認された。弘紀はここから駕籠に乗らなければならない。


「秋生、ここから馬を頼む」 

 駕籠を囲む警護の者に修之輔が名を呼ばれて行くと、すごく嫌そうな顔で駕籠に乗り込む弘紀の姿が見えた。駕籠は狭くて揺れるのが嫌だ、と、前から弘紀が文句を言っていたことを思い出す。そしてその弘紀が下りた後の松風の手綱が、以前からの打ち合わせ通り、修之輔に渡された。


 午後これから、道中の最難関である川越しがあり、その後は渡った先、直ぐにある宿場に入って今日はそこに宿泊することになっている。加納の指示を受けて先ほどまでの気ままな成り行き任せの行列とは違い、整然と並んだ行列が東へと延びる街道を進んでいく。


 薄い雲が覆っていても充分明るい空模様、右手の海は空の色を映して淡い青灰色。道中はこの海をずっと眺めていくことになる。羽代の海は江戸にまで続いているのだと、修之輔は当たり前のことを改めて実感した。

 風吹く草原の中、残雪と松風を牽いて、前を行く弘紀の駕籠を見ながら歩む行列は、今日から五日後には江都、品川の宿に入る予定だ。


 やがて行く手に町が見えてきた。

 宿場ではないその町並みは、その先の大きな川を渡って荷や人を運ぶことを生業にする者達が住む町である。町の中に入って、ひと際大きな建物に弘紀が乗ったままの駕籠が運ばれていった。

 羽代当主の身辺の警護を重視しての扱いだが、駕籠のまま持ち上げられたり降ろされたり、さらに狭い室内に運び込まれて、余計にげんなりしているであろう弘紀の様子が容易く思い浮かんだ。なにか弘紀の気が紛れるような物があれば良いのだがと思い、けれど具体的にそれが何かは思いつかなかった。


 弘紀の駕籠が運び込まれたその建屋には重臣が集まっている。修之輔達は山崎に呼ばれて白砂利の前庭に集められた。

「弘紀様の渡河の支度が済むまでに、自分たちの準備を整えておくように」

 重臣たちは人足に担がせる蓮台という物で川を渡るので支度は必要ないが、身分の高くない者たちは自分の足で川を渡ることになる。荷をまとめるのは川越しの人足に任せて、修之輔たちは三々五々、建屋前の広い地面で各々川越しの支度を始めた。

 馬を任されている修之輔は残雪に騎乗して川越えをするため、袴の股立ちを深く取り、袖も襷でまとめて絞った。周りを見ると外田や小林、そして山崎らは一様に着物を脱いで下帯一枚の姿である。全身が川の水に浸かるので、徒歩で渡るものはこの姿でなければならない。

 春とはいえ何も着ない状態はやはり肌寒いらしく、腕を擦る仕草を見せている者もいるが、恰幅の云い山崎は腹を揺らして意に介していない。


「おい、小林、ちょっと体を温める必要があるな」

 外田が自分の腿を手の平で打ちながらそんなことを云い出した。

「外田さん、一番、やってみますか」

「おう」

 渡河の支度とはいえ多くの者は着物を脱ぐだけ、時間を持て余した彼らは前庭で相撲を取り始めた。外田に投げられて地面に転がった小林の代わり、支度が済んだ者が寄ってきて次の取組みが自然に始まる。そのうち、これも川越しを待つ西川氏が建屋の縁側に出てきて手を打ちながら見物し始めた。


「西川殿、弘紀様の蓮台の準備ができました」

 相撲が始まりそんなに時間が立たないうち、そう冷ややかに告げに来た加納の視線に射すくめられ、西川氏は慌てて建屋の中に戻っていき、急拵えの相撲取り組みは二、三番勝負を終えてすぐさま解散した。

 支度ができたのなら河原に行っていろ、との加納の指示に、外田や山崎たちはその場をすみやかに立ち去って、修之輔は馬の背に乗せる荷を受け取ってから彼らの後を追った。


 残雪と松風を牽いて川原に出ると、折から絹糸のように細い雨が降ってきた。

 数日前まで雨だったという今の時期、天候は変わりやすい。雨糸の来し方を眺めれば、空高く、揚げ雲雀の声が聞こえてきた。囀る雲雀の声は止むことなく、雨と共に空から落ちてくる。

 そうして目の前を流れる大きな川は、修之輔が知っている黒河の地を流れる川より緩やかそうに見えて幅が広い。これでも水は退いたというが、それでも時折岩に当たって砕ける流れは充分に強い様に修之輔には思われた。


「おお、なかなか大きいなあ」

 先に川原に来ていた木村が声を上げて、後から来た者たちもそれに口々に同調する。

「いやしかし、海に比べればこんなもの」

「まあな。だいぶ浅いな、底の石が見えるぞ」

 羽代の海辺で生まれた彼らは、山間に生まれ育った修之輔とは違う見方をしているようで、泳ぎにも心得があるのだろう、強い水の流れもまったく怯む様子を見せていなかった。


 やがて弘紀の駕籠を乗せた蓮台もやってきた。弘紀は駕籠ごと乗せられたこの蓮台で人足に担がれ、川を渡ることになる。

「雨が降り始めましたが、これより渡河を開始してもよろしいでしょうか」

 加納が最後の確認だろう、降る雨の様子を伝えながら弘紀の意向を訊ねる声が聞こえた。

「この辺りだけで降る雨ならば、川の水位に影響しない。すぐに渡ろう」

 渡河に際して駕籠の入口の戸は全て開けられていて、代わりに下げられた御簾の向こうからよく通る弘紀の声が聞こえた。


「渡河を始めよ」

 加納の号令で、まずは慣れた川越え人足が水の中に入る。

 次いで外田たち羽代藩士の下士たちが長い綱に捕まりながら一列で川の中に入っていった。上流側一列になって足を踏ん張り、その下流を弘紀の駕籠を乗せた蓮台が進んでいく。


 残雪に騎乗した修之輔は、松風を牽きながら弘紀の駕籠の下流側から川を渡り始めた。前を行く荷馬は何度も渡河に慣れているので慌てることなく、その様子を見て他の馬も水の中を歩いていく。松風に至っては途中で足を止めて体に当たる水の流れを楽しんでいるようで、修之輔が何度か強く引き綱を引く必要があった。それでもおおよそは素直に川を渡ってくれたのはありがたかった。


 川を中ほどまで渡った辺りで弘紀の駕籠が乗る蓮台の方に目を向けると、弘紀は御簾を上げて川の流れに手を触れていた。水面から目を上げた弘紀と目が合う。本来ならば馬の足を止めて目を伏せなければならない決まり。けれど。

 皆の注意は自身の足元に集中しており、誰もこちらを見ていない。視線を外さないまま、修之輔が残雪の足を進めていると、弘紀が手に平に掬った水をこちらに飛ばすような仕草をして、その水の飛沫が蓮台を担ぐ人足の頭にかかった。

 さすがに気まずかったのか、弘紀はすぐに御簾を下ろして、その後は駕籠から身を乗り出すようなこともなく、大人しく運ばれていった。


 皆が無事に川を渡り終えて対岸の川辺で行列を立て直し、羽代の大名行列が宿場に入ったのは、そろそろ夕暮れも間近な時間だった。


 宿場の中央、陣屋に泊まるのは弘紀を始めとした重臣が主で、徒士のほとんどは周辺の宿に分散して泊まることになる。修之輔が陣屋の厩に松風と残雪を繋いでいると、そこで帳面を繰っている山崎に今晩の宿を指定された。

「秋生は西野屋だ。同じ宿に外田や小林がいるから、まあ、煩いだろうな」


 言われた西野屋という宿に向かうと、山崎に言われたように既に外田と小林の他に数名がいて、けれど何やら萎れている。

 荷役の仕事は今日までで別の宿に泊まっているはずの木村の姿もあったので、何があったのか聞いてみると、今夜は絶対に酒を飲むな、と強いお達しが全ての藩士全員に向けてあったという。

「初日っから外田さん達が遅刻するから、加納様が締め付けを厳しくしたんだろうな。自業自得だ」

 風紀が乱れるから、明日羽代に帰る者達も一律酒を飲むな、とのそのお達しに、まるで誰かの通夜のように座敷の中全体がしょぼくれて、川の水で冷えた体を丸めながら皆が早々に寝具に潜り込んだ。初日の夜から騒がれることを内心案じていた修之輔は、ほっとした、というのが正直なところだった。


 翌朝の出立は日の出と同じ時間だった。

 荷役に就いていた木村達数名は、今日、羽代に戻るだけなので寝ていてもいいところ、わざわざ夜明け前に起きだして宿の外で修之輔たちを見送ってくれた。

「儂らは城に戻るその前に、名物の餅でも食べて帰ろうと思っている」

 川越え人足を現地で雇うと金がかかると、加納が算盤を弾いた結果、ここまで連れて来られた木村たちだが、こういうことでもなければ藩の外に出ることはない、と、江戸には行けなくてもそれなりに遠出の楽しみを見つけているようだ。

 城勤めの顔見知りと藩公認で泊りがけの遊山に出たようなもの、帰る道すがら、いくつかの神社仏閣にもお参りしていくつもりらしい。


「達者でな。無事に羽代に戻るのを待っているからな」

 手を振りながら云う木村の声を背中に聞きながら、昨日の川越しとその後の十分な睡眠で、今朝はやけに元気よく張り切る外田たちとともに、まずは藩主が泊まる陣屋へと向かった。

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