俺だけじゃ3分で倒せないから

榎坂 祥

俺だけじゃ3分で倒せないから

 風邪予防は人一倍やっていた。はずだった。

 こまめな手洗いうがい、腹を出して寝ない、雨に濡れない、そして風呂上がりはまず髪を乾かす。

 それなのに風邪を引くものなのだからウイルスの力は恐ろしい。目に見えずに攻撃されていることもあり、さながら幼い頃に見た視えない敵と戦うスーパーヒーローを思い起こさせた。感覚を頼りにキックやパンチを放つも、敵は瞬く間に蜃気楼のように消え失せて、気づかぬ内に背後を取られ攻撃される。スーパーヒーローは味方の応援もあり無事に敵であるエイリアンを倒せるのだけど、悲しきかな俺に味方はいなかった。ウイルスに潜入され、対抗できないまま布団でゲホゲホ咳き込んでいる。

 スマホのメッセージアプリで送った救援信号には、既読の履歴はついたが返信はない。それもそうだ。半年前に別れた彼女へのメッセージだ。酷い別れ方だったものだから、返ってくるはずもない。

 理由はもう覚えていない。同棲で積もり積もった諸々がお互いに爆発して引けなくなり、そのまま交際解消という笑えない結末。もっとマシな別れ方があったよなあ、とは一人で缶チューハイを飲んでいる時によく出る言葉だった。またポツリと出るその言葉が一人には大きすぎる2LDKの部屋によく響く。

 その他に頼れる人はいなかった。友人は転勤が多く、近くには住んでいない。一番近いやつでも片道一時間だった。さすがに風邪程度で一時間仕事終わりに来てくれとは言えない。

 外を見れば気づけば夜になりかかっていた。夕焼けをじっくり見ることなんてほとんどない。平日の仕事中は瞬く間に時間が過ぎ去っていく。仕事中は出社、気づけば昼、気づけば定時で外は夜だ。こんなこと、仕事で休む以外に平日では味わえない。

 今日は一日寝て過ごしていた。それ以外にやる気もないのだけど、ここまで寝ているとさすがになにか動かなきゃいけないという気持ちになる。適度に動くからこその昼寝の気持ちよさだということを再認識した。週末、午前中に家事をしてお昼過ぎから寝るというあの贅沢さと現状は違った。もう寝たくない、という気持ちでいっぱいだった。

 腹がぐう、と鳴る。そう言えばなにも食べていなかった。

 家にあるものを上手く動かない頭で思い起こしていくが、ほとんどない。米も昨日の夜炊いてある分は食べきってしまったし、カップ麺もあるのは最近ハマっているキムチラーメンくらいだ。米を炊く気にはなれないし、好きだと言ってもこんな辛い時にキムチラーメンは食べられなかった。コンビニも近くにはなく、他人事のようなどうしようかがぼやっと脳内に広がる。

 風邪を引きたくないのには理由があった。林檎が嫌いなのだ。

 実家にいる時、風邪をひくときまって林檎を出された。その都度母へ「嫌だ」と言ったが、無理に口に押し込まれ水をぐいっと飲まされた。そのことから風邪をひかないようにしようと強く思い、現在に至るというわけだ。

 そもそもどうして林檎を嫌いになったのか、ということだが昔のある出来事が原因だった。

 その昔、林檎が好きだった俺は空腹になると冷蔵庫から林檎を一つ取り出し皮を剥かずに齧りついていた。母が林檎好きだったこともあり、大体一パックは常備されていた気がする。虫歯になるから、とお菓子をあまり食べないようにされていたこともあり、手軽に空腹を満たせる林檎は俺の中で理想のおやつだった。これだったら母に怒られない。

 しかしある時、林檎を食べている途中にトイレへ行き、戻ってくるとその変わり様に俺は驚いた。あんなに綺麗な実の白い部分が汚く茶色に汚されているのだ。

 脳裏をよぎったのは、弱肉強食の世界だった。弱者が逃げ、強者がそれを追って食す。鋭い牙が弱者の皮を剥ぎ、肉を貪る。自分がこの林檎へやっていることはそれと同じじゃないか、と思った。

 そう思うと林檎の味、食感、全てに対して嫌悪感を頂いた。噛んだ途端に出る酸味を伴う甘み、しゃきりとした食感、噛む毎に味を増す粒。全てに対し、俺は一瞬の内に受けいれられなくなった。

 そもそも俺が食しているものすべて、弱肉強食の世界に当てはまるんじゃないかと気づいたのはもう少し年をとってからだったが、まあ納得することは出来た。栄養不足による貧血の代償と母の食事の美味さのおかげだ。

 チャイムが鳴った。半身を上げたが、普段チャイムが鳴らないため本当に自室のチャイムか不安になる。程なくして二度目のチャイムが鳴り、これは恐らく自分の部屋のだなと思った。ベッドから降りて立つ。どっと疲れが襲い、貧弱な体が不安定に揺れる。そのまま足を踏み出そうとするが揺れに負けてしまい、俺はベッドに倒れ込んだ。今までひいてこなかった風邪のツケが回ってきたらしい。さすがに今、人と会うのは厳しそうだった。

 頼れる人がいないと言ったが、課長は俺の家を知っていた。酔いつぶれた俺を何度か送ってくれている。仕事を休んだ手前、風邪辛いのでなんか買ってください、と言うのはおこがましく救援信号は送っていない。

 最悪、家の前に買ってきてもらったのを置いてもらおう。よく考えればわざわざ来てくれた目上の人へなんという横暴な態度か、と思うが体が思うように動かないのでしょうがない。こればっかりは仕事で返すしかない、と考えていた。

 ガチャ、と不穏な音が鳴る。新聞か、と思ったがそもそも俺は新聞を届けるようにしていない。アプリで見ている。じゃあなんだ、と思う時には扉の開く音がしていた。

 カツ、と甲高い音がしてその後早足に廊下を抜ける音が聞こえ、俺が立ち上がる間もなく侵入者は俺の前までやってきた。

「ずいぶんとやつれた顔してんね」

 ベッドで横たわる俺は、ちらと声の方を一瞥するとそこには半年前より心なしか綺麗なあいつがいた。

「……来たのか」

「そこはありがとうでしょ。むしろなんなら女神よ、女神」

 はあ、と相槌を打つとむすっとした顔で彼女はキッチンの灯りを点けておもむろに作業を始めた。軽口も聞けないくらい重体だとわかったのだろう。

 その後、彼女に起こされるまで俺はベッドに横になっていた。不機嫌そうな顔で皿を持ってきている。取れ、ということなのだろう。俺はそのまま皿を受け取った。

 中には綺麗に切られた林檎が入っていた。うげっ、と声を出す。

「なにかご不満?」

 俺は思いつく不満を口から出そうと思ったがだるさで上手く口が動かない。重い頭を左右に振った。

 綺麗に切られた林檎は心なしか美味しそうに見える。その勢いのまま、素手でひょいと口に入れる。瑞々しい食感、噛むとシャリシャリと粒が広がり、そのまま俺は飲み込む。風邪のせいか味はそこまで感じない。

「あんまり気分じゃない」つい本心が口に出る。

「あんたねぇ……!」

 病弱の人間へ繰り出される罵詈雑言。俺はなんて酷い女だと思うも、それよりもまだ合鍵を持ってくれていたことに嬉しくなる。

 もう一口言ってみるか、と説教中の彼女を横目に林檎をまた一口食べる。苦手なものの克服に必要なのは案外勢いなのかもしれないな、と思った。そう言えば、スーパーヒーローは結構勢いで敵を倒していた気がする。

 そんなことを考えるのと同時に、今まで避けてきた問題もなんとか勢いで解決できるんじゃないかとさえ思い始めている。

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