第34話 最後の事件3
「あ」
手を滑らせて、落ちていくスープ皿。残念ながら映画のようなスローモーションとはいかず、声を上げる間に綺麗にひっくり返ってしまった。
「おい」
「分かってる。ミネストローネだ。残念ながらミルクスープじゃない」
「何も分かってない。白いカーペットだからな」
「血の海だね。真っ赤になってる」
タオルをかけて上から叩くが、乾くくらいで色は残るだろう。
「仕事帰りでもカーペット見てこようか?」
「いい。安物だ。あとでネットで買おう……仕事帰りって言ったか?」
「言った。仕事だよ、今日も」
「……………………」
こういう場合、いつもならジョークを交わしながら言い合えるのに、どうにも乗らない。
冷凍フルーツでスムージーを作ったが、あまり美味しくはなかった。野菜の入れすぎで、生臭い。何もかも上手くいかない朝だった。
事件が飛び込んできたのは、午後のランチを終えたときだった。
マンションで立てこもり事件があったと緊急が入り、上司のドーソンは頭を抱えた。
組織の殲滅は終えていないというに、事件はこちらの事情なんてお構いなしだ。最悪なことに、人手不足でうちのチームが行くことになった。
「男が銃を発砲。隣の部屋の住人が通報した。男が二人、女が一人。子供がいるが、女が幼稚園に送っていく瞬間は見られている。だから部屋にはいないと思われる」
本当に警察か、と疑いたくなるほどやる気がないドーソン。
「マンションの名義だが、エリー・ブラウン。子供と二人で暮らしている」
「エリーだと?」
「知り合いか?」
「……俺の元妻だ」
隠したい理由は山ほどあるが、どうせばれる。それなら自ら暴露した方がいい。
「一緒にいるのは、リックの可能性が高い」
「リック……モリスか?」
「そうだ。依頼で子守りをしている。今日も呼ばれた可能性が高い」
「あいつはまた、なんでこう……」
「あいつがトラブルを起こしたわけじゃない。俺も現場に向かう」
もとあといえば俺のせいでもある。家庭のゴタゴタに巻き込んだ。
オーズリーが自ら運転手役を買って出てくれ、俺は助手席へ乗り込んだ。
「あなたの元妻は、銃を持っているのですか?」
「俺と住んでいた頃は持っていなかった」
「そうですか。三人部屋にいるとして、一人がエリーさん、リック、それともう一人は?」
「出入りしている男がもう一人いる。子供はドーラというんだが、その子の父親だ」
オーズリーは話そうとして、口を閉ざした。複雑すぎてフォローもできないのだろう。俺、元妻、子供の父親と、三拍子揃ったハリケーン状態だ。
俺の道案内で数台のパトカーを引き連れ、エリーのマンションへやってきた。銃声のせいか人通りはなく、かえって好都合だ。
「あのブラウンのマンションだ」
カーテンは閉まっていて、中は覗けない。
「連絡先は分かるか?」
「エリーとリックなら分かる」
どちらにかけるべきか。おそらく、問題を起こしたのはエリーだ。誰が銃を撃ったかは定かではないが、リックではない。あいつは銃を持たない。
端末を前に固まっていると、オーズリーが手を掴んできた。
「暴走していると思われるのは?」
「多分としか言いようがないが、エリーだと思う」
「私がかけます」
「リックじゃなくてか?」
「ええ。まずは、犠牲者を出さないように気持ちを鎮めなくてはなりません」
「お前に任せる」
オーズリーは盗聴できる端末から電話をかける。運転しながら話をまとめていたのだろうが、タップする指に迷いが一切なく、頼もしいにもほどがある。
『ハロー』
電話に出たのはエリーではなく、赤毛の男だ。俺の恋敵だった男。
「銃声が聞こえたと通報が入りました。あなたにお怪我はありませんか?」
『だ、大丈夫……でも俺じゃなくて……便利屋さんが……』
「怪我をされたのですね。状況をお願いします」
『…………、…………』
拳を作り、落ち着けと自分に言い聞かせた。頭に血が上っては、できることもできやしない。
『腕を、包丁で……』
「できれば怪我をした便利屋さんに代わって頂きたいのですが」
電話の奥で、女の声が聞こえる。エリーだ。怒鳴り声が木霊し、隣で聞いていたドーソンも顔をしかめる。
『…………やあ』
「便利屋さん、怪我の具合はいかがですか?」
『ミネストローネくらいかな? 腕の感覚がない』
「ミネストローネ?」
血の気が引いた。
俺にしか分からない話だ。オーズリーは何かの暗号かと首を捻るが、分からなくても無理はない。あいつは今朝、皿をひっくり返してミネストローネを零した。それくらい血が広がっているのだろう。
電話をひったくり、代わりに出た。
「おい」
『やあ』
一言で理解した。声がおかしい。息遣いも荒い。
あ、と声と共に電話に雑音が入ると、次に出たのは元妻だった。
「エリー」
『私の子供を連れてきて! 子供と一緒に死ぬわ!』
「バカなことを言うな。簡単に口にするもんじゃない」
『どうせ私なんて生きていたっていいことないのよ!』
お前のせいで夫婦生活は終わったんだ。口から出そうになるが、ここは抑えなければならない。一にも二にもリックの命だ。
「望みはなんだ?」
『何でも叶えてくれるの?』
「できる限りは。その代わり、そこにいる全員解放してほしい」
『嫌よ』
「ならば、せめてケガ人だけでも」
『じゃあ代わりにあなたが来て』
「分かった。一度切る。またかけ直す」
ぎょっとするオーズリーを前に、電話は勝手に切らせてもらった。
「何を考えているのです?」
「カメラはあるか?」
オーズリーの小言を綺麗に無視し、渡されたネクタイに付け直した。真ん中に小さな穴が開いていて、ここにカメラが仕組まれている。
「リックを頼む」
「分かりました」
「電話の通りだが、代わりに俺が中に入る。それまで突撃するなと伝えてほしい。まずはケガ人を病院へ運ぶのが優先だ。かなり出血していると想定してくれ。ドーソン、許可がほしい」
名ばかりの上司だが、上司であることに変わりはない。
ドーソンは嘆息を漏らし、許可を出した。
エリーに電話をかけると、さっきよりもいくらか落ち着いているように聞こえた。
「俺と、もう一人いく。そいつにケガ人を渡したら、俺が代わりに中へ入る」
『本当に来てくれるの……?』
「ああ」
来るの、ではなく、来てくれるの。違和感のある言葉だ。まるで俺が来るのを見越して待ちわびていたような。
だとしたら、俺はまたあいつを巻き込んでしまった。父も俺も、あいつから何もかも奪っていく。たった一人守れなくて、何が警察官だ。
「行こう」
「ええ」
オーズリーと短めに会話し、服の上から銃に触れた。
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