第3話 親友の最期

 明日は休日なので、少しアルコールを飲もうと戸棚を開けた。

 アルコールはそれほど強いわけではないが、身体の緊張を解すにはちょうどいい。泣きもせず怒りもせず、寄り添ってくれる存在が必要だった。今の僕には誰もいない。

 チーズをつまみに二杯目を注いだとき、外で誰かの足音が聞こえた。

 近づいてくるたび、ほぐれたはずの身体に一本の線が通る。背筋を伸ばし、足音の向かう先に耳を集中させる。

 足音は僕のアパートの前で止まった。立ち上がると、アルコールの入った身体はしっかり立てずにソファーの背もたれに手をついた。

 インターホンをつけてみるが、誰もいない。人は誰もいないのだ。

 明かりに照らされ、計算し尽くされていない影は、残念ながらモニターに映し出されている。

 相手の息遣いが聞こえる。性別は判断できない。けれど男性としか思えなかった。男性の息遣いは、いろんな意味で僕はよく知っている。

 たった数分が何時間にも感じ、インターホン越しの男性は来た道を戻っていった。


 ソファーの上で目が覚めた。

 僕はいつの間にか横たわって眠っていたらしい。

 目覚まし時計の代わりはインターホンで、しつこく音を鳴らしている。一瞬、仕事に遅刻すると飛び起きそうになったが、今日は休日だと思い出した。

 アルコールは抜けているが、小腹が空いている。満たすためにも、まずはモニターをつけた。こちらをなんとかしなければ、気が散って食事に集中できない。

 モニターには誰も映っていない。昨日とは違い、影もない。

「誰だ?」

『俺だ』

 聞いたことがあるような、ないような。

 リビングを出て解錠したのと同時にドアが開き、足を無理やりねじ込んでくる大きな足。不機嫌そうな顔とセットで、僕も猛烈に同じ顔をした。

「……お前はインターホンの確認もせずにドアを開けるのか?」

「確認したよ。影すら映ってなかったね」

「威張って言うな。ミスター・モリス」

 気のせいではなく、なんでか機嫌が屈折している。

「お前は警察に偽名を名乗るのか? 本名を名乗れないほど前科持ちなのか?」

「……………………あ」

「……………………」

「言えない訳じゃなかった。ただ本名で呼ばれることがないからつい」

「入るぞ」

 僕ごと押し込んだジルベルト刑事は後ろ手に鍵をかけ、客人用のスリッパを勝手に履く。

「コーヒーでいい」

「ロスの刑事は勝手に人の部屋に上がるんだな」

 嫌味もしっかり無視してくれて、ギルバート刑事はリビングに行くと、すぐにインターホンのモニターをつけた。

 僕は棚を漁り、お目当てのパスポートを彼に投げた。

 片手で簡単に受け取ると、自分のメモ帳を見比べていく。

「リク・ヨヨ・モリス……」

「そっちが調べた本名も間違いないだろ?」

「ああ。合ってる。ミドルネームはどういう意味だ?」

「日本でもかなり珍しい分類の名字だよ。ナイトという漢字が二つ続いている。名前のリクは……アメリカではリックの方が発音しやすいだろ? 日本語だと広大な土地を意味している。母方のファミリーネームだよ」

 漢字にすると『夜々』と書く。日本人にも必ず聞き返される。

「ヨヨにモリスか。運命のふたりが出会って、お前が生まれたんだな」

「見た目のわりにロマンチストなんだな」

「映画では恋愛ものを選ぶタイプだ。昨日、誰かここにやってきたか?」

 返事の代わりにじっと彼を見た。

「俺はお前の家に来たの今が初めてだ。昨日の夜、雨が降ったんだ」

「降ってたか?」

「ああ。お前は酒を飲んでぐっすりだったようだが」

 テーブルには出しっぱなしのワインの瓶とグラスがある。二杯しか飲んでいないので、まだ瓶には液体が残っている。

「ここの部屋に続いて足跡が残っていた。泥の跡だ。お前のじゃない。往復していたからな」

「昨日、僕が見たときは降っていなかった」

「見たとき?」

「知らない男が来たんだ。インターホン越しだから男かどうかも定かじゃないけどね。アンタなら影を映すヘマはしないだろ」

「ってことは、雨が降る前と降った後に来たことになる」

 手慣れた様子でインターホンを弄くり回し、昨日の二十一時頃の様子を映した。録画機能がついていて良かった。

 刑事様が自らのスマホで撮影している間、僕はテーブルを片づけて苦めのコーヒーを二杯入れた。

「一応、信じてくれていたんだな」

「近所の窃盗事件の容疑者からは外れちゃいないがな」

「僕じゃない……って言っても、警察は疑うのが仕事か」

「安心しろ。俺個人ではお前だと思っていない」

 個人では。上手い逃げ方だ。だが彼の本心のような気がした。

「どちらかというと、疑われているのはお前の相棒だ」

「ジロー? なんで?」

「奴は金に困っている。お前と違ってな」

「金に困っている奴なら山ほどいるさ。ジローじゃなくてもね」

「可能性の話だ。お前の犯人説が二パーセントだとすると、彼は八パーセント……いや、六パーセント」

「結局僕への疑いも残ってるじゃないか! 一パーセントでもあるのは何を言っても通じない」

「お前へのパーセンテージはアメリカ国民に対しての数字と大して変わらないさ。そもそも重度の喘息持ちで、防犯カメラに映らないように位置も確認しながら空き巣に入るのは、なかなか重労働だろう。奴は階段を二段飛ばしで駆け回った形跡がある」

「喘息への疑いは晴れたんだな」

「ゼロパーセント。あとミルク」

 ブラック派だと思っていたが、ミルク派らしい。おまけに恋愛映画が好き。どうでもいい情報ばかりが蓄積していく。

「それより、何か用だったか?」

「お前、ジェフ・カーターは知っているな?」

 刑事の取り調べはこうも唐突に行われるとは。

「平和なアパートで尋問が行われるなんて思いもしなかったよ」

「だろうな。お前の初恋の想い出とともに心の奥に閉まっておいてくれ」

「あるよ。四日くらい前……だったかな。仕事帰りに偶然会った」

「偶然?」

 訝しみながら、ギルバート刑事はカップを置く。

「俺は、あくまで、偶然だと思ってる。連絡先も知らないし。名刺だけ渡したんだ」

 区切りながらご丁寧に言うと、なるほど、と小さく呟く。

「僕の仕事場から近くにバーが立ち並ぶところがあるだろ? そこのバーで会った」

「店の名前は?」

「オアシス。ゲイバーだよ」

 ペンを走らせる手が一瞬だけ止まる。が、何事もなかったかのように滑っていく。これで僕の小さな秘密はまたしてもばれた。それほど隠しているつもりもない。

「ジェフから連絡は来てないよ。捜しているのか?」

「だろうな。二度と来ることはない」

 二度と。

 頭に静寂が訪れ、図体の大きな男が何を言っているのか理解できなかった。外で車の走る音がいやに大きく聞こえる。

「おい……どういうことだよ」

「こっちが聞きたい。だからやってきた」

「ジェフは……?」

「死んだ」

 二度と、と言われたときよりも、覚悟はできていたせいか、身体に力を入れ立っていられた。

「なん、で…………」

「車が爆発した」

「本当に……ジェフの車だったのか……?」

「身元を確認するまで、少々時間がかかった。なんせ跡形もないほどボロボロだったんでな」

「いつ…………」

「二日前だ」

 記憶を辿っても、ジェフの姿はバーで会ったとき以来だ。

 ギルバート刑事は、僕から目を離さない。そういえば、ストーカー事件への疑いが何パーセントなのか聞いていなかった。

「僕が殺った確率は、どのくらいで考えてる?」

「九パーセント。だがこれは証拠を元に出した数字じゃない。殺人の場合、近しい間柄の人間の犯行である確率は高いし、まず疑う。それか殺人快楽者。お前は事前にミスター・カーターとばったり会っている。そこからお前じゃないと差し引いた数値だ」

「奥さんには連絡をしたのか? 子供もいるんだ」

「子供は親戚に預かってもらっている。遺体の身元確認は彼女にしてもらった。家庭の事情は知っていたのか?」

 彼の言う『家庭の事情』はどこまで示しているのか。妻や子供がいる程度の話なのか、はたまた彼はゲイで家族に隠して父となっていたことか。

「…………ああ、妻や子供がいると聞いていた。バーで聞いたばっかりだけどね」

 俺は前者を選んだ。例え彼が知っていたとしても、話す義理もない。

「ちなみに、二日前の夜は何をしていた?」

「仕事が終わって買い物をして……シャワーを浴びて食事だな。見事にアリバイはないね。ミルクや小麦粉、フルーツを買い足していたよ」

「そのとき、ストーカーに追われるようなことは?」

「なかったと思う……多分」

「多分?」

「後々になって判明することも多いからね。メールボックスに手紙が入っていたとか」

「今日、確認したか?」

 連続的に起こる間に耐えきれなくなり、僕はソファーから立った。言われると嫌な予感がする。

 足早に玄関へ向かう僕を押し、ギルバート刑事は先に扉を開ける。「お嬢様扱いだな」と独り言。

「嬢ちゃん、探偵の性かもしれんが、何にでも首をつっこむな。俺の勘だが、お前は厄介な事件に巻き込まれている」

「ようやく気づいたか。僕は最初から知っていたよ」

「優秀な探偵さんだ」

 外には誰もいない。アパートの住人の足音すらない。

 一階へ降りると、持っていた鍵を差し込みゆっくりと解錠した。

 これ以上、心臓に負担をかけないでほしい。

 白い封筒が赤黒く染まっている。完全に乾いてはいるが、微かな生臭さが鼻を刺激する。

──どうして振り向いてくれない?

──どうして分かってくれない?

──ずっとずっと、見ていたのに。好きだったのに。

──僕を煽る君が悪い。

 立ちくらみがし、足下がふらついたが、間一髪で落ちずに済んだ。

 見た目通りたくましいが、成人男性を片手で支えられるくらいの強さがあるんだな、と意識を手放した。

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