第2話 見えない何かと繋ぐもの

「あら、いらっしゃい」

「やあ、リサ」

 ちょうど目の前のカウンターが空いていて、彼女の前に腰を下ろした。

「何にする?」

「度数の少ないものがいい」

 彼女とは大学時代からの友人だ。尤も、前は『彼女』ではなく『彼』であったが。声が低いセクシーな女性で、男性と言われなければほぼ見抜けないほど綺麗な女性だ。

 豊満な胸を揺らすたび、男どもの視線は『彼女』に釘付けになる。だがそんな男は願い下げだと、よく口にしている。彼女が求める男性像は、誠実でそっと寄り添ってくれる人。なかなか理想の人に出会えないんじゃないかと告げたら「そうでもないわ」。

 アップルの香りがするグラスを受け取り、半分ほど流し込む。炭酸が喉に染み、疲れが取れるようだ。

「アップル・ロワイヤルよ。まだ飲んだことがないでしょう?」

「ああ。初めてだよ。とても美味しいね、これ」

「なんだか疲れているわね。どうしたの?」

「どうしたものこうも、空き巣の犯人にされそうなんだ。抱えている難事件もあってね」

「あらまあ」

 顧客の情報というわけではないので、ことの発端から掻い摘まんで並べていく。ストーカー被害に合っていること、最初は手紙だけだったが今は猫の死骸まで置かれるようになったこと、近くのビルで空き巣があったこと、そしてストーカーがねつ造であって僕が空き巣の犯人ではないかと疑われていること。

 二杯目のカクテルをもらい、こちらはひと口ずつ味を噛みしめる。ココナッツの味がする。「マリブ・ミルクよ」。

「警察はあなたがストーカー被害にあっていることと、空き巣が繋がっていると思っているのね」

「ああ、そうだ。そもそも空き巣をするほどお金に困ってはいない。ちゃんと生活できている。そんなものはアリバイにはならないけどね」

「それはそうね。空き巣を趣味とするような輩だって存在しているくらいだし。防犯カメラはつけたの?」

「つけたさ。けど避けてるんだ。まるでカメラの位置を知っているみたいに」

「カメラの位置を知っているのはだあれ?」

「僕と警察と相棒のジローだけだ。誰もやるような人は……」

 考えても脳を叩きつけても、やるような人はいない……としか言えない。本当にいないのか?

 警察はギルバート刑事とキム刑事。しかも知っているのは名前だけだ。彼らのことは、道を歩く人々と同じくらい、何も知らない。

 相棒のジロー・スミスといえば、フランス系のアメリカ人で、名前が日本人にもよくいる名前からか、妙に馴染んで学生時代に仲良くなった。ジローという名前はフランスでもそれほど珍しくない名前なのだそう。家族は入院している弟がいる。お金が必要だとよく言っていた。

 まさか。

「心当たりでもあるの?」

「いいや……そんなことは」

 嫌な予感が頭をよぎり、俺はとんでもないと瞼に力を入れた。相棒を疑うなんてどうかしている。誠実な彼が、空き巣もストーカーもするはずがない。

 そう思い、僕も刑事どもに煽られて、二つの事件が同一人物によるものだと思ってしまっていた。刷り込みは怖い。

「リサはストーカー事件の話を聞くのは初めてだよね? なんせ僕は被害にあってから一度も店に一度も来ていないんだから」

「やだ、私を疑ってるの?」

「違うって。店で僕のことを知って、ストーカー化した可能性も視野に入れてるんだ」

「残念だけど、私はアリバイだらけだと思うわよ。たくさんの人に囲まれて仕事をしてるわけなんだし。お客さんって観点は……どうかしらね。あなたの後を追って出ていった人はいないはずだけど」

「モテない男はつらい」

「そんなことはないわ。あなたの斜め後ろの人、気にしてるわよ」

「好みの男性だと嬉しいけど、あいにく今は誰とも付き合う気はないんだ」

「それどころじゃないわよね。何か聞かれたら言っておくから」

 リサは息を呑んだ。僕に目配せをし、背後にいる男性にまだ飲むか聞いている。

「もしかして……リック?」

「…………ジェフ?」

 肩を掴んできたのは、大学時代の友人だ。なるほど。僕に気があると言っていたのは、彼だったようだ。

「久しぶりじゃないか。ひとりか?」

「ああ、ひとりだよ」

 ジェフは隣に座り、ワインを注文する。

「大学以来だなあ。今は何をやってるんだ?」

「興信所で働いてる。ジローは覚えているか?」

「ああ……まさか彼も?」

「彼と一緒だよ」

「昔から探偵に憧れてたもんなあ。ジローにも会いたいよ」

 拳を合わせ、ジローは隣に座る。

 学生時代から、なんとなく察してはいた。同類であれば、匂いで分かるというやつだ。ここにいるということは、そういうことである。

 左手の薬指には、銀色に光る指輪がある。しばらく経った証に、少し汚れがついていた。

「妻も子供もいるんだよ。毎日幸せで、子供も可愛い。けど、それは自分を騙した結果なんだ」

「奥さんとはうまくいってないのか?」

「順調なくらいうまくいってるさ。ただ……この生活が嘘っぱちに見えるんだ」

 記憶の中のジェフはいつも言葉少なげで、友人が何かするたびに側で寄り添ってい笑っているタイプに見えた。結婚とは一番近くて遠い人。それなりに仲が良かった俺たちは、あることがきっかけでばらばらになってしまった。

「ジローは……怒っているのか?」

「まさか。あるわけないよ。ジェフに子供もいるって知ったらきっと喜んでくれるさ」

 微笑んだ顔は、昔のままだった。

「あの頃の俺たちは若すぎたんだ。失敗とも思わないし、それぞれの想いが一致しなかった。それだけなんだ」

「……妻と出会ったのは、前の職場でなんだ。気さくで気の利いた、俺にはもったいないくらいの女性だった」

「うん」

「彼女の家は複雑でね、隠し子ってやつなんだ。ホテルを経営する社長と妻の間にできた子は別にいて、他の女性との間に生まれた子供だった。父親の稼ぎのおかげで、お金に困っていたわけじゃないらしいんだが、世間の目は冷たかった。……こんな話を聞いているうちに、悪魔が取引を仕掛けてきたんだ」

「へえ……どんな?」

 リサは他の客人と今日のラグビーの試合について語っている。リサは視野が広く、物事をよく知っている。スポーツや政治、天気だろうがなんでもこいだ。当たり障りのない知識を持っていて、客もどんどん彼女との話に夢中になる。それゆえ、店も繁盛する。

「もし、彼女と結婚したら……俺はゲイを捨てられるかもしれない」

「無理だね」

 僕はばっさりと切り捨てた。

「異性愛の人間が同性を好きになるのか? 逆もまた然りだよ。バイならともかく、趣味云々の問題じゃないんだ。僕なら趣味ですら捨てられないね」

「君の言う通りだよ、リック。捨てられなかった。可愛い子供が生まれて、違和感を蔑ろにできなくなってしまったんだ」

 ジェフの声が震えている。僕は背中を何度かさすった。

「自分がゲイなのも受け入れられない、なら女性と結婚すれば捨てられる。こんな考えなんか、大きな間違いだった」

 僕は背中から手を離した。ジェフが太股に手を置いてきたからだ。

「なあ、ジェフ。少し考えよう。受け入れて、家族を作ることだって大事だ。カミングアウトをして、それでも彼女たちと家族を作ることだってできる」

「できない」

「いや、できる。君は家族を愛しているからだ。それとすぐに答えを出すべきじゃない。君は大いに悩んだろうが、こうしてお酒を飲む時間だって大事なんだ」

「……ありがとう、リック」

 太股から手が離れていった。良かった。最悪の事態はどうにか回避できた。

 最悪なのは、僕自身だ。彼は望んだのに、僕は拒むことしかできなかった。僕は彼を選べない。いくつもの裏切りの矢印が僕を向くから。彼のためと言っておきながら、守ったのは自分自身。

「ジェフ、何かあったらこちらに連絡をくれ」

 僕は懐から名刺を取り出し、彼に渡した。

「すまない。今は持っていないんだ。次に会ったときは、必ず」

 切れ目のある瞳がウィンクし、それを合図に僕は席を立った。

 勘定は彼が持ってくれるらしい。僕はお言葉に甘えて、リサに挨拶を済ませると店を後にした。

 車に異常がないか確認し、エンジンをかける。日本の血が多く流れているせいか、日本車が身体によく馴染む。

 ジェフのおかげか、話している間はストーカーのことなんて頭からすっぽり放り出せた。残念ながら現実は今にも先にも存在していて、サイドミラーを何度も確認しながら帰宅した。

 今のところ、アパートにもおかしな点は見当たらない。

 携帯端末が鳴り、一瞬心臓が飛び出そうになる。

 相手はよく知る人物だ。

「どうしたんだ?」

『すまない、明日なんだが、休みをもらえるか?』

 一応、カレンダーを確認する。

「構わないが、何かあったのか?」

『ちょっと家族のゴタゴタがあってね』

「大事にしてくれ。今、少し話せるか?」

『ああ、大丈夫だ』

「今日、ジェフに会った」

 電話の奥で、ジローが言葉を失っているのだと気配で分かる。

『…………そうか』

「まだ、怒っているか?」

『いや……もう昔のことだ』

「今度は三人で飲みたいよ」

『ああ……そのうちな』

 言葉切れ切れのまま、電話を切った。

 フランス人の気質なのか、彼の性格なのか、少々頑固なところがある。しかし粘り強さを発揮し、事件を解決に導く強さもある。

 目を瞑ると、頭に浮かぶのは三人の別れ際の顔だった。

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