腸人
荒波一真
腸人
皆さんは人格の死というものをご存知でしょうか、目ん玉が潤んでいるにもかかわらず、かつての人ではなくなってしまう瞬間に、立ち会ったことがありますか。普通人格の死は身体の死に伴います、しかしそうでない場合もあるのです。認知症だとか脳出血だとか、とにかく脳がやられるといかんのです、どうしようもなくなるのです。三大疾病ということばが身近になったこのごろ、かくも無情な死の二重化はいたるところに潜んでおります。
私の朋輩である桜田も一時は危ぶまれたものでした。何しろバイクの事故でひどい横転をやらかしたと聞いたときは、ああこりゃおしまいだと思ったわけです。しかし彼は無事でした、正確にいうと彼という人格は変わりなく保存されたのです。桜田はみごとに復活しました、いささか奇妙な形には違いありませんが。
さて話は変わりまして、皆さんは腸の動く姿を見たことがありますか。お腹に手を当ててしばらく待ってご覧なさい、きっとぐるぐるじりじり蠢く空腸回腸結腸の生理作用が感覚神経を通じて伝わってくることでしょう。この収縮運動ならびに弛緩運動は、消化管内で完結しております。第二の脳と言われるくらい神経系が密集しているのです、この神経系が大したもんで、脳の司令を受けずとも勝手にうねうね動きます。いやはやまことに壮観ですよ。
桜田の大脳が機能不全に陥り、ベッドで植物状態の宣告を待っていたころ、どこから話を聞きつけてきたのか、単科医大の高名な教授が彼の両親をひっ捕まえていいました。腸に脳の一部を移植し、回復を促す手術を受けてみないか、と。脳蘇生の研究はかなり進んでおるそうでして、詳しい原理は分かりませんが、腸の高度な神経系が死にかけたシナプスの修復を助けるようです。教授は大脳を、つまり人間らしさを担う脳みそを腸の周りに繋ぎ止めよう、とまあこういう提案をしたわけです。両親は悩み抜いた末、彼に運命を託しました。
手術を終えて二か月が経ち、桜田はとうとう、人事不省の状態から立ち直ったのです。空になった頭蓋には綿様の樹脂が詰め込まれています。カメラ付き義眼と高感度補聴器は仰々しいものでしたが、どうしてなかなか、帽子を被れば意外と目立たないようです。腸に繋がる人工神経が脳幹に思考を伝えます。手術の成功を聞いたときは、本当に嬉しかった。しかしやはり違和感はあります。私と桜田は用のある度酒を飲み、世間話をする仲でした。それはもはや不可能でした。腸からにゅっと出たチューブを通じて、グルコースや栄養を直接摂取するのだそうです。一度その飯を見せてもらったことがあります。とても美味そうには見えませんでした。一緒にご飯へ行くことはできないのだなと残念に思いましたけれども、それはそれこれはこれ、桜田は生還してくれたのですから、私が悲しむのも変な話でございましょう。
腸の周りに移植された大脳は日々成長してゆきました、ボクシングが趣味で暇さえあればロードワークに勤しんでいた桜田の腹はどんどん膨らみ、もはや原型をとどめていません。彼はお腹を抱えるようにして歩きます、頭蓋の保護を受けない脳はひどく脆弱だからです。
少しずつしかし確実に、周りは彼を怖がるようになりました。そりゃそうです腸に脳がひっついた人間なんてそうそういない、ましてその不気味な複合体がぶよぶよぶくぶくに膨れていく姿を誰が好んで見るでしょうか。彼の話を聞く度私も悲しくなりました。それでも家族だけは理解を示してくれたそうです。
引き金となったのは同窓会です。幹部の彼は自分の変化を悟られまいとコルセットをはめて出席しました。次がいつあるか分からない、せめてあいさつだけでもと。会場へ向かう途中、痛い痛い腹が痛いと彼は繰り返しておりました。頭痛ならぬ腸痛です。コルセットの圧力は、気圧によるダメージの比でございません。やっとのことでたどり着いたものの、同級生は彼の奇妙な体型を笑い、透き通った義眼を笑いました。
帰ろうとする桜田を同級生は引き止めました。二次会へ連れていくためです。これがまったくいけなかった。抵抗するもみくちゃのなかで、とうとう知られてしまったのです、彼の腹に隠された秘密を。セラミック製コルセットの内に押し込められた、肥厚した大腸。浮き出る太い移植血管。全員が静かに遠ざかりました。化けもんだ近づくなという声がしました。
桜田は透き通った目でぐるりと辺りを見回しました。誰もが一瞬黙りました。変わったのは君らの方だ、僕はだいいち平気だというのに、変わったのは君らの方じゃないかっ。そう言うと彼は走り出し、二度と姿を見せませんでした。以来私は音沙汰を聞いておりません。というのは若干嘘が混じっております。私はたった一度だけ、留守番電話をとりました。ええ桜田に決まっています。非通知の履歴に残された「さよなら」の一言。これを聞いたとき、もう彼はどこにもいないのだと気づきました。桜田はもとより粗野な人間です。大通りをノーヘルで駆け回るような、どうしようもないくらい適当なはたちの男なのです。あれほど乾いた別れの挨拶をよこすやつではございません。
振り返ってみて思うのは、彼が辛うじて守ろうとした彼らしさを奪ったのは、腸にまとわりついた脳みそでも、空っぽの頭蓋でもなかったということです。
桜田がどこで生きているのか、はたまた死んでしまったのか、知るすべはもはやありません。それでも私は腹だけ出っ張った若者を見る度にどきりとします。そして視線の先がただのビール腹であることに、失望にも似た安堵を覚えてしまうのです。
腸人 荒波一真 @Kazuma_Q
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